第13話『それまで食うのか!?』
灰色の岩棚を一段降りた兎は、そこで思わず足を止めた。
石が動いている。
……いや、岩が歩き始めたわけではない。黒や茶色の小さな生き物が、石の表面を埋めているのだ。薄い殻がこすれる音、爪が砂を弾く音、柔らかな腹が湿った溝を滑る音。岩棚全体がさらさらと鳴っていた。上からは一筋の黒い流れに見えたが、近づけば随分賑やかな道である。
兎は耳を立て、右へ左へと首を振った。聞き分けようとするたびに別の足音が割り込んでくる。岩の裏まで分かる耳も、これだけ集まられると忙しい。右を向けば左でかさり、左を向けば足元でころり。音を追いかけるうちに鼻先までふらついてしまい、兎は一度、いかにも不満そうに耳を伏せた。せっかく耳がよくなったのだから、もう少し静かに歩いてくれないものか。もちろん、虫たちにそんな義理はない。
それにしても見事な光景だった。高い天井から落ちる水が岩棚に銀色の筋を引き、湿ったところには灰色の苔や薄い菌の膜が広がっている。小さな生き物がそこへ寄り、別のものはそれを追う。草一本ろくにない場所で、こんなにたくさんの腹が満たされているとは。生き物は逞しい。
もっとも、兎が感心した理由は少し違ったようだ。
目の前を小指の爪ほどの薄殻の虫が通った。兎の鼻がひくつく。数日前なら眺めて終わった相手だが、今は食べられる部分を探すことまで覚えた。背中の殻は硬そうで、腹の方なら柔らかいかもしれない。大した進歩だ。
兎は岩の端へ伏せた。右手の壁から染み出す水が、左端の深い割れ目へ落ちている。虫は溝沿いの苔を食べ、岩の継ぎ目へ戻ろうとしていた。出口は二つ。兎は近い方へ前脚を置き、反対側から鼻先を寄せる。石の下をこする小さな音と、目の前の殻の動きが重なった。ここ数日、逃げられるたびに覚えてきたことだ。耳だけで追えば鼻先が遅れるし、目だけで追えば岩の裏へ消えた途端にお手上げになる。両方使えば少しはましになる。大した発見ではないようで、腹を空かせた兎には切実な技術だった。
捕まえた、と思った瞬間だった。
石の下から灰茶色の影が飛び出し、虫を横からさらっていった。
長い胴に短い脚、砂色の腹、小さな丸耳に黒い尾先。《岩縫鼬》という、岩棚の割れ目を縫うように走る小型魔獣だ。隠れた獲物を追い出し、逃げ込む先で捕まえる。こちらがあれこれ考えていた虫を一瞬で持っていかれては、感心より先に悔しさが来る。もっとも、鼬に横取りのつもりはないのだろう。
兎が一歩踏み出すと、鼬も虫をくわえたまま振り返った。
小さな虫一匹を挟んで、なんとも真剣な顔つきである。広い岩棚にはまだ餌が動いているのに、よりによって同じ一匹が欲しいらしい。食い意地が張っているのは兎だけではなかった。立派な岩棚を舞台にした争奪戦としては、懸かっているものが少々小さすぎる気もするが、腹を空かせた当人たちには重大事なのだ。
鼬が低く鳴き、前脚で獲物を押さえた。兎は耳を倒して正面から近づき、鼬が歯を見せたところで横へ跳ぶ。相手の顔が動きを追った隙に、反対側から獲物へ口を伸ばした。
短い牙が鼻先をかすめた。
兎は慌てて首を引き、半歩下がった。危ない。虫一匹で鼻を噛まれては割に合わないし、そもそもその虫は誰のものでもなかった。腹が減ると妙な意地まで湧くものらしい。
鼬は獲物をくわえ直して後退した。背後の割れ目へ入れば、細長い鼬の勝ちだ。兎は追いかけかけたが、穴へ飛び込む寸前で止まる。あそこでは耳も脚もろくに動かせない。
そこで兎は岩の縁へ跳び上がった。
鼬が顔を上げる。兎は穴ではなく、相手の進路を横切るように跳んだ。着地の直前に身体をひねり、後ろ脚を細い胴へ突き出す。狭い場所で威力は出し切れなかったが、鼬は踏ん張りを失い、口から虫を落とした。
