第3話『食い物の恨みは深い』
目が覚めた。
まず、鼻が動いた。
次に耳が動き、最後に、落ち葉に埋もれていた小さな身体がもぞもぞと起き上がる。
大木の根と岩の隙間には、朝のような淡い光が差し込んでいた。
入口の向こうから草の匂いが流れ込み、どこか遠くでは水が鳴っている。
兎は前脚を伸ばした。
ちくっ。
脇腹が痛んだ。
昨日の戦いでついた傷である。
耳の先もまだひりひりするし、森の外から逃げ込んだときに打った肩にも鈍い痛みが残っていた。
けれど、眠ったおかげで身体はずいぶん軽い。
狭い寝床には昨夜の自分の匂いが残っている。
ほかの生き物が入り込んだ気配もない。
兎は身体をひねり、傷のない方の脇腹を舐めた。
そこではない。
もう少し後ろだ。
ようやく傷に舌が届くと、今度は舐めすぎて痛くなった。
……まあ、今日も元気そうで何よりである。
毛繕いを終え、入口へ鼻を寄せる。
外の空気は冷たく、湿った葉と土の匂いがした。
耳を立てて待っても、すぐ近くを歩く足音はしない。
安全そうだ。
兎は外へ飛び出し、平たい岩の上へ跳び乗った。
昨夜、黒い殻の魔獣を転がした岩だ。
その縁に、硬い脚が掻いた白い筋が残っている。
兎は筋を嗅いだ。
見覚えのある相手の匂いが微かにしたので、すぐに耳を伏せた。
いない。
それでも、少しだけ落ち着かない。
そこで兎は岩から跳び下り、すぐ隣の草をひと口かじった。
もぐもぐ。
うん。
腹が減った。
あれほど苦労して手に入れた寝床だというのに、目覚めて最初に気になるのは食事である。
――実に一貫した兎だった。
◇
草の中を進むと、昨日は気づかなかった匂いがあった。
甘い。
ただ甘いだけではない。
熟した果肉の濃い匂いに、少し酸っぱい香りが混じっている。
兎の鼻が忙しく動いた。
右へ三跳び。
違う。
左へ二跳び。
近い。
根を越え、低い茂みをくぐると、そこだけ枝が細かく分かれた小さな木があった。
葉の陰に、親指ほどの赤い実が幾つもぶら下がっている。
地面にも二つ落ちていた。
兎は片方へ鼻を寄せた。
甘い。
鼻先を押しつける。
柔らかい。
恐る恐る齧ると、薄い皮が破れ、口いっぱいに汁が広がった。
耳が、ぴんと立った。
これは。
これは、すごい。
今まで食べた草とは違う。
葉を何度も噛んでようやく感じる甘さではなく、齧った瞬間から甘いのだ。
兎は夢中で噛んだ。
一つ目が消える。
二つ目も消える。
顔を上げる。
枝には、まだある。
たくさんある。
最高の場所を見つけてしまった。
兎は後ろ脚に力を込め、低い枝へ向かって跳んだ。
届かない。
もう一度。
今度は鼻先が葉に触れた。
実は、その少し上だ。
むむ。
兎は枝の真下で立ち上がり、前脚を幹にかけた。
すると、耳元でぶうん、と音がした。
黒っぽい小さな影が横切る。
兎はびくりと首をすくめた。
影は一つではなかった。
枝の周りを飛び回っていたのは、蜂系魔獣だった。
透き通った翅、細くくびれた胴、丸い黒っぽい腹に、節のある六本の脚。
兎の鼻先ほどの小さな身体で、赤い実に止まっては皮を齧り、汁を吸っている。
虫の形をしていても、迷宮に棲む立派な魔獣の一種である。
さらに、熟れた実の陰では小さな翅が重なり合っていた。
ここは、兎だけの食堂ではなかったらしい。
当然、先客がいる。
しかも、先客は飛べる。
なんとも不公平な話である。
兎は枝に鼻を伸ばした。
一匹が顔の横を通り過ぎる。
もう一匹が、目の前で空中に止まるように翅を震わせた。
兎は動きを止めた。
相手は小さい。
