第2話『寝床争奪戦』
お腹がいっぱいになった。
それは素晴らしいことだった。
名もない兎は、最後の葉を口に押し込み、もぐもぐと顎を動かした。
甘い汁が舌に残る。
先ほどまで脚を震わせていた恐怖も、少し遠くへ退いた気がする。
満腹とは偉大である。
しかし、世の中には食事だけでは解決できない問題もある。
眠いのだ。
兎は草の上で身体を丸めかけ、ぴたりと動きを止めた。
背中に風が触れた。
開けた場所には、身を隠してくれる母親の腹も、寄り添うほかの兎の体温もない。
さっきの追跡でこすれた肩がじんと痛み、耳は離れた葉擦れの音にまで反応してしまう。
草は柔らかい。
腹も満ちた。
だが、ここで目を閉じるのは、どうにも嫌だった。
兎は立ち上がり、鼻を鳴らした。
食べ物の次に必要なのは、安心して丸くなれる場所らしい。
本人がそんな立派な結論を出したわけではない。
身体がそう訴えていただけだ。
それでも、目的があることには違いない。
――さあ、初めての家探しである。
◇
少し進むと、草の高さが変わった。
先ほど兎が食べていた場所は膝ほどの草がまばらに生えた明るい斜面だったが、その先には、幹を何本合わせても抱えきれそうにない大木が並んでいた。
枝葉は頭上の淡い光を受け止め、太い根が地面の上で曲がりくねっている。
水の音がした。
低い岩の間を透き通った流れが通り、岸には丸い葉を広げた草が群れている。
喉の渇いた兎は、音の方へ二跳びした。
そこで止まる。
対岸で何かが動いた。
兎に似ていた。
長い耳。
丸い身体。
草へ顔を伏せる仕草まで、よく似ている。
ただし、額から短く鋭い角が一本伸びていた。
身体もこちらよりずっと大きく、地面を蹴る脚には張りがある。
《角兎》。
魔獣に分類される生き物だ。
こちらは普通の《兎》。
同じような顔をしているからといって、同じ生き物ではない。
そんな分類など知るはずもなく、兎は向こうの耳が動くのを見つめていた。
角のある相手も顔を上げた。
黒い目が一瞬こちらを向く。
兎は身を縮めた。
だが、相手は水を飲むと、草を噛みながら林の奥へ去っていった。
食べられなかった。
追われもしなかった。
どうやら、この森にいる大きな生き物が皆、自分を食べたがっているわけではないらしい。
……だからといって、近づいてよいわけでもないが。
兎は水辺へ下り、慎重に鼻を寄せた。
冷たい水が舌に触れる。
ひと口飲み、耳を立て、また飲む。
すると、水面を細い影が横切った。
小さな羽虫に似た魔獣だった。
薄い羽を忙しく動かし、岸辺の草の上を飛んでいく。
次の瞬間、草の中から蔓が跳ね上がった。
影が消えた。
細い蔓は羽のある魔獣を絡め取ると、葉の重なる奥へゆっくり引き寄せていく。
葉の縁から、わずかに赤みがかった汁が滴った。
《吸血蔓》。
見た目は植物でも、魔獣に属する危険な生物だ。
兎は飲みかけの水から顔を離した。
自分の近くの草は、動かない。
もう一度、鼻を近づけようとして――やめた。
水を飲むには十分だった。
この判断は、とてもよろしい。
川上の方では、倒木の陰を丸いものが動いていた。
傘のような頭と短い脚を持つ《歩行茸》である。
枯れた木肌をゆっくり横切り、途中で止まると、また少し動く。
頭上では小型の飛翔魔獣が木の枝を渡り、遠くの茂みからは獣の低い唸りが聞こえた。
迷宮の森は、静かなようで静かではない。
草を食べるものがいる。
虫を捕らえるものがいる。
