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第12話『草はどこへ消えた?』

 根の陰で動いていた小さな虫は、兎が二度目に近づいたときにはもう姿を消していた。


 鼻先を押しつけても、葉を持ち上げても見つからない。湿った土には細い筋のような跡が残っていたが、その先は石の割れ目へ消えている。兎はしばらくそこで耳を動かし、やがて諦めて近くの草をかじり始めた。逃げたものを追いかけて腹を減らしていては、いったい何のために食べ物を探しているのか分からない。もっとも、本人がそこまで反省していたかどうかは怪しい。


 前に仕留めた蜥蜴の肉は、草とはずいぶん違うものだった。噛みにくく、匂いが強く、飲み込んだあとも腹の内側に妙な感触が残った。それでも、あれが食べられたという記憶は消えていない。兎が根の隙間へ鼻を突っ込む回数は、少しずつ増えていた。


 翌朝、細い水の流れへ顔を寄せた兎の目の前を、白っぽいものが流れていった。柔らかな身体を丸めた、小指の先ほどの虫だった。水に落ちたらしく、ゆっくり回りながら浅い石のくぼみに引っかかる。兎は前脚でつつき、その動きに驚いて一度引いたが、今度は逃げられる前に鼻を近づけた。


 匂いを嗅ぎ、そっと歯を当てる。虫は身を縮めたが、蜥蜴の肉のような硬さはない。兎は顔をしかめるように鼻をひくつかせ、結局ほんの少し噛み取って飲み込んだ。苦いような土臭いような味だった。美味というには、ずいぶん勇気のいる味である。それでも胃がすぐに抗議を始める様子はなかった。


 次に同じものを見つけたとき、兎は水に落ちるのを待たなかった。葉の裏で動く白い身体へ鼻を伸ばし、前脚で葉を押さえてみたのである。虫は驚いて反対側へ這い、兎の歯は葉っぱだけを噛んだ。口の中に広がったのは、例によっていつもの草の味だった。


 少なくとも、草を食べる腕前は衰えていない。


 その日のうちに三度試して、一度だけ小さな獲物を捕まえた。兎にとっては立派な成果だったが、腹が膨れるほどの量ではない。結局、夕方には柔らかな若葉の生える根元へ戻り、いつものようにせっせと食べた。新しい食べ物が増えたからといって、古い好物が嫌いになるわけではないらしい。


 二日目の夜、兎は乾いた岩の窪みで身体を丸めた。左脇腹の浅い擦り傷は薄いかさぶたになり、身体をひねってもほとんど痛まない。噛みつこうとした蜥蜴を蹴り続けた後ろ脚にはまだ張りがあったが、水辺を行き来するうちにそれも和らいでいた。眠る前に耳を立てると、近くで滴る水と、遠くで根がこすれる音が重なって聞こえた。


 三日目には、虫を追うやり方を少し変えた。


 根の下から飛び出した小さな黒い生き物に向かって跳びかかると、相手は石の下へ逃げ込んだ。兎はそのまま鼻先を突っ込みかけ、硬い岩にぶつかる寸前で止まる。少し前なら勢い余って頭を打っていただろう。危険を避けられたのはよいことだが、獲物はきれいに逃げてしまった。


 そこで兎は、もう一度同じ場所へ戻ってみた。今度はすぐに飛びつかず、岩の陰で耳を傾ける。薄い葉が擦れ、細い脚が乾いた石を引っかく。音の位置を追いながら身体を低くし、葉の端が動いたところで短く踏み込んだ。


 前脚の下で、何かがもぞりと動いた。


 兎は慌てて鼻を近づけたものの、逃げようとする相手に驚いて脚を上げてしまう。小さな生き物はその隙に走り去った。惜しい。実に惜しい。けれど、以前のように何も分からないまま跳び回るのとは違う。兎の耳は逃げた先へ向いたままで、次の草むらを見つめていた。


 四日目、ようやく小さな獲物を一匹捕まえた。濡れた石の裏にじっとしていた、柔らかな腹を持つ脚の短い虫だった。前脚で進む方向を塞ぎ、逃げ道の反対側から歯を当てる。噛んだときの感触に一瞬ためらったが、今度は口を離さずに済んだ。