鼬は跳ね起き、牙を見せた。兎も後ろ脚へ体重を移したまま動かない。さっきまでなら獲物を追って穴の前まで詰めてしまったかもしれない。だが今は、鼬が一足で噛みつける距離を外し、こちらの蹴りだけが届きそうな位置を保っていた。二度目の蹴りを警戒したのだろう。鼬はしばらく唸っていたが、結局、虫を拾わず別の割れ目へ滑り込んだ。強い相手を倒したわけではない。双方とも、これ以上は損だと判断しただけである。
兎は逃げた影を見送り、虫へ鼻を寄せた。殻を避けて柔らかな部分を噛み、口の端を前脚でぬぐう。食べられたのはほんの少し。それでも耳がゆるみ、分かりやすい満足があった。
自分で食べ物を守れたのである。小さな兎には、十分に誇らしい出来事だったのだろう。まあ、虫一匹を巡る勝利にしては、ずいぶん嬉しそうだが。
兎は乾いた窪みで腹を地面につけ、目を閉じた。獲物を追い、違うものを食べる日が続いた。身体の奥へ意識を向けると、馴染み深い線が浮かんでくる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
《進化観測》
進化候補:《狩牙兎》
↪特徴:顎・歯・消化器と捕獲に関わる身体構造が連動し、雑食性の狩猟に適応する。
進化条件:達成
↪手がかり:継続した捕食・異食と、獲物を捕らえる経験の蓄積。
進化選択:可能
進化候補:《崖走兎》
↪特徴:足裏・四肢・姿勢制御が険しい立体地形での移動へ適応する。
進化条件:未達成
↪手がかり:切り立った地形での継続した移動経験が不足。
進化選択:不可
進化候補:《鎚脚兎》
↪特徴:後脚と胴体の支持構造が、跳躍よりも近接迎撃の衝撃に適応する。
進化条件:未達成
↪手がかり:重い相手を迎え撃つ経験と身体適応が不足。
進化選択:不可
進化候補:《喰魔兎》
↪特徴:摂食器官と体内の魔力循環が変質し、口から取り込んだ物に含まれる魔力の一部を利用する。
進化区分:特殊進化
進化条件:未達成
↪手がかり:――
進化選択:不可
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
いくつもの道がある。なかには今すぐ進めるものもあった。兎に文字は読めないが、いつものように感覚が伝わってくる。一つは、ここ数日で覚えた食べ方とよく似ている。もう一つは、どうにも掴みどころがない。空腹とも、獲物を捕まえたときの喜びとも違う。
兎は鼻先を動かした。まだ口の中に虫の匂いが残っている。今すぐどうにかしなければならない理由もないし、食べ物を見つければ腹は減る。せっかくの進化候補より次の食事を優先するあたり、実にぶれない。
ところが、身体を起こしかけたとき、岩棚の音が変わった。
小さな爪音がいくつも途切れる。岩の上を這っていた生き物が、次々と亀裂の奥へ消えていく。遠くからは重い四足の足音。濡れた場所を踏むたびに水が弾けた。
右上の段差に、青灰色の獣が姿を現した。
大きな犬ほどの身体に白銀の頬毛。長い吻から牙がのぞき、幅広い足が濡れた石をつかんでいる。《流牙獣》だ。水脈のある岩棚を狩場とし、水魔法で獲物の進路を操る捕食性魔獣である。水の筋をまたいで歩く姿には妙な美しささえあった。
もっとも、見惚れてよいのは遠くから眺めている間だけだ。あの牙は飾りではない。
流牙獣はまず下の岩棚を見渡し、群れの周囲に集まった小動物へ鼻を向けた。少し先では、先ほどの鼬とよく似た細長い影が割れ目へ逃げ込んでいる。獣は近寄って覗いたが、入れないと見るや顔を上げた。ここにはほかにも獲物がいる。わざわざ一匹を待つ必要はないのだ。さっきまで虫を取り合っていた小さな狩人たちが、今度は同じ食卓の皿に載せられかねない。大迷宮の食物連鎖というのは、なかなか容赦がない。
兎はそろそろ後ずさった。後方には乾いた段差が二つ続き、来た斜面へ戻れる。左端には飛び越えられそうもない深い裂け目。右は水の溝を通じて流牙獣のいる上段へ続く。逃げるなら後ろだ。
一段目に跳び上がる。