昨日の殻の魔獣より、ずっと小さい。
だが、口の先には細い硬い部分があり、脚の先は曲がっている。
枝から飛び立ったもう一匹も、同じように兎の周りを旋回し始めた。
ぶうん。
ぶぶぶ。
鼻先へ、ひとつの影が飛び込んできた。
兎は反射的に顔を振った。
こつっ。
小さな魔獣が頬をかすめ、ひりっと痛みが走った。
兎は慌てて後ろへ跳んだ。
翅音が追いかけてくる。
もう一跳び。
さらに一跳び。
茂みの下へ潜り込むと、翅音は頭上を行き過ぎた。
兎は身を伏せ、耳を後ろへ倒した。
怖い。
近づくと痛い。
だが、茂み越しに見える赤い実が、どうしても気になった。
まだ、たくさんある。
いっぱいあるのに。
ほとんど食べられていない。
兎は鼻を鳴らした。
――どうやら、食べ物の恨みは恐怖より少しだけ長持ちするらしい。
◇
兎は茂みの下を移動した。
枝から落ちた実が、葉の間に一つ挟まっている。
赤い。
甘い匂いがする。
あと少し、前に出れば届く。
身体を伸ばした瞬間、翅音が降りてきた。
兎は慌てて顔を引っ込めた。
一匹の蜂系魔獣が実の上に止まり、細い口を皮へ押し当てる。
兎はそれを見つめた。
自分の実だ。
……いいえ、違います。
そもそも誰のものでもない。
そんなことは兎に関係なかった。
目の前の美味しいものが、別の生き物の口へ消えていく。
それだけで十分である。
兎は前脚を伸ばした。
葉に触れる。
魔獣が翅を広げる。
兎はさらに伸びた。
次の瞬間、葉がはね、実がころんと転がった。
実に止まっていた魔獣も飛び上がる。
兎は実へ飛びついた。
がぶっ。
成功した。
口の中で実が潰れる。
途端に二匹目が横から飛んできた。
兎は口を閉じたまま跳び退いた。
翅が耳をかすめ、枝が前脚へ絡む。
身体が傾いた。
あっ。
前脚が滑る。
兎は横倒しになり、柔らかい土へ転がった。
ぶうん、と頭上を魔獣が通り過ぎる。
追いかけるように、もう一匹。
兎は実を口にくわえたまま立ち上がろうとした。
しかし、身体を起こす前に一匹が近づいてきた。
耳の裏を細い脚が引っかく。
痛い。
兎は思いきり後ろ脚を蹴り上げた。
ぱしっ。
足先が何かに当たった。
翅音が乱れ、小さな魔獣が葉の上へ落ちる。
兎は一瞬だけ動きを止めた。
当たった。
足が。
あの、ぶんぶん飛ぶものに。
落ちた魔獣はすぐ翅を震わせて飛び直した。
たいした傷を負った様子はないが、近づくのをためらうように距離を取っている。
もう一匹は少し高いところを回っていた。
兎は身体を低くする。
翅音が近づく。
後ろ脚へ力を溜める。
飛んでくる影が、鼻先を横切った。
兎は跳んだ。
上ではなく、横へ。
魔獣はそのまま背後へ通り過ぎ、低い葉へぶつかった。
落ちた葉が揺れる。
そこへもう一匹が入り込み、二匹の翅音が重なった。
兎はその隙に茂みの奥へ飛び込んだ。
追ってきた魔獣は、狭く重なった葉の間へうまく入れない。
外側を回るが、兎が葉陰を移動するとすぐ姿を見失う。
兎は口の中の実を噛んだ。
甘い。
とても、甘い。
痛い思いをしたあとで食べると、なぜだか余計に美味しかった。
……気のせいである。
それでも兎は満足げに顎を動かし、葉の隙間から外を覗いた。
枝にはまだ赤い実が残っている。
さっきの小型魔獣たちは、その周りをぐるぐる飛んでいた。
自分が離れたら、また実に戻っていく。
兎は少しだけ首を傾げた。
茂みの奥には、別の赤い実も落ちていた。
今度は魔獣の翅音が届かないところだ。
兎は、そちらへ向き直った。
……最初から、地面を探せばよかったのでは?