 殻に当たる部分は硬く、何度噛んでも砕けない。兎はそこを吐き出し、柔らかな部分だけを少しずつ口にした。食べられそうなところと、どうしても口に合わないところがある。そんな当たり前の違いを、ようやく自分の舌と歯で知り始めたのである。


 ただし、これで食生活が豊かになったかと問われれば、まだまだ怪しかった。小さな虫一匹では腹の虫も黙らない。兎はそのあと長いこと草を探し回り、見つけた葉を夢中で食べた。食べるために頑張った結果、余計に腹が減る。新米の狩人にはなかなか厳しい現実だ。


 変化があったのは五日目のことだった。


 根の多い岩室を越えた先に、少しずつ草の減る地帯が現れた。地面を覆っていた土は薄くなり、岩壁から垂れる根もまばらになる。水音は近くにあるのに、葉の匂いは弱い。兎は気に入った草の場所へ戻ろうとしたが、途中で見つけた細い割れ目から冷たい風が流れてきた。鼻を近づけると、土とも葉とも違う、乾いた石の匂いがする。


 隙間の向こうは広かった。


 灰白色の岩棚が何段も折り重なり、その先は薄暗い靄に沈んでいる。天井は高く、上から落ちる水滴は途中で散って、どこへ落ちたのかさえ分からない。ところどころに黒い裂け目が走り、斜めに突き出た岩が遠方で重なって見えた。地下湖の青い広がりとも、根が絡み合った湿った岩室とも違う。ここには、石ばかりがあった。


 兎は足を止め、鼻を忙しく動かした。


 草の匂いがしない。


 もう一度嗅いだ。やっぱりしない。兎にとっては広大な景色より、そちらの方がよほど重大だったらしい。こんなに広い場所で草が一本も見当たらないとは、なんとも思い切った土地である。いや、土地の側に兎の食事事情を考える義理などないのだが。


 それでも何か食べられるものはあるかもしれない。兎は割れ目をくぐり、最初の岩棚へ降りた。石の表面は乾いていて、足裏に細かな粉がつく。前脚で軽く押してから跳び移ると、身体を低くして周囲を見渡した。


 大きな緑はない。けれど、よく見れば岩の継ぎ目に灰色の薄い膜が広がり、日陰の窪みには小さな茸のようなものが点々と生えていた。天井から流れてくる細い水が石の表面に暗い筋を作り、その周りだけが湿っている。水に運ばれた細かな落ち葉や土が割れ目へ溜まっている場所もあった。何もないように見えた石の世界にも、わずかな餌と、それを頼る小さな命が残っていた。


 その日の夕方までに、兎は二度ほど引き返しかけた。見つかるのは硬い膜や苦いものばかりで、腹はなかなか満たされない。かろうじて水のそばで柔らかな苔を食べたが、足りる量ではなかった。身体を丸めて休んでも、腹の奥が落ち着かない。


 六日目、兎は石の下で小さな音を聞いた。


 乾いた爪が細かな砂をこする音だった。兎が耳を向けると、親指の爪ほどの平たい影が、岩の継ぎ目から出てくる。黒っぽい背に薄い殻を持ち、短い脚をせわしなく動かしている。影は湿った石の膜へ近づき、表面をこそぐように口を動かし始めた。


 兎はしばらく見守った。草はない。でも、目の前の小さな生き物は何かを食べている。岩そのものを食べているわけではなさそうだが、それ以上のことは分からない。ただ、食べている相手なら自分も食べられるのかもしれないという、少々乱暴な興味だけは湧いたようだった。


 兎が跳んだ。


 もちろん逃げられた。


 小さな影は岩の隙間へ滑り込み、兎の鼻先には砂しか残らない。勢いを抑えたつもりでも、乾いた岩は思ったより滑った。前脚を突っ張って止まり、兎は不満そうに鼻を鳴らす。新しい食べ物は、勝手に口の中へ飛び込んでくれるほど親切ではない。


 次に同じような影を見つけたとき、兎は割れ目の出口を先に確かめた。岩の端へ身体を寄せ、相手が湿った筋に沿って進むのを待つ。耳が拾う爪音は小さく、遠くの水滴に紛れそうだったが、目で確かめた位置と合わせると見失わずに済む。影が細い岩の突起へさしかかった瞬間、兎は逃げ道を塞ぐように前脚を置いた。