その虫を狙うものも、もっと大きな獲物を待つものもいる。
どれも人間が育てた庭の飾りではなく、ここで生きている。
兎はそんな大きな仕組みを理解したわけではなかった。
ただ、ひとつ分かったことがある。
むやみに近づくと、食べられるかもしれない。
兎は水辺を離れ、木の根が重なる方へ進んだ。
◇
最初に見つけた寝床は、じつに柔らかかった。
背の高い草が内側へ倒れ、ちょうど兎一羽が収まるくらいのくぼみを作っていた。
鼻を押し込むと、ふかふかしている。
葉の匂いも悪くない。
兎は前脚をそろえ、腹を落とした。
いい。
これは、いい。
目を閉じかける。
そのとき、頭上で羽が鳴った。
ばさり、と風が落ち、草の先が一斉に揺れる。
兎は反射的に跳ね起きた。
頭上の光を横切った影は、こちらへ降りてこなかったものの、すぐ近くの枝に止まったらしい。
細い爪が木肌を引っかく音がする。
兎は草から飛び出した。
柔らかいだけでは駄目らしい。
次に見つけたのは、石の下のくぼみだった。
入口は狭い。
上には丈夫そうな岩。
これなら空を飛ぶものの爪も届きにくいだろう。
鼻を入れた。
ひんやりする。
前脚を入れた。
ぬるり。
足元が沈んだ。
奥には水が溜まっていた。
腹の毛が濡れ、冷たさが背筋まで這い上がる。
兎は慌てて後ずさった。
これは、嫌だ。
濡れた前脚を何度も振り、近くの乾いた土を掻く。
今度は跳ね返った砂が自分の鼻に入った。
くしゅん。
……何をしているのだろう、この兎は。
さらに進み、根の下の細い穴を見つけた。
入口から風が来ない。
中は暗いが、乾いた土の匂いがする。
今度こそ。
胸を張るほどのことでもないのに、兎は少し得意げに鼻先を突っ込んだ。
ところが穴は、ほんの少し入ったところで行き止まりだった。
頭は入った。
肩も半分入った。
胴は入らない。
じたばたする。
後ろ脚が空しく土を蹴る。
引き返そうにも、前脚の置き場がない。
しばらくしてようやく抜け出したときには、鼻の先から耳まで土まみれになっていた。
いったん座る。
耳を振る。
腹が減ってきた。
あれだけ食べたのに、である。
とはいえ、巣穴探しは思ったより大仕事だった。
森を行ったり来たりするだけでも、短い脚にはなかなか堪える。
兎は近くの草を少しかじり、再び歩き出した。
安全で、乾いていて、身体が入る場所。
そんな都合のよいものが、果たして――。
あった。
大木の根が平たい岩を抱くように広がった場所に、小さな隙間が開いていた。
入口は兎が身体を低くすれば通れそうな幅。
内側はほどよく広く、奥には乾いた落ち葉まで溜まっている。
岩の下に収まっているので、頭上からも姿が見えにくい。
ほのかな土の匂い。
心地よい暗さ。
申し分ない。
兎は迷わず入ろうとした。
そこで、中から何かが動いた。
◇
かさっ。
落ち葉が擦れた。
奥に、黒く硬いものがあった。
手のひらほどの長さをした、甲虫に似た小型の魔獣である。
背は丸く、黒褐色の殻に細い筋が走っている。
短い脚がいくつも土を掴み、頭の前には小さくても頑丈そうな顎が突き出していた。
先客だった。
しかも、こちらを歓迎する気はなさそうである。
兎が一歩進むと、相手は前脚で土を引っかいた。
硬い殻が入口の石に当たり、こつん、と音を立てる。
兎は首を伸ばした。
奥の落ち葉が気になる。
ふかふかしている。
どう考えても、あそこは気持ちがよさそうだ。
もう一歩。
魔獣が突っ込んできた。
がちん!