小石が鳴った。
流牙獣の顔がこちらへ向く。兎は反射的に背を丸めた。足を止めた獣は肩を低くし、口元に薄く光る水を寄せる。
次の瞬間、水が横から飛んできた。
兎は横へ跳んだ。青白い水の塊はさっきまでいた岩角を打ち、乾いた破裂音を立てて砕け散った。細かな水滴が耳を叩き、薄い石片が地面を跳ねる。
飛沫は暗い岩棚で宝石の欠片みたいにきらめいた。細かな虹のような光まで一瞬浮かび、見惚れるほど美しい。実に美しい。だが、ひと塊になって獲物を狙う水など、恐ろしくて仕方がない。あんなものを顔に受ければ、綺麗だと感心してはいられまい。水が岩を叩いた跡を見ただけでも、こちらの鼻先まで痛くなる。
流牙獣が使ったのは、水属性の直接魔法《水弾》だった。兎には魔法の名前も仕組みも分からない。ただ、跳んだ先へ水が追ってくるという事実だけが、長い耳の先まで伝わっていた。
兎は乾いた二段目を目指した。しかし、後ろ脚で踏み切る直前、右の溝を流れていた水が不自然に膨らみ、着地点へ横切るように走る。《導流》。流牙獣は近くの水を曲げ、兎が使おうとしている足場を濡らしたのだ。
滑った。後ろ脚が空回りし、兎は半身ほど滑り落ちた。前脚が石の縁に当たる。慌てて乾いた突起へ跳び直し、ようやく踏ん張った。逃げ足ではなく、足を置く場所そのものを奪われる。厄介だった。
流牙獣は右側の水脈を伝って回り込み、兎を斜面の中央へ追い込もうとしていた。細かな水の操作では一瞬足が緩むものの、その隙に逃げ切れる距離ではない。兎は耳で獣の足音を追いながら、目で乾いた岩の縁を探し、前脚で滑り具合を確かめた。大きな相手の動きにばかり気を取られれば、足元の水にまた転ばされる。何度も転び、跳び直してきた経験が、こんなときにも身体を動かしていた。
兎は右の低い石へ跳び、さらに左上の細い棚を狙った。真っすぐ逃げれば捕まる。少ない足場を続けて渡るために、踏み切る向きと力を一歩ごとに変える。岩棚へ来てから嫌というほど繰り返した跳び方だった。ところが耳元で水が弾け、思わず首をすくめた。踏み切りが浅くなり、前脚が棚へ届かない。
濡れた溝へ落ちた。
獣の長い吻が迫る。兎は身体をひねり、後ろ脚を前へ突き出した。狙うのは鼻先。蜥蜴を相手にしたときと同じく、近づいてきた頭を蹴って距離を作るしかない。
ぱしゃり、と奇妙に軽い音がした。
鼻先へ届く寸前、薄い水の膜が張られた。《薄水膜》。蹴りの衝撃は横へ流れ、獣は頭を振っただけで倒れない。得意な一撃が、薄い水にいなされた。あれほど硬い蜥蜴の頭を揺らした後ろ脚も、流れを変える水にはまるで勝手が違う。相手の牙だけでも厄介なのに、水まで味方につけているとは。ずいぶん贅沢な狩り方である。
それでも完全に無駄ではなかった。膜を作った一瞬、流牙獣の踏み込みは止まった。兎はその隙に足を引き、もう一度跳ぼうとした。
今度は足元の水が立ち上がった。
細い輪となった水が右の後ろ脚へ絡みつく。《水環》だ。びしょ濡れの足場に残った水をほんの一拍だけ操り、踏み出す脚を乱す魔法。拘束は長くない。だが、跳び上がる瞬間の兎には、それだけで十分すぎた。
身体が横へ倒れ、顎が石に当たる。息が詰まって口が開き、水が跳ね込んだ。
冷たい水だった。ところが、飲み込んだ瞬間に喉の奥を何か熱いものが引っかいた。腹まで届いたそれは、そこへ留まらず、細い棘を内側から突き立ててくるようだった。兎は咳き込み、前脚で地面を掻く。ほんの少しの水を飲んだだけなのに、身体の中に見知らぬものが暴れている。
流牙獣の制御がまだ残る《水環》の一部が、口へ入ったのである。水そのものは飲めても、それを動かしていた魔力まで安全に受け入れられるわけではない。生きるために食べられるものを少しずつ増やしてきた身体にとって、これはまるで別の話だった。
