第5話『下には何がいる?』
新しい脚は素晴らしい。少なくとも地面を蹴った瞬間はそう思える。名もない《跳兎》は大木の根をひと跳びで越え、向こう側の草に前脚をついた。そのまま勢いを止められず、鼻先を土へ突っ込む。
……着地についてはまだ研究の余地がありそうだ。
昨日まで苦労していた根が今ではずいぶん低く感じられる。後ろ脚を縮めれば力が溜まり、伸ばせば身体が飛ぶ。しかも思っていたより遠くまで飛ぶ。何度か試すうちに跳兎は少しだけ力の加減を覚え始めた。
飛び越える。
着地する。
振り返る。
もう一度飛び越える。
得意げに耳を立てたところで足を滑らせた件は見なかったことにしてあげよう。ちなみに以前つけた脇腹の傷はまだ少しだけ痛む。跳びすぎれば後ろ脚も疲れる。進化したからといって身体の都合まで全部よくなるわけではない。
けれど跳兎は機嫌がよかった。
今まで届かなかった場所へ届く。ただそれだけのことがたいへん面白いらしい。
◇
そろそろ食べ物を探そうとしたときだった。
鼻先を冷たい風が撫でた。
いつもの森の風ではない。湿った石と水の匂いに混じって、知らない草の青い香りがする。
跳兎は耳を動かした。
風は斜面の下から来ていた。
少し迷った末に跳兎は赤い実の木とは違う方へ進み始めた。未知の匂いに興味を引かれたのだろう。
……もちろん食べられそうな匂いだったからという理由も大きい。
斜面には木の根が縫い目のように走り、岩と岩の隙間に苔が広がっていた。今までなら避けていた段差も跳兎の脚なら越えられる。
そのせいでつい進みすぎた。
気づけば周りの木々は背後に遠ざかり、足元には大きな岩盤が現れていた。真ん中に深い裂け目がある。
風はそこから吹き上がっていた。
跳兎は縁へ鼻先を寄せた。
下は暗い。
だが底なしではない。岩壁から太い根が何本も突き出し、少し下には平らな岩棚がある。その先にも別の根と岩棚が見えた。
淡い青白い光が点々と続いている。
どこかで水が流れる音もした。
跳兎はしばらく耳を澄ませた。知らない匂い。知らない音。知らない場所。
行ってみたい。
そんな立派な冒険心が芽生えたかどうかは分からない。ただ下から漂う香りへ鼻を伸ばした拍子に前脚が一歩進んだ。それをきっかけに身体ごと岩棚へ飛び下りてしまった。
着地した瞬間に後ろ脚が少し滑る。跳兎は耳を倒して慌てて四本の脚を踏ん張った。
岩棚の向こうは暗い空間だ。落ちればもう簡単には戻れない。
怖い。だが上を見れば元の縁はそれほど高くない。戻ろうと思えば跳べそうだった。
ならば少しだけ。
跳兎は次の岩棚を見つめた。
ほんの少しだけ下へ。
◇
降りることは思っていたほど簡単ではなかった。
飛び上がるときは力いっぱい蹴ればよい。だが下へ向かうときには、着地する場所を見て力を加減しなければならない。根の上へ飛び移ろうとして勢いをつけすぎ、向こうの岩壁へ鼻をぶつけかけた。
次は慎重になりすぎて距離が足りず、前脚だけで根にしがみつく羽目になった。
細い身体がぶら下がる。
後ろ脚が空を蹴る。
じたばた。
じたばた。
どうにか腹を根の上へ乗せると跳兎はしばらく動かなかった。
……いまのはさすがに怖かったらしい。
それでも引き返さない。
少し休んでからまた下を見る。冷たい風が耳の毛を揺らしていた。下の岩棚には丸い葉が群れ、そこだけ湿った土が積もっている。あの葉は美味しそうだ。
跳兎は腰を落とした。
今度は飛びすぎないように。
前脚を伸ばし、岩棚の中央へ身体を運ぶ。
着地した。
転ばなかった。
耳が立つ。
嬉しくなってその場で小さく跳ねた途端、足元の小石がころころと暗がりへ落ちていった。
跳兎の耳がぴたりと伏せられた。うん。喜ぶのは安全なところでやろう。
◇
葉を食べようとしたところで奇妙なものを見つけた。
岩棚の端に水たまりがある。
透き通った丸い塊が石のくぼみに収まり、青白い苔の光を受けてふるふる揺れていた。
跳兎は近づいて鼻を動かす。
水の匂いに似ている。
だが何かが違う。
前脚を一歩出した。
丸い塊が持ち上がった。