 相手は反転した。兎は反対側へ鼻を動かし、短く噛みつく。


 初めて、捕まえた。


 口の中で硬い殻が当たり、兎は思わず顔を振った。がり、と嫌な音がして、すぐに口を離す。食べ物になるものを捕まえたはずなのに、歯が痛くなりそうでは困る。兎は獲物を前脚で押さえ直し、腹の柔らかな部分へ歯を当てた。何度か試すうち、小さな欠片が舌へ乗る。土臭く、わずかに苦い。けれど、そのまま吐き出さずに飲み込めた。


 一匹では足りない。そこで兎は、似たような音がする割れ目を探し始めた。すぐに捕まえられるわけではなく、何度も逃がしたし、硬い殻を噛んで顔をしかめた。それでも、草を探して歩くだけだった頃とは違う。岩の裏や水の近くへ耳を向ける理由が、もう一つ増えていた。


 七日目には、見つけた小さな獲物のうち、食べられそうな部分だけを選ぶのが少し早くなった。先に匂いを嗅ぎ、口に入れる量を抑え、硬い部分を無理に噛まない。腹が重くなればそこでやめ、水を飲んで休む。何度か変な味に当たって顔を振り、結局食べずに離したものもある。食べられるか分からないものを、片っ端から飲み込んでよいわけではないのだ。


 身体も、わずかに慣れてきた。草でないものを食べたあとに続いていた腹の落ち着かなさが、少し短くなった気がする。もちろん、空腹まで消えるわけではない。兎はこの日も十分な量を得られず、夜には岩のくぼみで鼻先を前脚に埋めた。夢の中で何を食べていたかは知らないが、眠りながら口を小さく動かしていた。食欲だけは、寝ている間も熱心である。


 八日目、兎は岩棚の縁で奇妙な音を聞いた。


 さらさらと砂が流れるような音だった。けれど風はほとんどなく、足元の細かな石も動いていない。耳を片方ずつ回すと、音は下の方から上がってくる。細い脚が何かを擦る、小さな音の重なりだった。


 兎は低い岩を越え、斜面の先を覗き込んだ。


 その下に広がっていたのは、さらに巨大な空間だった。岩棚の段差が幾重にも奥へ続き、底の見えない割れ目をまたいで、白い岩脈がゆるい弧を描いている。遠くの壁から薄い水の帯が流れ落ち、その先には淡い光を返す湿った地面が見えた。いくつかの岩棚は霧に隠れ、向こう側へどれほど続くのかも分からない。


 そして、その斜面を無数の小さな影が動いていた。


 数十ではない。数百でも足りそうになかった。爪ほどの大きさの黒褐色の生き物が、岩の継ぎ目や湿った筋に沿って同じ方向へ進んでいる。薄い殻を持つもの、細長い身体をくねらせるもの、短い脚で忙しく這うもの。遠くからはひと続きの流れに見えても、よく見れば一種類ではない。水気の残る割れ目を目指す者もいれば、その周りで落ちた細かな有機物を拾う者もいる。なかには他の小さな生き物を追いかける影まで混じっていた。


 兎は耳を立て、目を丸くした。


 草はほとんど生えていない。なのに、こんなにも多くの生き物がいる。食べ物の少ない土地でも、食べ物がまったくないわけではないのだろう。それにしても、石の上をこれほど賑やかに歩くものか。地下の大迷宮というのは、つくづく一筋縄ではいかない場所である。


 兎の鼻が動いた。


 下から運ばれてくるのは、湿った石と土の匂い。それに混じって、ここ数日で覚え始めた、小さな獲物の匂いがする。兎は少し身を乗り出し、斜面の近いところへ降りようとした。ちょうど岩の隙間から、一匹が離れてこちらへ歩いてくる。


 だが、次の瞬間、流れの一角が崩れた。


 小さな影たちが一斉に向きを変え、岩の下へ潜る。別の場所では群れが横へ膨らみ、隙間という隙間へ身体を押し込んでいく。兎は足を止めた。音が消えたのではない。無数の音が、突然違う方向へ動き始めたのである。


 頭上で、低い羽音がした。


 兎が見上げると、高い岩棚の影から黒い何かが滑り出した。翼を広げた生き物だったが、遠くて形までははっきりしない。そいつは大きな弧を描いて下り、動く小さな影の密集した場所へ突っ込んだ。地面すれすれで身をひるがえしたあと、何かをつかんだらしく、再び上へ舞い上がる。