兎は立とうとして前脚を折りかけた。腹が縮む。硬い殻とも苦い葉とも違う痛み。吐き出したくても、もう口の中には何もない。食べることには慣れてきたが、腹の中から襲われるなんて割に合わない。
それでも、立たなければならない。
影が迫り、牙が石の上でかちりと鳴った。兎は身をよじって横へ跳び、痛む腹を抱えるように着地する。次の一歩で脚がもつれたが、踏み直して左へ走った。深い裂け目の手前に、二枚の岩が作る細い亀裂がある。大きな獣には入れそうもない。今はそれだけが頼りだった。
兎は耳を倒し、亀裂へ身体をねじ込んだ。肩の毛が左右の岩に引っかかり、後ろ脚の爪が砂を掻く。すぐ背後で流牙獣の鼻息が吹きつけ、長い牙が岩へ当たった。鼻先を押し込もうとするたび、岩がごりごり鳴る。兎は腹をこすりながら、前脚だけで少しずつ進んだ。
亀裂は途中で折れ曲がっていた。そこを越えると、身体を丸められる小さな乾いた窪みがあった。兎は転がり込むように潜り込み、身を縮めた。流牙獣の鼻先は入口から先へ届かない。それでも獣は諦めず、前脚で岩を引っ掻いた。重い爪音に、兎の耳がぴくりと震える。
腹の奥では、まだ痛みが暴れていた。
兎は身体を丸め直し、前脚に鼻を埋める。怖い。外にいる獣も、腹の中の見知らぬ感触も、どちらも怖かった。水を吐き出そうと喉を鳴らしても、口の端が濡れるばかりで楽にならない。小さな身体が細かく震え、息を吸うたびに腹がつっぱった。
ここまで来て、こんなところで終わるのはあんまりだ。
兎は自分が何度も死にかけたことを、数えてなどいないだろう。それでも草を見つけてはかじり、怖いものから逃げ、たまには向かっていき、ようやく知らない味にも手を出せるようになった。そんな小さな積み重ねが、今は痛みに押しつぶされそうになっていた。
外で別の小動物が走り、爪音が一斉に広がった。流牙獣の唸りが遠ざかり、水を蹴る足音が響く。獣は別の獲物を追い始めたらしい。命拾いだった。だが、喜んでいいのか迷う。あの足音が向かった先には、今度は別の小さな命があるのだから。
危険が消えたわけではなかった。だが少なくとも、今すぐ牙が届くことはない。
兎は苦しげに呼吸を繰り返した。飲み込んだものを出せない。腹は痛む。どうすればよいのか分からない。それでも何とかしようと身を縮めているうちに、意識が身体の内側へ向いた。
あの線がある。
跳べるようになったときも、音を捉えられるようになったときも、兎は自分の中にある道を見つけてきた。今は草も虫もいらない。ただ、この痛みから逃れたかった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
《進化観測》
進化候補:《狩牙兎》
↪特徴:顎・歯・消化器と捕獲に関わる身体構造が連動し、雑食性の狩猟に適応する。
進化条件:達成
↪手がかり:継続した捕食・異食と、獲物を捕らえる経験の蓄積。
進化選択:可能
進化候補:《崖走兎》
↪特徴:足裏・四肢・姿勢制御が険しい立体地形での移動へ適応する。
進化条件:未達成
↪手がかり:切り立った地形での継続した移動経験が不足。
進化選択:不可
進化候補:《鎚脚兎》
↪特徴:後脚と胴体の支持構造が、跳躍よりも近接迎撃の衝撃に適応する。
進化条件:未達成
↪手がかり:重い相手を迎え撃つ経験と身体適応が不足。
進化選択:不可
進化候補:《喰魔兎》
↪特徴:摂食器官と体内の魔力循環が変質し、口から取り込んだ物に含まれる魔力の一部を生命活動の補助に利用する。
進化区分:特殊進化
進化条件:達成
↪手がかり:異食に関わる蓄積と、特殊な魔力干渉への適合。
進化選択:可能
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
兎には文字など読めない。それでも伝わる感覚があった。ひとつの道は、もっと上手に狩り、食べ物を噛める身体へ続いている。悪くない。腹が減っていたら、きっと真っ先に気になっただろう。
