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第6話『見えなくても腹は減る』

暗い。


 それが目を覚ました名もない《跳兎》の率直な感想だった。もっとも朝なのかどうかは分からない。頭上に空はなく岩の隙間で光る苔がわずかに周囲を照らしているだけだ。昨夜は細い通路の壁際で身体を丸めた。目を覚まして最初に確かめたのはあの巨大な獣の気配がしないこと。次に確かめたのは食べ物の匂いがすることだった。


 危険の確認と朝食の確認。


 この兎にとって両者の重要度はなかなかいい勝負である。幸い近くには細長い葉が残っていた。昨日見つけたものと同じ匂いがする。跳兎は念入りに鼻を動かしてからしゃくしゃくと食べ始めた。腹が落ち着けばまた先が気になる。


 通路は緩く下っていた。湿った石の匂いと細い水音が奥から流れてくる。ここから引き返しても上の森への道は分からない。それなら前へ進んでみよう。


 そういう顔をしている。


 実際にはそこまで複雑に考えていないかもしれない。ただ鼻先が前を向いたのは確かだった。


     ◇


 しばらく進むと苔の光が途切れた。


 跳兎は足を止める。


 前には暗闇が広がっていた。


 岩壁に囲まれた細道は二つに分かれているらしい。左からは水の匂い。右からは冷たい風。どちらにも食べ物の香りは薄い。跳兎はひとまず左へ進んだ。水があるなら草もあるかもしれない。


 ところが数歩進んだところで足元がなくなった。正確には道が切れていた。小さな段差が暗がりに隠れ、その下へ岩が続いていたのだ。跳兎は慌てて後ろ脚を踏ん張った。間に合わず前脚が滑り、肩から下の石へ転がり落ちる。


 ごつん。


 痛い。


 痛い上に昨日の脇腹まで少し疼いた。跳兎は身体を低くして動かなくなった。見えない場所は危ない。ようやくそのことを本気で学び始めたらしい。


 しかし腹は減る。


 ……世の中厳しい。


 暗闇の向こうで水が落ちる音がした。


 ぽたり。


 ぽたり。


 跳兎の耳がそちらへ向く。


 水は近そうだ。そう思って一歩進むと今度は音が後ろから聞こえた。


 跳兎は振り返る。


 また前から聞こえる。


 振り返る。


 後ろ。


 前。


 何度か繰り返したところで跳兎はとうとう座り込んだ。


 ……水が動き回っているわけではない。


 狭い岩の通路で音が反射しているのだ。水滴の落ちる場所は一つでも、その響きは壁を跳ね返っていくつもの方向から届いていた。もちろん本人にそんな説明はできない。分かったのは耳を頼りにしたのに騙されたということだけだった。跳兎は不満そうに後ろ脚で地面を蹴った。


 こつん。


 その音まで妙な方向から返ってきた。


 ……なんだか気に入らない。


     ◇


 結局跳兎は鼻と前脚を使って慎重に進むことにした。足元を探りながら歩けば穴には落ちにくい。岩に当たったら身体の向きを変えればいい。水の匂いが強くなる方へ進めばいずれ流れに出られるはずだ。簡単に言えばそういうことなのだが、一羽の兎にとっては大仕事である。しばらく進んだ先でまた音がした。


 ぺた。


 ぺた。


 水滴より重くゆっくりした音だった。跳兎は耳を立てて動かなくなった。


 何かが歩いている。


 あの巨大な獣を見たばかりだ。足音というだけで身体がこわばる。岩陰へ隠れようとしたものの、どちらから音が来るのか分からない。


 ぺた。


 今度は右。


 いや左か。


 跳兎が小さく身を縮めたとき、遠くの苔が生える曲がり角に丸い影が現れた。


 太い傘のような頭。


 その下で動く短い脚。


 《歩行茸》だった。


 菌類に似た姿で歩く魔獣である。以前の森でも倒木を歩く姿を見かけたことがあるが、今回は同じ岩道をゆっくり進んでいた。跳兎は思わず首を伸ばした。


 見たことがある。


 だが知っている相手というわけではない。相手がこちらに気づいているかどうかも分からない。歩行茸は曲がり角を抜け、湿った石の上をぺたりぺたりと横切っていった。跳兎が身を潜めるくぼみからは少し離れている。無理に近づく必要はない。というより近づいてほしくもない。そのまま姿が消えるまで跳兎はじっと待った。


 足音はまだ聞こえる。


 見えなくなってもどこかにいることだけは分かる。


 なるほど。


 それは少し便利だった。


 もっとも次に足音が右から響いたときにはまた慌てて左を見たのだが。便利と使いこなしはやはり別問題である。


     ◇


 その後も暗い道は続いた。


 すぐに広い場所へ出られたわけではない。苔がまばらに生える小さな岩室と光のない細道がいくつもつながっていた。跳兎はそこで幾度も足を止めた。音だけを追って壁へ突っ込むこともあった。水の匂いを頼りに進んだ先が行き止まりだったこともある。そのたびに戻り、岩の縁を前脚で確かめ、耳を別の方向へ動かした。


