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第4話『小さな脚の選ぶ道』

赤い実は、美味しい。


 それは、この兎にとって疑いようのない事実だった。


 ただし、赤い実のある場所には、ぶんぶん飛ぶ連中がいる。


 これもまた、疑いようのない事実である。


 名もない兎は、茂みの下から木を見上げていた。


 枝の周囲では、今日も蜂系魔獣が飛んでいる。透き通った翅が淡い光を弾き、熟れた実の間をせわしなく行き来していた。


 兎は鼻を動かした。


 甘い。


 食べたい。


 でも、あれは嫌だ。


 耳をかすめたときの痛みを思い出し、兎は少しだけ首をすくめる。


 それから、枝ではなく地面を探し始めた。


 賢い。


 大変によろしい。


 ……最初からそうしていれば、前回あんなに転がらずに済んだのだが。


 落ち葉を鼻で押し分けると、柔らかくなった赤い実が見つかった。兎はそれをくわえ、蜂系魔獣の翅音が遠くなるまで茂みの奥へ運んだ。


 そして食べた。


 実に平和である。


     ◇


 迷宮へ迷い込んでから、いくつかの眠りと目覚めが過ぎた。


 兎の生活は、少しずつ形になっていた。


 朝のような光が木々の上に広がると、岩と根に挟まれた寝床から顔を出す。近くの草を食べ、水を飲み、甘い実の木へ向かう。


 帰ってきたら毛繕いをして、眠る。


 こうして並べると、なかなか立派な暮らしである。


 もちろん、問題がないわけではなかった。


 寝床の近くには、例の黒い殻を持つ甲虫系魔獣が時折現れた。追い払った相手と同じ個体かどうか、兎には分からない。硬い顎が見えれば、遠回りをするだけだ。


 水辺には、長い影が潜んでいる日もあった。


 枝に止まった鳥型の魔獣が、こちらを向いていることもある。


 草の先が不自然に動けば、足を止める。聞き慣れない鳴き声が近づけば、すぐに葉の下へ潜る。


 危ない場所ばかりの森だった。


 だが、危ない場所の間にも、美味しい場所はあった。


 それを覚えるのは、兎の得意分野らしい。


 問題は、その途中である。


 寝床から赤い実の木へ行くには、地面から大きく突き出した二本の根を越えなければならない。一本目は低い。二本目は少し高く、その向こう側の土が窪んでいる。


 初めは二本目によじ登り、腹を引っかけながら向こうへ落ちていた。


 しかし、毎日通ううちに変わった。


 後ろ脚を揃える。


 地面を蹴る。


 根の上を飛び越える。


 ある日は前脚が引っかかり、見事に鼻から落ちた。別の日は勢いがつきすぎて、向こう側の草へ頭を突っ込んだ。


 それでも、少しずつ着地の位置が揃ってきた。


 今では、根の手前で止まらずに跳ぶこともある。


 たったそれだけ。


 けれど兎にとっては、食べ物までの道が短くなったという重大な進歩だった。


 なお、跳び越えた直後に赤い実の匂いがすると、着地を忘れて転びかける癖は残っている。


 成長には、まだ少々むらがあるようだ。


     ◇


 その日、兎はいつもより遠くまで足を運んだ。


 赤い実の木の下には、ほとんど何も落ちていなかったのである。


 枝の上では蜂系魔獣が相変わらず忙しそうにしていた。実はまだある。だが、兎の口が届くところにはない。


 兎は幹を見上げた。


 ぴょん。


 届かない。


 ぴょん。


 やっぱり届かない。


 三度目を跳ぶ前に、一匹の蜂系魔獣が耳元を横切った。


 兎は即座に茂みへ飛び込んだ。


 学習した。


 立派なことである。


 しかし腹は満たされない。


 しかたなく、兎は別の匂いを探して進んだ。


 森の奥へ入ると、地面が次第に斜めになっていった。太い木の根が階段のように並び、その間に湿った土と小石が溜まっている。


 やがて水の音が近くなった。


 細い流れが土を削り、浅い溝を作っていた。幅は兎の身体二つ分ほど。水はそれほど深くないが、底の石は濡れて滑りそうだ。


 向こう岸に、草が茂っていた。


 その中に、小さな赤い実が落ちている。


 兎の耳が立った。


 あった。