顎が目の前で鳴った。
兎は驚いて後ろへ跳び、入口の縁に頭をぶつけた。
痛い。
ついでに耳の先を相手の顎がかすめ、熱いものが走る。
慌てて外へ転がり出る。
魔獣は入口で止まり、硬い脚を踏ん張ってこちらを向いていた。
追ってはこない。
だが、中へ入ろうとすればまた噛まれる。
兎は耳を伏せ、鼻をひくつかせた。
怖い。
痛い。
離れたい。
その思いが身体の奥から押し寄せてくる。
それなのに、視線はどうしても奥の落ち葉へ戻ってしまう。
そこは、あったかそうだった。
あんなに探したのだ。
柔らかな草のくぼみも、濡れた岩穴も、狭すぎる隙間も駄目だった。
ようやく見つけた場所を、目の前の小さな相手に奪われた。
……いや、そもそも最初から相手の寝床なのだが。
そんな事情を、兎が理解するはずもなかった。
兎は入口から少し離れたところで身を伏せた。
いったん、逃げた。
けれど立ち去りはしない。
魔獣の顎が届く範囲の外でじっと待ち、鼻と耳を働かせる。
中の相手は、入口から先へ出てこなかった。
こちらが動くたびに身体の向きを変え、硬い背中を岩に擦りつけている。
兎は右へ動いた。
魔獣が向き直る。
左へ動いた。
また、向き直る。
もう一度、右へ。
魔獣も右へ。
しかし、殻の広い身体は狭い場所で素早く回れない。
向き直るたびに、脚が石の縁へ引っかかった。
兎の耳が立った。
相手の口は怖い。
正面は危ない。
だが、横なら――。
兎は、入口へ近づいた。
さっきより低く、前脚を小さく運ぶ。
魔獣が土を掻く。
顔を寄せた瞬間、硬い顎が開いた。
兎は跳んだ。
後ろではない。
入口の左、木の根が横へ張り出した方へ。
勢い余った魔獣が、入口から半身を乗り出した。
そのすぐ横を、兎が駆け抜ける。
しかし相手も、ただの鈍い石ころではなかった。
殻を軋ませて身体をひねり、前脚の先で兎の脇腹を引っかける。
ちくり、と痛みが走った。
兎は着地を乱し、前脚から土へ突っ込む。
追ってくる。
固い脚が、かさかさと地面を叩いた。
兎は慌てて跳び退いた。
顎が土を噛む。
危なかった。
もう少し遅ければ、脇腹を挟まれていたかもしれない。
胸が激しく上下する。
逃げたい。
もう一度、怖いものから離れたい。
そのとき、なぜか頭の奥に、薄い線がちらついた。
葉脈のようでいて、葉とは違う。
見たこともない形が、幾つか並んでいるようだった。
視界に何かがあるわけではない。
耳も、鼻も、それを捉えていない。
ただ、内側のどこかで、何かが応じかけた。
もっと速く。
もっと、うまく動けたら。
そんな言葉を兎が考えたわけではない。
逃げ遅れた身体の奥に、そういう願いにも似たものが生まれただけだ。
だが、今はそれどころではない。
魔獣が再び顎を鳴らした瞬間、薄い線は消えた。
兎は地面を蹴った。
◇
入口の外には、平たい岩が一枚あった。
その右側を雨水が削ったのか、細い溝が走っている。
兎なら軽く跨げる幅だが、殻の広い相手には少し厄介そうだった。
兎は岩の端へ走った。
追ってくる足音が近づく。
振り返ると、魔獣は思ったより速かった。
短い脚を忙しく動かし、丸い身体を揺らしながらこちらへ向かってくる。
正面からぶつかれば、きっと痛い。
兎は足を止めた。
身体を低くする。
魔獣が突っ込んでくる。
今度こそ、前脚を伸ばせば届くところまで引きつけた。
それから、横へ跳ぶ。
顎が空を噛んだ。
魔獣の前脚が岩の溝へ落ちた。
硬い殻が傾き、身体の片側が浮き上がる。
兎は反射的に後ろ脚を振り上げた。
どんっ!