 ときには眠った。腹が減れば苔の近くに生える柔らかな草を探した。見つからないときは食べられそうな葉を一本探すだけでずいぶん時間がかかった。幸いこの細道にいつまでも閉じ込められていたわけではない。水が落ちる音を聞いているうちに、跳兎は少し妙なことに気づいた。すぐそばから聞こえる音は輪郭がはっきりしている。


 遠くから聞こえる音は少し柔らかい。壁にぶつかって返ってきた音はほんのわずか遅れる。最初は違いなど分からなかった。だが何度も同じ場所で耳を動かしていると、近い音と遠い音が少しずつ違うものに感じられてきた。


 跳兎は一歩進む。


 こつ。


 小石が鳴る。


 片方の耳が動く。


 右から返ってくる音は近い。


 左から返ってくる音はもっと遠い。左側には少し広い空間があるのかもしれない。試しにそちらへ進むと確かに岩壁のあいだが広がっていた。跳兎は嬉しそうに耳を立てた。調子に乗って跳んだ結果天井の低い場所で耳を擦った。


 ……そういうところは相変わらずである。


     ◇


 何度か休息を挟んだあと跳兎は小さな水場に出た。地下を流れる細い水が岩の上から落ち、下のくぼみに溜まっていた。水のそばには細い草も生えている。


 待ち望んだ光景だった。


 跳兎は勢いよく駆け寄ろうとした。


 だが手前の岩には黒い割れ目が走っている。


 跳兎はぴたりと止まった。


 以前なら見つける前に飛び越えようとしていたかもしれない。今はまず耳を動かす。割れ目の向こうで水が落ちる。その下には平たい岩があるらしい。石の近くで前脚を一度踏む。


 こつ。


 音が返ってきた。


 跳兎は慎重に身体を縮めた。


 跳ぶ。


 大きすぎないように。


 着地点は割れ目の少し先。


 前脚をつく。


 後ろ脚を畳む。


 今度はうまくいった。


 跳兎は草のところまで進みようやく口をつけた。


 しゃく。


 しゃくしゃく。


 美味しい。


 ……よかったな、兎。


 薄暗い岩室の隅には小さなくぼみがあった。そこだけ風は穏やかだ。食べ終えた跳兎は身体を丸めてしばらく休むことにした。


 だが耳だけは落ち着かない。


 ぽたり。


 水が落ちる。


 こつ。


 岩が鳴る。


 さらさら。


 細い水が流れる。


 音はそれぞれ違う位置から届いていた。


 跳兎は目を閉じた。


 すると不思議なことに、さっきより周囲の形が少しだけ分かる気がした。


 右には近い壁。


 左は広い。


 前には水。


 その向こうに細い通り道。


 目で見たわけではない。正確に形を知っているわけでもない。ただそう感じる。その感覚へ耳を向けているうちに頭の奥で懐かしい線が浮かび上がった。


     ◇


 細い光のようなものが幾筋も重なり文字に似た形を作っていく。


 《進化の羅針》。


 兎が文字を読めるようになったわけではない。それでも以前と同じように、そこにある選択の方向だけはぼんやり伝わってきた。跳兎は目を閉じたまま耳を動かした。今ほしいのは暗い道でも周りをもっと確かめられる身体だった。その小さな望みに応えるように六つの道が並んだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


《進化観測》


進化候補:《響兎》

↪特徴:聴覚・反響の聞き分けと平衡感覚が発達し、音を頼りに足場や周囲の動きを捉えやすくなる。

進化条件:達成

↪手がかり:暗所での聴取、音の反射を利用した移動、着地調整の蓄積。

進化選択:可能


進化候補:《岩跳兎》

↪特徴:脚裏と全身の支持が硬い足場に適応し、岩場での踏切・着地が安定する。

進化条件:達成

↪手がかり:岩棚の昇降、硬い地面での着地と踏切の蓄積。

進化選択:可能


進化候補:《迅兎》

↪特徴:短距離の加速力と方向転換を支える身体が発達する。

進化条件:達成

↪手がかり:危険からの反復逃走、急停止と回避の経験。

進化選択:可能


進化候補:《夜目兎》

↪特徴:暗所でわずかな光を捉えやすい眼と視覚処理へ適応する。

進化条件:未達成

↪手がかり:低照度環境での継続的な視覚適応が不足。

進化選択:不可


進化候補:《水渡兎》

↪特徴:水際の移動と泳ぎを支える四肢・呼吸が発達する。

進化条件:未達成

↪手がかり:渡水と遊泳の経験が不足。

進化選択:不可


進化候補:《風耳兎》

↪特徴:気流の変化を察する耳と姿勢制御が発達する。

進化条件:未達成

↪手がかり:風向を利用した移動経験が不足。

進化選択:不可


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 三つの道が近く感じられた。残りの三つは遠い。


 強く走れる道。


 岩の上で上手に跳べる道。


 そして今の音をもっとはっきり知ることのできる道。跳兎には名前も理屈も分からない。けれど目を閉じても前へ進みたいという気持ちだけは確かだった。


 耳が左へ向く。


 水滴の音。


 右へ向く。


 壁から返る小さな響き。


 その両方をもっと知りたい。


 跳兎は六つの道の中から一つを選んだ。


 《響兎》。


 再び身体の奥が熱くなった。


     ◇


 最初に変わったのは耳だった。


 付け根の奥がじんわり熱い。耳の内側を細かな振動が駆け抜け、左右が別々に動こうとする。首の筋が引かれ、胸と背を支える感覚まで変わっていく。跳兎は思わず前脚を踏ん張った。後ろ脚の骨と筋にも熱が走る。


