第7話『逃げるだけだと思うなよ』
水の音がする。
目を覚ました《響兎》は岩のくぼみで耳を立てた。遠くで雫が落ちている。足元の隙間では細い流れが石を撫で、もう少し奥からは風の通り抜ける低い響きが届いていた。昨日まではひとまとめに聞こえていた音にも今はそれぞれ違う場所がある。
もっともそんな発見を喜ぶより先に鼻が動いた。腹が減ったのである。
夜のあいだに何度か自分の寝返りに驚かされたせいで眠りは浅かった。それでも食欲には影響がないらしい。岩のくぼみを出た響兎は残しておいた葉を齧り、しゃくりと鳴った音に片耳だけを伏せた。……昨日はこの音で跳び上がっていた。少しは慣れたと褒めておこう。
葉を食べ終えても腹は満たされない。鼻先にかすかな青い匂いが触れていた。湿った土と水に混じった若草の匂いだ。響兎は細い通路の先へ顔を向けて耳を交互に動かしながら歩き始めた。
岩道は下り坂を終えて少しずつ広くなっていく。足元には暗い裂け目がいくつか走っていたが、響兎はその手前で立ち止まり、前脚で石を確かめてから越えていった。暗い場所で何度も転んだ甲斐があったのだろう。少なくとも今日はまだ鼻をぶつけていない。
やがて奥から届く水音が大きくなった。岩に反射する音が増え、何かを聞き分けようとするたび耳の内側がざわつく。響兎が警戒して歩幅を縮めた先で通路が途切れ、視界が一気に開けた。
天井の見えない大きな岩室だった。左手の壁から滝のような水が落ち、白く砕けた飛沫が岩床を横切って右奥の暗い穴へ流れ込んでいる。反対側には乾いた岩棚が続き、その先に細い道が見えた。水辺には淡い光を宿した苔と柔らかそうな草がまばらに生えている。
なんとも素晴らしい場所である。水も草もあり、向こう側へ続く道まである。響兎にとっては申し分ない発見だった。ただ一つ問題があるとすれば、落ちる水がとにかくうるさいことだろう。
響兎は滝へ向けた耳を伏せた。細かな音がいっぺんに押し寄せてきて頭の奥がむず痒い。試しに耳を外へ向けても轟音は消えない。仕方なく岩棚の縁を伝って水際へ下りて匂いに誘われるまま若葉を一枚引き寄せた。甘い。思わず二枚目に口を伸ばす。ついでに三枚目にも届きそうだ。ほんの少し前まで周囲を警戒していたことなど口いっぱいの草と引き換えに忘れてしまったらしい。
困った兎だ。だが今回は忘れてはいけない相手がいた。水音の向こうから湿った皮革と泥のような臭いが流れてきた。若葉とはまったく違う匂いに響兎の鼻が止まる。口に挟んだ草を離して右側の岩棚を見上げた。そこには小柄な影が立っていた。
背を丸めた細い身体に長い腕。尖った耳と不揃いな歯を持つその魔物は《小鬼》。人類社会ではゴブリンとも呼ばれる種族である。片手には短い棍棒を握っていた。相手の体格こそ人間よりずっと小さいが、兎を見下ろすには十分な大きさがある。
小鬼は岩棚から水際の草地へ視線を落として小さな獲物を見つけた。細い口が横に開く。棍棒を軽く持ち直す仕草に迷いはなかった。
響兎は身を低くした。嫌な匂いはすぐ近くにあるのに、相手の足音がまるで聞こえない。水の轟音がすべてを呑み込んでいた。あれほど頼もしかった耳が役に立たない。小鬼が岩棚から下りてくる。草地は狭く、左は速い水流。右には一段高い岩棚があり、背後には通ってきた細道が続いている。飛び退く場所ならある。響兎は後ろ脚を縮めて相手の棍棒を見据えた。
小鬼が駆け出した瞬間、響兎も跳んだ。振り下ろされた棍棒が草を潰して硬い岩に当たって鈍い音を立てる。響兎は横へ跳んでそれを避けたが、着地した石には浅い溝が走っていた。後ろ脚の片方が取られ、転びかけた身体を前脚で支える。その隙に小鬼が向きを変えた。