 さらに奥でも、別の影が岩陰から飛び出した。斜面を素早く走る四つ脚の姿が、一瞬だけ見える。こちらも小さな生き物の流れを追っていた。岩の縁に潜むもの、空から降りるもの、群れの中を歩くもの。誰かに食べられるかもしれないという危険は、ここでも変わらない。


 兎は伏せたまま動かなかった。


 ついさっきまでなら、あの一匹を追って下へ降りていただろう。けれど、羽音が消えたあともすぐには動かない。耳を回し、上の岩陰と下の斜面を交互に見た。あそこには食べ物がある。しかし、食べ物だけがいるわけではない。それくらいは、もう分かる。


 影の群れが通り過ぎ、近くの岩棚に静けさが戻った頃、兎はようやく身体を起こした。降りかけた脚を元へ戻し、脇にある浅い窪みへ移る。そこには小さな影が一匹、群れから取り残されていた。乾いた石の段差を越えられず、何度も同じところを登ろうとしている。


 兎は足場を確かめてから近づき、逃げ道の先へ前脚を置いた。相手がこちらを避けようと向きを変えたところで、横からそっと口を寄せる。小さな身体が跳ねたが、今回は取り逃がさなかった。


 硬い部分を避け、柔らかなところだけを少し食べた。腹の足しとしては心もとない。それでも、危険な斜面へ飛び込まずに食べ物を得られたのだから、今日はこれで十分立派な狩りである。


 兎は水の染みた岩陰へ戻って休んだ。腹はまだ少し空いていたが、足元のわずかな苔をかじり、水を飲めば落ち着ける。呼吸が静かになってきたところで、兎は目を閉じ、自分の内側に意識を向けた。


 慣れない味に驚いていた感覚。硬い殻を吐き出し、柔らかなところだけを口にした記憶。腹の調子を確かめながら、少しずつ食べる量を変えたこと。それらがひと続きに重なると、馴染みのある線が心の奥に浮かんできた。


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固有能力:《進化の羅針》

↪詳細:自身の保有する能力・スキルを確かめ、進化の可能性を観測し、条件を満たした進化先を選ぶ。


能力:――


スキル:《跳躍》Lv2

スキル:《着地》Lv2

スキル:《聴き分け》Lv2

スキル:《警戒》Lv2

スキル:《蹴撃》Lv2

スキル:《間合い》Lv1

スキル:《感覚連携》Lv1


スキル:《悪食》Lv2

↪詳細:本来の食性から外れるものや食べ慣れないものについて、匂い・味・硬さを確かめながら食べ方と摂取量を調整する技術。本来の食性に属さない食物に限り、その消化・吸収をわずかに助ける働きが習熟に応じて高まる。毒や有害物を無害化したり、あらゆるものを安全に食べられるようにする効果はない。


その他:

⦅世界の祝福⦆


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 兎は目を開け、少しだけ鼻を動かした。文字を読めるわけではない。それでも、以前よりも食べ慣れないものを扱いやすくなったという感覚が、身体の内側から伝わってくる。草以外のものが食べられるというだけで、これほど違う場所へ来られるとは、少し前の兎には想像もできなかっただろう。


 ただし、少し上達しただけで腹が満ちるわけではない。大きな獲物には危険があるし、小さな獲物ではなかなか足りない。その難しさは、目の前の岩棚にも、下の斜面を埋める無数の影にも、変わらず残っている。


 それでも兎は、もう草の匂いだけを追ってはいなかった。高いところから流れる水音を聞き、そこへ向かう小さな生き物の動きを見て、足元の岩を確かめる。今なら、どこに食べ物がいるかを探すこともできる。


 下の巨大な空間では、黒い流れがなおも途切れず進んでいた。ときおり羽音が落ち、別の影が岩陰を走る。そのたびに流れの形が変わり、また元へ戻っていく。兎はその光景を長いこと眺めていた。


 やがて腹が鳴ると、ぴんと耳が立った。


 なるほど、見物はそのくらいにしてほしいらしい。


 兎はもう一度斜面を見渡し、頭上の暗がりに危険な羽音がないことを確かめた。それから、最も近い安全そうな段差へ前脚を伸ばす。広い大迷宮には、まだ知らない食べ物がいくらでもありそうだった。もちろん、それを食べようとする者たちも。


 小さな後ろ脚が、灰色の岩を蹴った。

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