けれどもうひとつの道には、今、腹の奥で暴れているものと似た気配があった。気味が悪い。できれば二度と触れたくない。それなのに、あちらへ進めば少しだけ違う形で受け止められるかもしれないという感覚もあった。
兎は丸めた身体をさらに縮めた。痛みに合わせて後ろ脚が引きつり、前脚の爪が砂に沈む。どちらの道を選ぶか、考える余裕などほとんどない。それでも、その選択だけは誰かが代わりに決めてくれるものではなかった。
兎は腹の奥の奇妙な気配へ意識を伸ばした。
その道を、自分で選んだ。
最初に変わったのは、喉の奥だった。
飲み込んだものが逆流するような苦しさが走り、兎は口を開けたまま横倒しになった。声にならない息が漏れる。胃の辺りに溜まっていた熱が、急に細かな筋となって身体へ広がり始めた。腹を丸めればつっぱり、脚を伸ばすと胸が苦しい。どんな姿勢を取っても落ち着かない。
口の奥、喉、胃腸。食べ物を受け取るために働いていた組織が、内側から作り変わる。そこへ体内の魔力の巡りが重なった。栄養とは別に、口から入り込んだ微かな魔力を取り分ける仕組みが生まれつつあった。
草を食べても、硬い虫を何百匹噛んでも、普通なら辿り着けない変化だ。何日も食べ方を試してきた身体に、制御された水魔法の魔力が入り込む異常事態が重なった。身体が壊れてもおかしくない干渉が、極めて稀な適合を生んだのである。
岩の隙間にいるのは、相変わらず小さな兎だった。長い耳も後ろ脚もそのまま。立派な角が生えるわけでも、急に巨大な牙が並ぶわけでもない。けれど、その身体の内側では、通常の生物としての仕組みに新しい魔力の循環が組み込まれていた。
兎は砂を掻いた。耳を伏せ、何度も喉を鳴らす。乾いた窪みの壁に水滴が落ち、外の岩棚では小さな生き物たちが忙しく走り回っている。大迷宮は、たった一匹の苦しみのために静かになってはくれない。冷たいようでいて、それがこの場所で生きる者たちの日常なのだろう。けれど今ばかりは、この小さな胸にもう少し楽な息をさせてやりたかった。
時間がどれほど過ぎたのかは分からない。兎の息が少しずつ落ち着き、腹の奥を突き刺していた感触が薄れてきた。さっきまで異物のように暴れていたものが、細い流れに分かれて身体の内側へ収まっていく。わずかな力が呼吸を助けるように広がったが、だからといって痛みや疲れが消えるわけではなかった。
それでも、息ができた。
兎は前脚を動かし、砂に爪を立てた。自分の脈に隠れていた水音がまた聞こえ、遠くの小さな爪音も拾える。耳を立てる力が残っていたことが、なんだかひどく嬉しい。
《巧響兎》から、《喰魔兎》へ。
元は自然に生まれた一匹の兎が、食べることを通じて魔力を取り込む特殊な身体を得た。いまやその種族は、通常生物ではなく魔獣に分類される。草を求めて歩き始めた小さな生き物が、こんなところまで来てしまうとは。驚くほかないし、少し誇らしくさえある。
もっとも当の本人は、それどころではなかった。
顎を打ったところはじんじん痛む。前脚も重い。喉にはひりつきが残り、耳の毛は水で固まっている。せっかく進化しても、ひどい目に遭った事実までなかったことにはならないのだ。兎は身を起こしかけてすぐ諦め、乾いた砂へ顎を預けた。
目を閉じると、腹の奥を細い温かさが通るのが分かった。さっきまで暴れていた、あの妙なものの名残である。息を詰めると腹が引きつり、兎は反射的に身体を丸めた。ところが、長く息を吐いて力を抜くと、その温かさも少しだけ静かになる。偶然かもしれない。確かめようにも、腹の中を覗けるわけではないのだから。
兎はもう一度、短く息を吸ってからゆっくり吐いた。今度は腹をきつく縮めすぎない。温かさは途中で揺れ、ひりっとした痛みが残った。兎は耳を伏せ、しばらく休む。それからまた試した。うまくいったり、いかなかったりを繰り返すうち、息の仕方で内側の流れがわずかに落ち着く感覚だけは掴めてきた。何しろ初めて持った身体の仕組みである。使い方まで最初から知っているほど、進化というものは親切ではなかった。