二度目の棍棒が持ち上がる。響兎は反射的に横へ跳んだ。ところが今度は棍棒が落ちてこない。小鬼は振るふりだけで腕を止め、兎の着地点へ踏み込んでから木を低く払った。ぼすっ。右肩に衝撃が走った。響兎の身体が横へ転がって濡れた岩へ背中を擦りつける。痛みで息が詰まった。起き上がろうとしたところへ小鬼の手が伸びる。響兎は前脚で地面を掻き、身体をひねって岩棚の方へ跳ねた。
指先が毛をかすめる。ぎりぎりだった。小鬼は喉の奥で短く鳴くと後を追った。最初の一撃を外してから闇雲に棍棒を振り回すことはない。兎が跳べば着地点へ視線を移し、次に足をつく場所を塞ぐように近づいてくる。
響兎は岩棚を駆け上がった。乾いた石の上なら水際より踏ん張れる。しかし右肩を庇って着地するたび身体が少し傾く。その遅れを小鬼は見逃さなかった。棍棒が横から迫り、響兎は身を縮めてようやく躱した。
後方は細い岩棚。前には棍棒を持った小鬼。左へ落ちれば水に呑まれかねず、右の壁には身体を押し込めるような穴もない。逃げ道を探して耳を立てても返ってくるのは滝の音ばかりだった。小鬼がじりじりと近づいてくる。響兎は一歩退いた。もう一歩下がろうとしたとき、後ろ脚が岩の縁を踏み外す。腹が石に当たり、身体がぐらりと傾いた。小鬼の空いている手が伸びる。捕まると思った瞬間、響兎は尻を跳ね上げた。
後ろ脚が相手の指を蹴り払う。小鬼が手を引っ込めるあいだに響兎は岩棚の奥へ逃れた。爪の先を打った程度の一撃だったが、小鬼は露骨に嫌そうな顔をした。響兎も振り返り、相手が庇った手を見つめる。蹴れば痛がる。
実のところそんな単純なことはずっと前から知っていた。兄弟との食べ物争いでも、寝床を奪い合った甲虫との喧嘩でも脚はよく使った。しかしこれまでは邪魔な相手を押しのけるか、逃げるために距離を作る蹴りだった。目の前の相手は追ってくる。逃げるたびに叩かれ、跳ぶ場所を塞がれる。ならば今度は向こうを退かせるしかない。
小鬼が棍棒を握り直した。響兎の耳は前へ向いたまま下がらない。岩棚の途中には腰ほどの高さの石柱が残っていた。兎なら裏へ回り込めるが、小鬼には身体を隠せない太さだ。響兎はその陰へ滑り込み、小鬼も数歩遅れて近づいてくる。
小鬼は石柱の手前で立ち止まった。棍棒を横に寝かせ、兎が右へ出ても左へ出ても叩けるよう構える。石柱の向こうにいる獲物は見えない。だが飛び出してくる場所は限られている。
響兎は耳を動かした。石柱に遮られた相手の息遣いが滝の音に紛れて揺れている。音だけでは位置がつかめない。代わりに鼻を働かせると嫌な臭いは柱の左側へ寄っていた。さらに足元を見ると石柱の脇から細い指のついた足が見えた。
響兎は反対側から顔を出す。棍棒が動いた。小鬼はすぐさま向きを変え、兎の頭を狙って木を横に振る。だが響兎は跳び上がらなかった。
前脚を低くついて身をすべらせると、棍棒は耳の上を通り過ぎて石柱を打った。木が石に引っかかった一瞬だけ小鬼の肩が止まる。その隙に響兎は相手の脚の横を抜け、岩棚の先にある低い段差へ駆け上がった。小鬼が追ってくる。響兎はそこから逃げなかった。
段差の先は岩壁だ。左には水が流れる下段があり、石柱へ戻るなら小鬼の横を通らなければならない。小鬼は獲物を追いつめたつもりで棍棒を構え、ゆっくり距離を詰めてきた。
響兎は目を離さず後ろ脚を岩へ押しつける。肩は痛むが脚にはまだ力が残っている。小鬼の棍棒が上がった。大きく振り下ろせばそのあとには隙ができる。そんな理屈を理解しているわけではない。ただ何度も見た木の動きが身体に残っていた。