 脚の伸び縮みする力は残っている。ただ着地で身体を支える向きが変わっていく。跳ぶための脚と音を聞いて姿勢を決める感覚が身体の内側でつながり直すようだった。


 少し怖い。


 けれど前回のように逃げながらではない。足元には平たい岩があり、周囲に差し迫った敵の気配もない。数呼吸ののち熱はゆっくり引いた。名もない兎は《響兎》へと進化した。


 すぐに耳を動かす。


 ぽたり。


 右前方の水滴。


 こつ。


 手前の岩に落ちた砂粒。


 さらさら。


 少し先の細い流れ。


 全部が前よりも鮮やかに聞こえる。響兎は小さく跳び上がった。


 着地はほとんどぶれない。


 耳が水音の方を向き、身体がそれに合わせてわずかに傾く。踏み出す前から足場の方向を予測しやすくなっていた。


 なんだかすごい。


 嬉しくなった響兎はもう一度跳ねようとした。


 そのときだった。


 ぱきん。


 どこかで乾いた石の音が鳴った。響兎の身体がびくんと跳ねる。


 耳が一気に伏せられた。


 大きい。


 今までなら気にも留めなかった音が耳の奥まで響いてくる。小さな石が割れただけなのに巨大な獣に足元を踏まれたような気分だ。慌てて伏せたせいで後ろ脚が滑り、響兎はそのまま腹を岩につけた。


 ……どうやら進化にもちゃんと困ったところがあるらしい。


     ◇


 しばらくして落ち着いた響兎はもう一度草のところへ戻った。


 腹が減ったのである。


 進化したばかりの身体は少し疲れていた。だが目の前の草はまだ残っている。食べない理由がない。


 しゃくっ。


 響兎はびくりと耳を伏せた。


 今のは何だ。


 じっと待つ。


 何も来ない。


 もう一口。


 しゃくっ。


 またびくり。


 ……自分が草を噛む音だった。


 これにはさすがの語り手も少し同情する。せっかく美味しい草を見つけたというのに、食べるたびに驚かされるとは。響兎は何度か耳を動かしようやく自分の咀嚼音だと気づいたらしい。それからは少しだけゆっくり食べた。


 しゃく。


 びくっ。


 しゃく。


 ……まだ駄目だった。


 食欲というものは強い。


 それでも響兎は草を食べ終えるまでその場を離れなかった。食事を終えて身体を丸めたとき頭の奥であの線がまた揺れた。先ほど見た六つの道とは違う。もっと身近な自分の身体の動かし方に関わる感覚だった。響兎は耳を伏せたままそっと意識を向ける。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


固有能力:《進化の羅針》

↪詳細:自身の保有する能力・スキルを確かめ、進化の可能性を観測し、条件を満たした進化先を選ぶ。


能力:――


スキル:《跳躍》Lv2

↪詳細:脚で地面を蹴り、身体を跳ばす動作に関する技術。


スキル:《着地》Lv1

↪詳細:足場に合わせて身体を受け止め、衝撃と姿勢を整える技術。


スキル:《聴き分け》Lv1

↪詳細:複数の物音を方向や距離、響きの違いから聞き分ける技術。


スキル:《警戒》Lv1

↪詳細:周囲の変化へ注意を向け、危険の兆しを見落とさないようにする技術。


その他:

⦅世界の祝福⦆


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 兎には文字が読めない。


 それでも脚で跳ぶこと。足場を確かめて下りること。耳を動かして聞き分けること。危険がないか周りに気を配ること。そんな感覚が少しずつ自分の中に積み重なっているのは伝わってきた。進化したから急に身についたわけではない。転んで、隠れて、耳を澄ませて、また失敗した。その繰り返しがようやく形になったのだ。


 何かが分かったような気がして響兎は小さく耳を動かした。


 ……自分の噛む音に驚くのはまだ直らないらしい。


 やがて響兎は身体を起こし暗い通路へ顔を向けた。遠くから細い水音が聞こえてくる。それに混じって別の響きもあった。風が抜けるような低い音だ。先にはまだ広い空間があるのかもしれない。


 響兎は耳を左へ向けた。


 右へ向けた。


 それから慎重に前脚を踏み出した。暗闇が明るくなったわけではない。怖いものが消えたわけでもない。


 だがさっきまでただ真っ暗だった道には少しだけ進み方が見つかっていた。もちろんこの兎はそんな立派なことを考えているわけではない。水音のする方には食べられる草があるかもしれない。


 たぶんそれだけだ。


 ――頑張れ、兎。


 できれば次は自分の噛む音に勝ってほしい。

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