 しかも、いくつも。


 少し上流には丸太が架かっていた。皮は剥がれ、表面には苔がついている。兎は一度そこへ近づいたが、濡れた丸太に前脚を置いた瞬間、滑りそうになって引き返した。


 ここを歩くのは嫌だ。


 では、どうするか。


 兎は溝の縁に立った。


 向こうの草を見つめる。


 前脚を揃え、後ろ脚を身体の下へ寄せた。


 跳ぶ。


 すとん。


 対岸の柔らかい土に、前脚が沈んだ。


 成功だ。


 兎は一度だけ振り返った。


 さっきまでいた岸が、向こうにある。


 少し高くなった気がする。


 なぜか嬉しくなり、もう一度その場で小さく跳ねた。


 そして、赤い実へ走った。


 ……気持ちの切り替えが早い。


 実をひとつ齧る。


 甘い。


 もうひとつ齧る。


 こちらは少し酸っぱい。


 それも悪くない。


 草むらの奥に三つ目を見つけ、鼻を伸ばしたときだった。


 すぐ近くで、低い鼻息が聞こえた。


     ◇


 草の向こうから、長い耳が現れた。


 続いて、額の角。


 兎は動きを止めた。


 以前、水の向こうで見かけた、あの種類の生き物だった。


 《角兎》。兎に似た姿をしているが、額に角を備えた兎系の魔獣である。大きく発達した後脚と鋭い角を持ち、正面からの突進は小さな動物にとって十分な脅威となる。


 向こうもこちらに気づいていた。


 足元の草には角兎の匂いが濃く残り、踏み固められた土には大きな足跡が続いている。どうやら、この草地を頻繁に使っているらしい。


 角兎は草を噛むのをやめ、顔を上げる。


 兎は口にくわえた赤い実を落とした。


 ぽとっ。


 甘い匂いが広がる。


 角兎の耳が前を向いた。


 一歩、近づいてくる。


 兎は後ずさった。


 もう一歩。


 また、後ずさる。


 それでも視線は、落とした赤い実から離れない。


 ……いや、そこは諦めよう。


 目の前の相手は大きい。脚も太い。額には、自分の身体に穴を開けかねない角まである。


 残念ながら、あの蜂系魔獣とは勝手が違う。


 角兎が地面を蹴った。


 速い。


 兎は横へ跳ねた。


 鋭い角が、さっきまで鼻先のあった場所を通り抜けた。


 土が跳ねる。


 角兎は勢いを落としながら向きを変えた。追いすがるように前脚を踏み出し、今度は草の上からこちらを睨む。


 兎は木の根の陰へ飛び込んだ。


 太い根が二本、低い壁のように盛り上がっている。


 角兎が回り込む。


 兎も反対側へ走る。


 大きな身体は速いが、曲がり角では少しだけ膨らむ。


 その隙間を使い、兎は根の間から飛び出した。


 前脚が土を掴む。


 後ろ脚で蹴る。


 さらに根を一つ越える。


 追ってくる足音。


 角兎が根を跳び越えた。


 兎は思わず耳を伏せた。


 大きいのに、跳べる。


 しかも、自分より高く。


 その事実は、なかなか腹立たしかった。


 怖い。痛いのも嫌だ。


 だが、まったく面白くない。


 兎は根の陰で急に向きを変え、角兎の進む先から横へ飛び出した。


 角兎の鼻先が近づく。


 兎は地面を蹴り、斜め後ろへ跳んだ。


 今度は間に合った。


 すぐ横を角が掠め、角兎の身体が根の向こうへ流れる。


 その背を見て、兎の後ろ脚が反射的に動いた。


 ぱんっ。


 小さな蹴りが、角兎の後脚に当たった。


 相手は止まらなかった。


 振り向いた。


 それだけで、兎は思い知らされた。


 硬い殻の魔獣を転がしたときのようにはいかない。今の蹴りでは、相手の身体を揺らすことすらできなかった。


 角兎の耳が後ろへ倒れる。


 その直後、角の先がこちらを向いた。


 兎は逃げた。


 ――勝てない相手から逃げることと、何もせず負けることは違う。


 少なくとも、この小さな兎はそういう身体の動かし方を覚え始めていた。


     ◇


 根の間を抜けた先には、さっきの水の流れがあった。


 向こう岸には、寝床へ戻る道がある。


 兎は迷わずそちらへ走った。


 しかし、先ほど飛び越えた場所には戻れなかった。