蹴った。
正確に言えば、身をひねりながら無我夢中で脚を突き出しただけだ。
だが、兎の後ろ脚は跳ぶための脚である。
小さな身体でも、近い距離から押し出す力は侮れない。
蹴りは殻の横腹に当たった。
魔獣がぐらりと傾く。
かさっ、がりっ、と硬い脚が岩を引っかく。
次の瞬間、丸い身体が溝の向こうへ転がった。
兎も勢い余って尻餅をついた。
二匹とも、しばらく動かなかった。
先に動いたのは魔獣だった。
殻を傾けたまま脚をばたつかせ、ようやく身体を起こすと、再び顎をこちらへ向けた。
終わっていない。
兎は立ち上がった。
息が荒い。
脇腹が痛む。
耳の先もひりひりする。
怖くないわけがない。
けれど今、魔獣は自分より低いところにいる。
寝床の入口は、兎の背後にあった。
兎は入口の前に座り、相手を見つめた。
魔獣が溝の縁へ脚をかける。
兎は前脚を踏ん張った。
また、来る。
魔獣が登りきった瞬間、兎は短く跳ねて前へ出た。
顎が開くより先に頭を引っ込め、後脚で土を蹴り上げる。
砂が殻と顎の間に散った。
魔獣が脚を止めた。
その一瞬に、兎はもう一度横から身体をぶつけた。
どさっ。
魔獣は岩の上から滑り落ち、低い地面へ戻った。
二度目である。
今度は相手もすぐには戻ってこなかった。
顎を何度か開閉し、前脚で砂を掻く。
そして硬い殻を揺らしながら、少しずつ横へ向きを変えた。
兎は動かない。
耳を立てたまま、じっと見ている。
やがて魔獣は岩の根元を離れ、草の密生した方へ進んでいった。
小さな背中が見えなくなっても、兎はしばらく入口に座っていた。
追いかける必要はない。
あの硬い顎には、もう近づきたくなかった。
でも――。
ゆっくり、後ろを振り返る。
暗い隙間。
乾いた落ち葉。
さっきまで届かなかった場所。
兎は鼻をひくつかせ、一歩だけ入った。
何も飛び出してこない。
もう一歩。
足元の葉がかさりと鳴る。
奥まで入り、くるりと身体の向きを変えてみる。
入る。
ちゃんと、入る。
兎はその場で小さく跳ねた。
嬉しかったのだろう。
何がどう嬉しいのかを、本人は言葉にできない。
それでも、尻尾の先まで弾むような気分だった。
ようやく見つけた寝床。
自分で、守った場所。
……ただし、もとの持ち主が引っ越したばかりの物件である。
◇
安心すると、身体の痛みが戻ってきた。
兎は座り込み、耳の先を前脚で撫でた。
赤い傷は小さいが、触ると痛む。
脇腹にも細い擦り傷が残り、さっきぶつけた肩はまだ少し重い。
勝ったからといって、傷が消えるわけではない。
それでも、四本の脚は動く。
息も少しずつ整ってきた。
兎は口で落ち葉を引き寄せた。
入口から風が入る。
奥へ葉を押し込むと、身体を置く場所が少し柔らかくなる。
何枚か集め、前脚でかき寄せているうちに、落ち葉の山ができた。
そこへ腹を落とす。
ふかっ。
いい。
たいへん、いい。
兎はくるりと向きを変え、もう一度丸まった。
まだ落ち着かない。
今度は入口を向いて座り、耳を立てる。
外では草が揺れ、ときおり見知らぬ生き物の足音が通り過ぎた。
遠くから低い鳴き声もする。
さっきの魔獣が戻ってくるかもしれない。
もっと大きなものが顔を覗かせるかもしれない。
この場所がずっと安全だという保証は、どこにもない。
けれど、上には岩がある。
背後には木の根がある。
少なくとも、開けた草地に寝転ぶよりはずっと落ち着けた。
兎は耳を一度動かし、鼻先を前脚へ埋めた。
眠りかけたところで、ふと、昼間のあの不思議な感覚が頭の奥をかすめた。
薄い線。
知らない形。
何かを示しているようで、まだつかめないもの。
兎が少しだけそちらへ意識を寄せると、かすかな気配がまた浮かびかけた。
だが、その直後に大きなあくびが出た。
口が開き、耳が揺れる。
気配は、眠気の向こうへ溶けていった。
この小さな兎の内側には、生まれつき、不思議な力が眠っている。
けれど本人は、それが何なのかも、どうすれば触れられるのかも知らない。
今はただ、小さな身体に収まりきらないほどの一日を過ごして、眠ることで精一杯だった。
外の森にいた頃とは違う匂いがする。
寄り添ってくれる温かな毛並みもない。
少しだけ身体を縮め、それからもう一度、落ち葉へ深く潜り込んだ。
入口から入り込む風は弱く、石の奥は乾いていた。
腹は満ちている。
寝床もある。
傷は痛いが、ちゃんと生きている。
今日のところは、それで十分だろう。
迷宮の森には、まだ知らない獲物も天敵も、数え切れないほどいる。
ここで生きるなら、食べ、隠れ、ときには戦わなければならない。
そのことを、この小さな兎は初めて身体で知った。
――おやすみ、兎。
勝ち取った寝床で、ゆっくり眠るといい。
明日になれば、きっとまた腹が減るのだから。




