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第1話『とりあえず、腹が減った』

名も知れぬ大地がある。


地図に描かれたことのない山があり、その麓には、誰に数えられることもなく季節を重ねる森がある。

森では今日も、いくつもの命が生まれ、いくつもの命が消えていく。


大きな獣が倒れたところで、木々は揺れるばかり。

小さな虫が殻を破ったところで、風は立ち止まらない。


まして、木の根元にある小さなくぼみで、一羽の兎が生まれたことなど。

世界にとっては、実にささやかな出来事だった。


……ただし、生まれた当人にとっては、これ以上ないほど重大な出来事である。

なにしろ、腹が減っていた。


生まれたばかりの身体には、まだまともな毛も生えそろっていない。

目は開かず、耳も頼りにならない。

鼻先で触れるものが何なのかすら分からなかった。


それでも、温かいものと冷たいものは分かった。

身体に押しつけられる柔らかな毛並みも、そこから漂う安心する匂いも。

そして、温かな匂いのする方に食べ物があるということも。


小さな身体が、もぞりと動いた。

隣では同じくらい小さな塊が動いている。

そちらも腹を減らしていたらしく、温もりを求めて鼻先を押しつけてきた。


邪魔だった。

押し返す。

押し返される。

もう一度、押す。

勝った。


いや、正確には相手の方がたまたま別の方向へ動いただけなのだが、勝ったことにしておこう。

本人はたいへん満足そうに、ようやく見つけた母親の腹へ顔を埋めた。


生まれて初めての争いは、食事の場所をめぐるものだった。

この兎、先が思いやられる。


◇


森の朝は、幾度も訪れた。

巣の上を雨が通り過ぎ、湿った土の匂いが濃くなった日もあった。

冷たい風が入り込む夜には、温かな毛と小さな身体が寄り集まった。

兎は眠り、腹が減れば起き、乳を飲むとまた眠った。

ただ、それだけの日々である。


ところが、その「ただ、それだけ」を、この一羽は毎度たいそう忙しく過ごしていた。


食べるときは誰よりも前へ出たい。

眠るときは温かい場所がいい。

隣の身体に押されれば押し返す。

せっかく落ち着いたところに別の鼻先が割り込もうものなら、短い脚をばたつかせて抗議する。

抗議が通ったかどうかは、また別の話だ。


ある朝、まぶたの隙間から光が差し込んだ。

初めて見る世界は、ぼやけた茶色と緑色でできていた。

頭の上には木の根が張り出し、その向こうに揺れる葉がある。

すぐそばには母親の柔らかな腹と、見慣れない小さな耳がいくつも動いていた。


兎はしばらく動かず、目の前の耳を眺めた。

耳が動く。

鼻先を近づける。

耳が逃げる。

面白い。

もう一度、近づける。

今度は相手の前脚が顔に当たった。

……面白くない。


鼻先をぐいと押し返したところで、母親の身体が動いた。

大きな影が巣の出口へ向かい、外の空気が流れ込んでくる。

知らない匂いが、いっぺんに押し寄せた。


土。

木。

濡れた葉。

遠くの水。

何かの獣。

そして、これまでの温かな寝床とは違う、広くて頼りない空気。


兎は首を伸ばした。

出口の向こうは明るかった。

光の中で、小さなものが舞っている。

葉の影が地面を横切る。

母親の後ろ脚がひと跳びで遠ざかっていく。


あそこには、何があるのだろう。

そう考えた、というほど立派な思考ではない。

ただ鼻が動き、耳がそちらを向き、身体が前へ出た。


あと少し。

もう少し。

前脚が土の端にかかった。

その瞬間、足元の土がぱらりと崩れた。


ころん。

兎は巣の外へ転がり出た。

初めての外出は、なかなか情けないものになった。


落ち葉の上に腹をつけたまま、しばらくじっとしていた兎だったが、ほどなく鼻をひくつかせた。

近くに、青い匂いがある。

茎の短い草が、朝露をつけていた。


口を近づける。

噛む。

まだ食べ慣れない葉は少し硬く、思った以上に青臭かった。

だが、噛んでいると甘みが出てくる。


もう一口。

さらに一口。

気づけば鼻先の葉が減っていた。


兎は不満そうに草の付け根を引っ張った。

根が土にしっかり残っていたため、今度は自分の方が前へつんのめる。

それでも離さない。

ついに茎がぷつりと切れると、小さな身体が後ろへひっくり返った。

……二度目の転倒である。


しかし兎は、それどころではなかった。

口の中に、草がある。

おいしい。


この日、兎は世界のとても大切なことを一つ知った。

外には、食べ物が生えている。