 角兎が横から迫り、逃げ道を塞いだからだ。


 兎は急いで流れに沿って上流へ向かった。足元の土が崩れやすくなり、石が増える。


 やがて、溝は少し広くなった。


 向こう岸まで、さっきより遠い。


 そこをさらに進めば、低い倒木が渡されている。だが角兎の足音は近かった。


 兎は倒木へ跳び乗った。


 濡れている。


 前脚が滑り、腹が木肌に当たる。


 なんとか踏ん張り、半分ほど進んだところで、背後から重い着地音がした。


 角兎が倒木の手前へ来ていた。


 兎は振り返った。


 角兎が鼻を鳴らす。


 一歩、前へ出る。


 その重みで、腐りかけた木が小さく軋んだ。


 兎は前へ進もうとした。


 足が滑った。


 身体が横へ傾く。


 すぐ下には水がある。


 流れは細くても、濡れた石と深い窪みは小さな身体には危険だった。


 兎は慌てて木へ腹を押しつける。


 背後では角兎がまた一歩進み、木の表面を爪で掻いた。


 めきり。


 嫌な音がした。


 兎の耳がぴんと立つ。


 倒木の根元が、わずかに沈んだ。


 兎は前を見た。


 向こう岸までは、まだ少しある。


 歩けば間に合わない。


 戻れば角がある。


 このままでは落ちる。


 身体の中に、これまでの跳躍の感覚が押し寄せた。


 寝床の岩。


 二本の木の根。


 蜂系魔獣から身をかわしたときの横跳び。


 さっき、流れを越えたときの着地。


 どれも、ひとつひとつは小さな動きだ。


 だが、それらは確かに兎の脚に残っていた。


 そして、頭の奥に、あの文字の気配が浮かんだ。


 今までとは違う、枝分かれした形。


 兎には読めない。


 それでも、何かの方向が二つあることだけは、かすかに伝わってくる。


 前へ出るもの。


 跳んで越えるもの。


 その片方が、妙にはっきりと感じられた。


 文字を人の言葉で表すなら、こうだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


《進化観測》


進化候補:《角兎》

↪特徴:額に角を備え、正面からの突進を得意とする。

進化条件:未達成

↪手がかり:――

進化選択:不可


進化候補:《跳兎》

↪特徴:後脚の運動能力が発達し、跳躍・瞬発力・蹴撃に優れる。

進化条件:達成

↪手がかり:跳躍に関わる経験の蓄積。

進化選択:可能


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 兎は、その意味を理解したわけではなかった。


 名前も、条件も、何ひとつ読めない。


 だが、跳ぶ方へ進める。


 それだけは、まるで後ろ脚の感覚の延長のように伝わってきた。


 兎は倒木に身体を押しつけたまま、足を踏ん張った。


 もっと向こうへ。


 あそこへ行きたい。


 この身体で、跳んで帰りたい。


 その意志が、ひとつの方向へ定まった。


 《進化の羅針》が、応じた。


     ◇


 最初に変わったのは、後ろ脚だった。


 筋肉の奥に熱が走る。


 足先が震え、骨と筋の位置が変わっていくような感覚が広がった。


 痛みはある。


 けれど、傷つけられたときの痛みとは違う。


 小さな身体の内側で、今までの形が作り直されていた。


 毛が逆立ち、背がわずかに伸びる。腰から後ろ脚にかけての筋肉が締まり、長さと力の釣り合いが変わっていく。


 世界が止まったわけではない。


 背後では、角兎が角を揺らしながら倒木を踏んでいる。


 木はまだ軋んでいた。


 進化には、ほんの数呼吸ほどの時間が必要だった。


 その間、兎は腹を木に押しつけ、動かないことで滑り落ちるのを防いだ。角兎は狭く濡れた足場を嫌ったのか、鼻先を伸ばして前脚を掛け直し、すぐには飛び込んでこない。


 やがて、後ろ脚を包んでいた熱が静まった。


 身体は少し重くなったようでいて、足先だけが妙に軽い。


 名もない普通の《兎》は、ここで初めて存在進化を果たした。


 新たな種族は――《跳兎》。跳躍と瞬発力に特化した、兎の新しい姿である。


 しかし本人は、そんなことを知る由もない。