小鬼が腕を伸ばす。響兎は低い段差を蹴った。正面から飛び込むと見せかけて斜め右へ身体を流す。棍棒の先端が鼻先をかすめ、後ろの岩を叩いた。響兎はその内側へ滑り込むように着地し、前脚で身体を支えると尻を相手の膝へ向けた。
後ろ脚を思いきり伸ばす。どんっ。蹴りが膝の裏に入った。小鬼の片脚が折れ、身体が大きく傾く。倒れるかと思ったが、小鬼は空いた手を岩壁につけて踏みとどまった。歯を剥いて棍棒を振り返す。
響兎はすぐには逃げない。棍棒が横へ動くのを見てから壁際の小さな出っ張りに跳び上がった。木が足元を通り抜け、小鬼の腕が伸びきる。響兎は岩を蹴って向きを変えた。後ろ脚が小鬼の頬を打つ。小鬼の顔が横を向いた。痛みに仰け反った手から棍棒が滑り落ち、石柱の根元へ転がっていく。響兎も着地の衝撃で右肩に痛みが走り、よろめいたまま二歩下がった。
これで離れられる。小鬼の手にはもう棍棒がない。戻ってきた道へ跳べば追跡を振り切れるかもしれない。実際、響兎の身体は一瞬そちらへ向きかけた。ところが小鬼が石柱へ身を屈めたとき、その動きが止まった。
またあれを拾う。拾えばまた叩いてくる。痛かった右肩がじくりと疼く。響兎は伏せた耳を持ち上げ、棍棒に伸びる手を見た。
怖さが消えたわけではない。それでも今だけは逃げたくなかった。響兎が跳ぶ。小鬼の背後にある石柱へ前脚をつき、続けて後ろ脚を畳む。着地と同時に身体をひねり、棍棒を拾おうとした相手の肩甲骨のあたりへ両脚を突き出した。
重い手応えが返ってきた。小鬼の上体が前へのめる。慌てて足を出した先は水際に続く濡れた岩だった。片足が滑り、もう片方で踏ん張ろうとしても勢いを止められない。小鬼は何か叫びながら手を振り回したが、指先は空を掻いただけだった。身体が岩棚の縁から落ちる。
下段の石に背中を打ち、さらに突き出した岩へ頭をぶつけた。水音に混じって鈍い衝撃が響く。棍棒も転がり落ち、白い流れに押されて暗い穴へ消えていった。
響兎は石柱から離れた乾いた場所へ跳び戻った。前脚をついた途端に右肩が痛み、身体が沈む。歯を食いしばるように口を閉じて岩へ伏せ、下段を見下ろした。
小鬼は動かない。水が流れている。滝の音は少しも変わらない。それでも響兎の目にはさっきまで追いかけてきた相手が今は動かないということだけがはっきり映っていた。しばらく待った。耳をそばだてても聞こえるのは水ばかりで、小鬼の手足は動かない。響兎はようやく岩から腹を持ち上げた。
逃げ切ったのではなかった。自分で倒したのだ。
◇
戦いが終わってみると身体はひどく重かった。右肩の毛が少し剥がれ、前脚をつくたび鈍い痛みが走る。岩にぶつけた後ろ脚も熱を持っていた。息を整えるだけでしばらくかかり、柔らかな草はすぐそこにあるのに取りに行く気力さえ湧かない。
それでも響兎は小鬼の倒れた場所を何度も見た。もう動かない相手を確かめるたび胸の奥が不思議に落ち着かなくなる。さっきまでは怖くてたまらなかった。なのに今は脚を伸ばしたときの感触が妙に心地よい。
叩かれた。蹴り返した。最後は向こうが倒れた。小さな兎にとっては、それだけで十分な出来事だった。
耳がぴんと立つ。痛みと疲れで動けないくせに、もう一度あの感触を確かめたいような気持ちが残っている。強いものに追いかけられれば逃げる。どうにもならない相手には隠れる。それは変わらない。だが今回の兎は自分から相手へ向かっていった。そして勝った。その喜びをまだ言葉にはできない。そもそも言葉を持っていない。けれど後ろ脚が岩を押すたび、胸の奥がむずむずと跳ねるのだった。