しかし当の兎は、たいへん満足そうだった。
目の前の勝負には負けていない。
美味しいものも手に入った。
これでよいのである。
◇
帰り道は、来たときよりゆっくりだった。
兎は茂みの中で食べ残した実を一つくわえ、幾つかの根を越えて寝床へ向かった。
赤い汁が口元の毛に付き、ときおり甘い匂いが鼻へ上がってくる。
つい噛みたくなる。
いや、少し噛んだ。
さらに少し噛んだ。
寝床に着くころには、実の半分がなくなっていた。
――持ち帰りとは何だったのか。
大木の根の下へ潜り込み、落ち葉の上へ腹を落とした。
ふかっ。
相変わらず、よい寝床である。
昨日つけた傷はまだ治っていない。
今日も耳に小さな擦り傷が増えた。
何度も跳んだ後ろ脚は少し熱く、胸も忙しく上下している。
それでも、逃げるだけでは終わらなかった。
怖かった。
痛かった。
だが、口の中には甘さが残っている。
兎は落ち葉へ前脚を伸ばした。
跳んだときの感覚が、脚に残っていた。
あの小さな影が近づく前。
地面を蹴る、ほんの一瞬。
脚を動かすと、身体が思いどおりの方へ飛んだ。
全部がうまくいったわけではない。
転んだし、痛い思いもした。
それでも、少し前より上手に動けた気がした。
ふと、頭の奥で、何かがかすかに揺れた。
昨日もあった。
眠る前に感じた、薄い線のようなもの。
目を開けても何も見えない。
耳を動かしても、変わった音はない。
兎は鼻先を前脚へ埋めた。
それなのに、線は消えなかった。
むしろ、身体を丸めてじっとしているうちに、少しずつ形がはっきりしてきた。
一本が、幾つかに分かれる。
分かれた線が並び、見たことのない形になる。
文字だった。
もちろん、兎が文字を見たことはない。
兎にとっては、匂いでも音でもない、奇妙な形が頭の奥に浮いているだけだ。
けれど、変わったことが起きた。
形の一つに意識が触れると、ふいに、自分の脚の感覚が伝わってきたのである。
跳ぶ。
地面を蹴る。
身体を運ぶ。
その感覚が、名前の分からない何かとしてまとまった。
別の形へ意識を向けると、今度はもっと大きなものがあった。
今いる自分を知ること。
この先に何かがあること。
そして、その先で、どちらかへ進むこと。
しかし、兎にはほとんど分からなかった。
腹が空いたときに食べ物を探すのとは違う。
耳で危険を聞き取るのとも違う。
感覚は伝わってくるのに、それらが何を意味するのか、頭の中でうまくつながらない。
ただ、これは外にいる怖い生き物ではない。
自分の中にある、何かだ。
頭の奥に浮かんだ文字を、人の言葉で表すなら、こうなる。
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固有能力:《進化の羅針》
↪詳細:自身の保有する能力・スキルを確かめ、進化の可能性を観測し、条件を満たした進化先を選ぶ。
能力:――
スキル:《跳躍》Lv1
↪詳細:脚で地面を蹴り、身体を跳ばす動作に関する技術。
その他:
⦅世界の祝福⦆
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最後の一行には、ほかの項目のような説明がなかった。
兎はその形へ意識を向けた。
けれど、さっきの跳ぶ感覚のようには、うまくつかめない。
しばらくすると、兎の興味は別のところへ移った。
足元に、食べ残した赤い実がある。
甘い匂いがする。
兎は迷わず鼻を寄せた。
ぱくっ。
文字が揺れた。
口を動かす。
文字が薄くなった。
ごくん。
最後のひとかけらが喉を通るころには、頭の奥に浮いていたものは、すっかり見えなくなっていた。
兎は落ち葉の上で身体を丸めた。
難しいことは、まだ何も分からない。
今日のところは、跳んで、転んで、蹴って、食べた。
それから、ちゃんと帰ってきた。
それだけで十分な一日だった。
外では、小さな翅音が遠ざかっていく。
森のどこかでは、別の生き物が同じように食べ物を探しているのだろう。
昨日と同じ岩、同じ木の根、同じ葉の匂いも、明日にはまた違うものになるかもしれない。
それでも、兎はまだ知らない。
自分の内側に現れたものが、どれほど長い道の始まりなのか。
――まあ、今はいい。
お腹がいっぱいなら、少しくらい眠ってもよいだろう。
そうして兎は、戦って手に入れた寝床で、小さなあくびをした。
口の周りには、赤い実の汁がついたままである。
……できれば、そこも毛繕いしてから眠ってほしいものだ。