「えっ」とでも言いたそうに跳兎の耳が立つ。塊の下から半透明のものが伸び、石へぺたりと張りついた。それに引かれるように残りの身体がずるりと動く。
《粘魔》。別名スライム。
形を変えながら移動する粘体系の魔物である。この個体は岩のくぼみに溜まった小さな有機物を取り込み、ゆっくり移動していたらしい。そんなことなど知らない跳兎は目の前の水たまりが動いたことに固まっていた。
もう一度塊が伸びる。
ぬるり。
跳兎は飛び退いた。
前脚の先に冷たく粘る感触が少しだけ残った。
気持ち悪い。
跳兎は足を何度も振った。だが粘るものはすぐには取れない。土へ前脚をこすりつけ、ようやく落とす。そのあいだにも粘魔はのんびり岩の上を進んでいた。
跳兎を追っているわけではなさそうだ。むしろ先ほどまで塊の下に隠れていた枯れ葉へ伸び、ゆっくり包み込もうとしている。
食べるのか。跳兎は目を離せなかった。石の上で丸くなっていたものが伸びたり縮んだりする。葉が触れた部分は身体の中へ沈み、外からは薄ぼんやり形が見えた。
……世の中には変な食べ方をするやつがいる。
跳兎にとってもなかなか衝撃的な発見だったに違いない。とはいえさっきの気持ち悪さは忘れていない。
そっと距離を取り、粘魔がいない側の根へ移る。
そこで気づいた。
下の岩棚の方が広い。
さらに向こうでは裂け目の壁が途切れている。
大きな空間がありそうだった。
跳兎は振り返った。
上には元の森へ続く根がある。ただしここまで下りた道を正しくたどれるかは少々怪しい。下からは美味しそうな匂いが流れてくる。
また一歩。
この兎はどうやら戻り方を考えるより先に腹の方が動くらしい。
◇
最後の岩棚を下りると景色が一変した。
目の前に森が広がっていた。
さっきまでの森よりずっと暗い。それなのに不思議と見通しが利く。根元から淡い光をにじませる草が広く群れ、木々の間には薄い靄が流れている。頭上を見上げても本当の空はない。あまりに高い天井が、遠くでぼんやり明るく見えるだけだった。
さらに遠くには水があった。
湖だろうか。それとも大きな川だろうか。
跳兎にはそんな区別などつかない。ただきらきらしたものが遠くにあって、そこからひんやりした風が来る。その風には知らない草の匂いが幾つも混じっていた。
跳兎の鼻が忙しく動く。
これほどたくさんの匂いを一度に嗅いだことはない。
どれから確かめよう。
そんなことを思ったかどうかは分からないが、跳兎はしばらくその場に立ち尽くしていた。
先へ進むと光る草のあいだから小さな生き物が飛び出した。影は草の向こうへすぐ消えた。別の茂みでは何かが地面を掘っている。姿は見えないが土を押し分ける音がする。
ここにも命がいる。
しかも上の森とは違うものがたくさんいる。
跳兎は地面へ鼻を近づけた。
草はやわらかそうだ。
ひと口食べてみようか。
そうして葉へ口を寄せたところですぐ近くの茂みが静かになった。
土を掘る音が止まる。
葉のあいだを走っていた小さな影も消えた。
それなのに風は吹いている。
跳兎が耳を立てた。
どん。
低い音がした。
遠くからだ。
どん。
今度は足元の土までわずかに震えた。
跳兎は葉から顔を離した。
覚えのない匂いが届く。
獣の匂いだ。
濃い。大きい。重い。
鼻の奥に入っただけで胸のあたりがきゅっと縮むようだった。
森の向こうで何かが動いている。
◇
跳兎がいたのは岩棚の下から続く木立の端だった。
その先には大きな水辺が広がり、対岸には背の高い草と巨大な岩が点々と並んでいる。
動いていたのはさらにその向こうだった。
最初は岩だと思った。
ゆっくり動く灰色の大岩。
だが岩にしては形がおかしい。岩の下から太いものが四本伸び、一つずつ地面を踏んでいた。
その上で大きな頭が揺れる。
長い尾がゆっくり弧を描く。
歩いていた。
あれは生き物だった。
《天元魔獅子》。
大迷宮の深部に生息する超大型の猫獅子系魔獣である。人類の一部にはその名だけが伝説として残る。山が歩き、吼える前から森が黙る。そんな話を本気にする者は少ない。