やがて空腹がその感覚に割り込んできた。何しろ朝からたいして食べていない。傷を庇いながら草の生える水際へ下り、耳を伏せて周囲を確かめてから若葉に口をつける。しゃく。甘い。もう一口。しゃくしゃく。……よかった。今度は自分の噛む音で跳び上がらなかった。そこはきちんと成長したらしい。
ただ食べながらときどき小鬼の倒れた方を振り返る。怖くて確認しているのか、勝った相手を見たいのか。おそらく両方だろう。草をすっかり食べ終えたころには脚が震えてきた。無理に歩き続ければ次の危険から逃げられない。
響兎は水際から離れ、先ほどの石柱より奥にある乾いた岩棚へ移った。後ろに岩壁があり正面の見通しが利く。そこへ身体を丸めて傷のある肩が石に触れないように伏せると、ようやく長く息を吐いた。
岩に押しつけた後ろ脚が小さく動く。何度も蹴った。最初は掴まれまいと必死に脚を振り上げただけだった。それから相手の脚を狙い、顔を打ち、最後は背中を押し倒した。今までひとまとめだった脚の使い方に、少し違う感覚が混じっている。
そんな感触を確かめているうちに頭の奥で見慣れた線が揺れ始めた。《進化の羅針》の《自己確認》だ。響兎は目を閉じ、浮かび上がってくる文字の気配に意識を寄せた。
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固有能力:《進化の羅針》
↪詳細:自身の保有する能力・スキルを確かめ、進化の可能性を観測し、条件を満たした進化先を選ぶ。
能力:――
スキル:《跳躍》Lv2
↪詳細:脚で地面を蹴り、身体を跳ばす動作に関する技術。
スキル:《着地》Lv1
↪詳細:足場に合わせて身体を受け止め、衝撃と姿勢を整える技術。
スキル:《聴き分け》Lv1
↪詳細:複数の物音を方向や距離、響きの違いから聞き分ける技術。
スキル:《警戒》Lv1
↪詳細:周囲の変化へ注意を向け、危険の兆しを見落とさないようにする技術。
スキル:《蹴撃》Lv1
↪詳細:後ろ脚による打撃を相手の位置や動きに合わせて放ち、威力と姿勢を制御する技術。
その他:
⦅世界の祝福⦆
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一覧には今までなかった《蹴撃》が加わっていた。もちろん《響兎》はその文字を読むことができない。後ろ脚を使った争いなら以前から経験していたし、先ほどの戦いで突然見知らぬ力が湧いたわけでもない。けれど相手を狙って打ち、当たったあとの身体を立て直す。そんな動きが初めてひと続きの技として自分のものになっていた。
試しに後ろ脚を軽く伸ばしてみる。ずきん。右肩まで痛みが響き、響兎は慌てて脚を引っ込めた。どうやら新しい技を覚えても傷は治らないらしい。しかも今は腹も満たされている。これ以上の練習は明日にしておくのが賢明だ。
……まあ、この兎がいつも賢明に振る舞うとは限らないが。
岩棚の先には細い道が続いていた。あの向こうにも食べられる草があるだろうか。もっと怖い相手がいるかもしれない。それでも響兎は道の方へ耳を向けたまま目を閉じる。
眠りに落ちる直前、後ろ脚がもう一度だけぴくりと動いた。逃げるために跳ぶ脚が、誰かを倒す脚にもなった。大迷宮の奥で起きた小さな変化を知る者はまだいない。当の本人ですら、明日になればまず草の匂いを探すのだろう。
ただし次に誰かがその草を横取りしようとしたら――。少々気の強い兎が相手になることだけは覚悟しておいた方がよさそうである。