しばらく休んでから、もう一度自分の内側へ意識を向ける。いつもの線は消えていなかった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
固有能力:《進化の羅針》
↪詳細:自身の保有する能力・スキルを確かめ、進化の可能性を観測し、条件を満たした進化先を選ぶ。
能力:――
スキル:《跳躍》Lv3
↪詳細:後ろ脚の踏み切りの方向・強さ・時機を調整し、異なる足場へ連続して跳ぶ技術。繰り返した跳躍経験によって動きの精度が高まる。
スキル:《着地》Lv2
スキル:《聴き分け》Lv2
スキル:《警戒》Lv2
スキル:《蹴撃》Lv2
スキル:《間合い》Lv2
↪詳細:相手の攻撃が届く距離と、自分が反撃・退避できる距離を見極め、動く時機と位置を調整する技術。
スキル:《感覚連携》Lv2
↪詳細:音・視界・足裏の感触から得た情報を組み合わせ、相手の動きや足場の変化に応じて次の行動を選ぶ技術。
スキル:《悪食》Lv2
スキル:《魔力調息》Lv1
↪詳細:体内に取り込まれた微量の魔力の巡りを、呼吸と腹部の力の入れ方を調整して落ち着ける初歩的な技術。魔力を摂取・利用できること自体は《喰魔兎》の生理的性質によるもので、外部の魔法の吸収・無効化、毒や不適合な魔力の無害化はできない。
その他:
⦅世界の祝福⦆
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
耳は聞こえる。脚も動く。食べ方を覚えたことも、怖い相手から逃げたことも、身体の中に残っている。走って、跳んで、相手との距離を測り、耳と目と足裏を頼りに動いてきたことも、少しずつ身についていた。新しい仕組みはまだよく分からないが、痛みの奥には、さっきまでなかったかすかな感触があった。飲み込んだものに混じっていた、味のない何か。いまはもう暴れていない。呼吸の仕方でその落ち着きを少し助けられるらしい、ということも分かってきた。
ただし、そんな技術を覚えたところで、あの水を好き放題飲めるわけではない。試すならもっと穏やかなものにしてほしい。兎がどう思っているかはさておき、さっきの魔法は明らかに飲み物として不向きだった。
兎は鼻をひくつかせ、岩の入口へ顔を向けた。外から湿った苔の匂いが流れてくる。流牙獣の足音は遠いが、まだ同じ岩棚のどこかにいるかもしれない。飛び出すには早すぎる。兎は少し考えるように耳を動かし、結局もう一度身体を丸めた。
それから腹が鳴った。
……なるほど。
魔力を取り込める身体になったところで、いつもの食事は必要なのだった。草や虫を食べずに済むわけではないし、あの恐ろしい水をもう一口飲みたいとも思っていない。せっかく特別な進化を遂げても、腹具合だけは相変わらず正直である。
兎は入口へ伸ばしかけた鼻を引っ込め、前脚の痛まない側へ身体を傾けた。今は外の音を聞いていた方がよい。耳を立てているうち、呼吸は少しずつ静かになった。
外の岩棚では無数の小生物が行列を続け、その脇で小さな狩人が獲物を探し、さらに大きな捕食者が後を追う。その世界へ一匹の《喰魔兎》が加わった。
まだ誰よりも強いわけではない。腹も減るし、傷も痛む。だがこの先、何を食べ物にして生きていくのかは、どうやら大迷宮の方にもまだ分からない。まさかこんな小さな食欲が、普通の生き物と魔獣の境目まで越えてしまうとは。呆れるほど遠くへ来たものだし、次に何をしでかすのか少し楽しみでもある。
ひとまず今夜は、無事に眠れればそれで十分だろう。食事のことは、目を覚ましてから考えればいい。
……いや、この兎のことだ。夢の中でも食べ物を探していそうではある。