◇


それからも、森は何度も朝を迎えた。

兎の脚は少しずつ強くなり、短い跳躍なら転ばずにできるようになった。

耳は遠くの物音を拾い、鼻は見えないものの気配を教えてくれるようになった。

まだ小さく、頼りない身体だ。

それでも、巣の周りは以前ほど大きな世界ではなくなっていた。


母親が外へ出るとき、ほかの兎たちも後を追う。

木の根を越え、葉の陰をくぐり、日当たりのよい場所へ顔を出す。

それぞれが草を食べ始めると、森には小さな咀嚼の音が増えた。


そんなある日、兎は見事な葉を見つけた。

地面すれすれに広がった、柔らかくてみずみずしい若葉。

周囲の背の高い草に隠れているせいか、まだほとんど食べられていない。


兎の鼻が大きく動いた。

いい匂いだ。

口を開く。


ところが横から、別の鼻先がぬっと現れた。

先ほどまで一緒に巣を出ていた、ひと回り身体の大きな兎だった。

相手も同じ葉に目をつけたらしい。


二羽の鼻が、若葉の上でぶつかった。


相手が押す。

こちらも押す。

相手が少し身体を寄せる。

こちらはもっと寄せる。

大きい方の兎が片前脚を持ち上げ、こちらの額を軽く押しのけた。

ふざけるな、である。


もちろん、そのような言葉を知っているわけではない。

だが、耳をぴんと立て、鼻先を低く構える様子には、たいへん分かりやすい不服が表れていた。


負けじと身体をぶつける。

相手が一歩下がる。

すかさず葉へ顔を突っ込む。

もぐっ。

勝利の味は格別だった。


もっとも、相手はすぐ隣の葉を食べ始めたので、争う必要が本当にあったのかは疑わしい。

兎は気にしなかった。

今、口の中が幸せならば、それでよい。


だが、食べることに夢中になりすぎると、世の中には困ったことが起きる。

ほかの兎たちの耳が、不意に同じ方を向いた。

母親の身体がぴたりと止まる。

風が変わった。


兎も鼻を動かした。

青い葉と湿った土の匂いに、別のものが混じっている。


獣の匂い。

大きい。

近い。

その二つを、耳と鼻と身体が同時に教えてきた。


草の向こうで、枝がかすかに鳴った。

母親が地面を強く蹴った。

乾いた音が響く。

次の瞬間、兎たちは一斉に跳んだ。

ついさっきまで取り合っていた若葉が、ぽつんと残された。


こちらの兎も跳ねた。

何がいたのか、はっきり見えていなかった。

それでも逃げなければならないことは分かる。

身体の奥から湧く恐怖に従い、木の根の陰へ飛び込んだ。


耳の後ろを風が通った。

振り返りたい。

だが、振り返る暇などない。


背後で、低い音がした。

草が押し倒され、枯れ枝が折れる。

自分たちより重い何かが、速い足取りで近づいてくる。


小さな脚は必死に地面を蹴った。

前を走る仲間の白い尾が、一つ、二つと茂みの向こうへ消える。

追う。


その後ろへ続こうとしたとき、足元の枯れ枝が折れた。

ぱきり。

たったそれだけのことだった。


着地がわずかに乱れ、後脚が滑った。

身体が横へ傾き、太い根に肩をぶつける。

痛い。

思わず身体が止まった。


前を見れば、もう誰もいない。

後ろから、獣の息遣いが近づいていた。


茂みが揺れた。

茶色い影が見えた。

細長い顔。

地面を蹴る前脚。

こちらへ向いた目。


その姿を見て、兎の身体が凍りついた。

戦えば勝てるかもしれない、などという考えは欠片も生まれない。

ただ、怖い。

喉の奥まで冷たくなるほど怖い。


それでも、身体は動いた。

影が跳びかかる直前、兎は横へ跳ねた。

前脚がかすめ、背中の毛が引っ張られる。

地面に腹を打ちつけながらも、必死にもう一度跳んだ。


正しい道も、巣の方向も、もう分からない。

ただ遠くへ。

後ろのものから、遠くへ。


◇


森には、獣の通り道がある。

長い年月に踏み固められた細い道もあれば、岩の割れ目に雨水が流れてできた隙間もある。

兎が飛び込んだのは、そのどちらとも言い難い場所だった。


倒れた木の下に、狭い暗がりがあった。

いつもの巣穴とは違う匂いがしたが、もう選んでいる場合ではない。

小さな身体を押し込み、腹を地面へこすりつけながら奥へ進む。


背後で爪が土を掻いた。

逃げ込んだ隙間へ、細長い鼻先が差し込まれる。


届く。

このままでは、届いてしまう。


兎はさらに身体を押し込んだ。

暗い。

狭い。

苦しい。


木の根だと思ったものは、途中から冷たい石に変わっていた。

足元の土が減り、爪が硬い面に当たる。

鼻先が石をこする。


兎は止まらなかった。