 ただ、脚の感覚が違っていた。


 地面を蹴る前の力が、いつもより深く溜まる。


 倒木の先にある岸が、さっきより近く感じられる。


 角兎が首を振った。


 その角が、こちらへ伸びる。


 兎は跳んだ。


 ぐんっ。


 身体が前へ飛び出した。


 想像より速かった。


 濡れた倒木が足元から消え、目の前には向こう岸の土と草が迫ってくる。


 届く。


 そう思った次の瞬間には、もう前脚が土を掴んでいた。


 だが、勢いが止まらない。


 兎は着地してから二跳びぶんも前へ転がり、最後は草の中へ頭から突っ込んだ。


 ばさっ。


 しばらくして、葉の間から長い耳が一本だけ現れた。


 続いて、もう一本。


 兎はもぞもぞと身体を起こした。


 痛い。


 でも、生きている。


 後ろを振り返ると、角兎はまだ倒木の手前にいた。こちらを見ていたが、それ以上追ってくる気配はない。


 やがて向きを変え、元の草地へ戻っていった。


 兎はしばらくその背中を見つめた。


 勝ったわけではない。


 角のある相手を倒したわけでもない。


 ただ、戻ってこられた。


 自分の脚で。


 そのことが嬉しくて、兎はその場で一度だけ跳ねた。


 ――そして、予想以上に高く跳び上がった。


 あっ。


 着地の用意が間に合わない。


 兎は今度こそ四本の脚をばらばらに伸ばして落ち、腹から柔らかな草へ突っ込んだ。


 ぼふっ。


 ……進化したからといって、すぐに新しい身体を使いこなせるわけではないらしい。


     ◇


 帰り道、兎はひどく慎重だった。


 何しろ、いつもどおりの強さで地面を蹴ると、思った場所より先へ飛んでしまう。


 小さな根を越えるつもりが、もう一つ向こうの根まで飛んだ。


 段差を下りるつもりが、頭上の葉に耳を突っ込んだ。


 そのたびに身体を丸め、土の上でじっと動きを止める。


 怪我が増えては困る。


 そんな慎重さを身につけたのは立派だが、そもそも跳ぶ前に少し力を抜けばよいのではないだろうか。


 まあ、それが難しいのだ。


 まだ新しい脚なのだから。


 ようやく寝床の岩が見えたころには、兎はすっかり疲れていた。


 腹も減っている。


 なにより、甘い実が食べたい。


 ……そういえば、さっきの草地には赤い実がたくさん落ちていた。


 兎は足を止めた。


 鼻を動かす。


 遠くの甘い匂いを思い出したのだろうか。


 しかし、角のある魔獣の気配も一緒に思い出したらしい。


 耳を伏せ、しばらく考えるように動かなくなったあと、寝床へ向き直った。


 今日のところは、近くの草でよしとする。


 非常に賢明な判断である。


 もっとも、寝床の前で草を食べ始めた途端、その判断の立派さもどうでもよくなった。


 むしゃむしゃ。


 もぐもぐ。


 草は草で、美味しい。


 食事を終えると、兎は根と岩の隙間へ潜り込んだ。


 ところが、入口で腰がつかえた。


 むぐっ。


 前脚は入る。


 頭も入る。


 だが、後ろ脚の収まりが悪い。


 兎は一度引き返し、身体を低くして、今度は斜めに滑り込んだ。


 なんとか入った。


 落ち葉の上へ腹を落とす。


 ふかっ。


 相変わらず、よい寝床である。


 ……少々、手狭にはなったが。


 兎は身体を丸めた。


 新しくなった後ろ脚は、まだじんわりと温かい。


 昼間の不思議な文字を、もう一度確かめる余裕はなかった。あれが何だったのかも、自分に何が起きたのかも、まだよく分からない。


 ただ、明日はもっと遠くまで跳べそうだった。


 それから、もっと美味しいものが見つかるかもしれない。


 兎は鼻先を前脚へ埋める。


 寝床の外では、迷宮の森が変わらずざわめいていた。


 今日も生き残った。


 初めて、自分の身体が変わった。


 そして、明日もきっと腹が減る。


 ――おやすみ、兎。


 せっかくの新しい脚だ。明日は、もう少し上手に使えるといいな。

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