だがその獣はいま確かに歩いていた。肩の高さだけで九メートルを超える巨体。深い灰褐色の身体には鈍い金属のような光沢があり、黒金色のたてがみが首から胸へ重く垂れている。
歩くたびに厚い肩が上下する。
前脚を下ろす。
地面が揺れる。
その繰り返しだけで遠くの跳兎の足元にまでかすかな振動が届いていた。
天元魔獅子は立ち止まらない。獲物を追っているわけでもない。水辺へ続く広い草地をのっそり横切り、気が向いたときに頭を持ち上げて周囲を見渡す。
ただそれだけだった。
ところが近くの草むらにはもうほとんど動くものがいなかった。跳兎がさっきまで聞いていた土を掘る音も、木の根元にいた小さな生き物の足音も止まっている。
皆どこかへ隠れたのだ。
天元魔獅子が何かしたわけではない。
その重い足音や獣の匂いを察した生き物たちが自分から息を潜めただけである。
その咆哮は大型の獲物すら怯ませるほどの力を秘めている。だが今は声ひとつ上げず、狩りをする気配さえない。そして遠くの岩陰にいる小さな跳兎など眼中にもない。
当然だろう。
あの巨体からすれば兎一羽では腹の足しにもならない。
だが跳兎の方はそれどころではなかった。
耳が背中へ貼りつく。
四本の脚が地面に沈み込むように曲がる。
怖い。あれは怖い。
森の外で追いかけられた獣とも、寝床を争った甲虫系魔獣とも、角のある兎とも違う。
近くに来たら逃げればいい。
そんな考えすら浮かばない。
今すぐ離れなければいけない。身体の隅々がただそれだけを訴えていた。
跳兎はそろそろと後ずさった。
爪が小石へ触れる。
からり。
小さな音が鳴った。
跳兎の身体がびくりと跳ねる。
遠くの天元魔獅子はまるで気にしなかった。
そのままゆっくりと水辺の向こうを歩いていく。
それでも跳兎はもう耐えられなかった。
後ろ脚に力が溜まる。
次の瞬間に小さな身体が岩陰から飛び出した。
逃げる。
とにかく遠くへ。
◇
道を選んでいる余裕はなかった。
木の根の下をくぐり、岩を越え、光る草を蹴散らして走る。
背後から追ってくる足音はない。
だがそんなことを確かめる余裕もない。
走っているうちに細い岩の通路へ入った。天井は低く、両側の壁が近い。ここならあの巨大な生き物は入ってこられない。
それだけは身体で分かったのだろう。
跳兎はようやく足を止めた。
胸が忙しく上下する。
耳の先まで熱い。
新しい後ろ脚もひどく疲れていた。
しばらく岩壁に身を寄せていたが、いつまでたってもあの重い気配は近づいてこない。
跳兎は鼻を上げた。
湿った石の匂い。
細く流れる水の匂い。
それからほんの少し甘い草の匂い。
きゅるっと腹が鳴った。
……この状況でも腹は減るのか。
どうやら減るらしい。
跳兎はあたりを見回した。
足元に細長い葉が生えている。光る苔のそばで揺れる葉を慎重に嗅ぎ、先端だけ小さく噛んでみた。
少し苦い。
跳兎はぺっと吐き出した。
その向こうには別の葉があった。
こちらは青い匂いがする。
ひと口。
……悪くない。
もうひと口。
気づけば夢中になって食べていた。
少し落ち着いてから後ろを振り返る。
来た道は暗く、いくつも曲がっていた。どの方向に最初の寝床があるのか、もう見当もつかない。しかも通路の地面はいつの間にか緩やかな下り坂になっている。
跳兎は首をかしげた。
上へ戻りたいのか。
それとも今いるところを安全だと思っているのか。
本人にもきっとよく分かっていない。
ただ前からまた違う草の匂いが流れてきた。
跳兎の耳がぴんと立つ。
あれほど怖い目に遭ったばかりなのに鼻先はもう先へ向いていた。
――まったく。
大迷宮には恐ろしいものがいる。
人々が伝説としてしか知らないほどの魔獣でさえどこかの森を当たり前のように歩いている。命を脅かすものがいると身体で知った跳兎は今日も食べ物の匂いを追っている。
そして気づかない。
逃げた先の細道がさっきの森よりもさらに低い場所へ続いていることに。こうして一羽の跳兎はまた少しだけ大迷宮の深くへと進んだ。
――頑張れ兎。
せめて次は食べる前に周りをよく見ような。