後ろ脚を引き寄せ、前脚で身体を押す。

いつもの自分なら入らないような隙間にも、ぐいぐい頭をねじ込んだ。


そのとき、足場が消えた。

するり、と身体が前へ抜ける。

直後、落ちた。

どさっ。


柔らかい土ではない。

冷たい斜面に腹を打ち、転がり、爪を立てようとしても止まれない。

ごろごろと滑った先で、ようやく細かな砂の上に落ち着いた。


兎は動かなかった。

いや、動けなかった。

胸が激しく上下する。

耳が震え、脚は自分のものではないように重い。

背中がひりひりする。

肩も痛い。

けれど脚は四本とも動いた。


上を見た。

入ってきた隙間は、高いところに黒く開いていた。

その向こうから、まだ獣の気配がする。

しかし、大きな身体は入ってこない。

爪が石を引っかく音が何度か続き、やがて遠ざかった。


兎は耳を立てたまま、長いことじっとしていた。

遠くの物音が消えても、すぐには動かない。

脚の震えが治まるまで待ち、鼻をそっと上げる。


そこには、知らない匂いがあった。

森の匂いに似ている。

だが違う。

湿った石の奥から、若葉と水と、どこか甘い花の匂いが流れてくる。

風は冷たくも暖かくもなく、妙に穏やかだった。


兎は首を傾げた。

暗いはずの奥が、ほんのり明るい。

出口だろうか。


そちらへ、一歩。

また一歩。

背後を確かめるたびに足が止まったが、獣は追ってこない。

狭い石の道は少しずつ広くなり、やがて兎の身体より何倍も大きな空間へつながった。

そこで、兎は止まった。

目の前に、森があった。


木がある。

草がある。

葉の隙間から柔らかな光が差し、遠くには水のきらめきまで見える。

なのに、さっきまでの森とはまるで違った。


頭上に、本当の空が見えない。

見上げた先には、遠すぎて形の分からない淡い明るさが広がっていた。

根元から青白い光を滲ませる草があり、見たことのない形の葉が揺れている。

それでも風は吹き、小さな虫は葉から葉へ移り、どこかで水が流れていた。


兎には分からない。

ここが森なのか、洞穴なのか。

それどころか、さっきまでの場所と何が違うのかも、うまく分からなかった。


ただ、鼻が教えてくれる。

ここにも、食べ物がある。


世界には《大迷宮》と呼ばれる場所がある。

普通の地下洞窟やダンジョンとは比較にならないほど広大で、内部に森や湖、独自の生態系を抱くことすらある。

人が長い年月をかけて探索しても、果てが見つからないものさえ存在する。


もちろん、一羽の兎がそんなことを知っているはずもない。

兎にとって重要なのは、たった三つだ。


怖いものは、もう近くにいないか。

ここで休めるか。

そして――食べられる草はあるか。


兎は一度だけ後ろを振り返った。

冷たい石の道。

その奥の、高いところに開いた暗がり。

元の森へ戻るには、今の小さな脚ではひと苦労しそうだった。


胸の奥が落ち着かない。

母親の匂いも、ほかの兎の匂いも、ここにはなかった。

耳を伏せ、鼻を小さく鳴らす。


しばらく動かずにいたが、そのうち腹の奥から別の感覚が込み上げてきた。

ぐう。

……腹が減った。


あれほど走って、転がって、怖い目に遭ったのだ。

当然である。


兎はゆっくり顔を上げた。

石の隙間の向こう、光の当たるところに柔らかそうな草が群れている。

匂いは少し変わっているが、葉の色も形も、それほどおかしくはない。


近づいて、匂いを嗅ぐ。

ひと口だけ噛んでみた。

……苦い。


兎は顔をしかめ、口から葉を落とした。


そのすぐ隣にも、別の草がある。

鼻を寄せる。

匂いを確かめる。

少しだけ噛む。

今度は、ほんのり甘かった。


耳が立った。

もうひと口。

さらに、ひと口。

ぱくぱくと葉が消えていく。


草の向こうには、まだまだ知らない匂いが満ちていた。

これから何を食べられるのかも、どんな獣が待っているのかも分からない。

戻る道さえ分からない。


それでも、この瞬間だけは。

見知らぬ場所で、ひとりぼっちになった小さな兎は、口いっぱいに草を頬張っていた。

恐ろしいことに、少しだけ満足そうですらある。


こうして、世界の誰にも知られることなく、一羽の兎が大迷宮へ足を踏み入れた。


本人はまだ知らない。

この先に広がるものが、どれほど大きいのか。

何度逃げ、何度転び、何を見つけることになるのか。


そんなことは、今はどうでもよいのだろう。

――まずは、腹ごしらえである。

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