第14話『兎にも休息は必要だ』
目が覚めて、まず腹が鳴った。
なかなか結構なことである。昨日は水に襲われ、牙に追われ、腹の中までひっくり返されるような目に遭ったというのに、朝になれば腹は減る。命がつながった証拠と言えば聞こえはいいが、当の兎にとっては切実な問題だろう。
兎は鼻先を持ち上げた。途端に顎の下がずきりと痛み、持ち上げたばかりの顔を砂へ戻す。前脚にも鈍い痛みが残っていた。喉の奥はひりつくし、身体の芯には昨日の疲れがべったり張りついている。特殊進化という大変なことをやってのけた身体も、傷の手当てまではしてくれなかったらしい。
寝床は二枚の岩に挟まれた窪みだった。外へ出るには折れ曲がった亀裂を通る必要があり、《流牙獣》は鼻先さえ入れられない。上等な隠れ家だ。窮屈さに目をつぶれば、だが。
耳を立てると、岩の向こうで水が滴っている。小さな脚のこすれる音はするが、あの重たい四足の足音は聞こえない。兎はしばらく待ち、それから前脚を伸ばして身体を引きずるように入口へ進んだ。
腹は減っていた。だからといって、昨日の獣がまだいる場所へ勢いよく飛び出すほど、この兎も物忘れは激しくない。
亀裂の途中には壁から滲んだ水が細く伝い、その下の石に薄い緑の膜が付いていた。兎はそこへ鼻を寄せる。湿った土と、いつか食べた苔に似た匂い。少しだけ前歯を当ててみると、ざらりとした感触が残った。もう一度かじり、今度は小さな欠片を飲み込む。
美味いかどうかは、耳の様子からして微妙なところだ。それでも食べられるものが見つかった。しかも寝床のすぐそばである。危険な岩棚へ出て虫を追いかけるより、今はよほどありがたい。
兎はしばらく緑の膜をかじっていたが、顎が痛み始めると素直に口を止めた。少し前なら悔しがってもうひと口頑張ったかもしれない。昨日の苦しさがまだ身体に残っているのだろう。食い意地にも、たまには慎重さが勝つらしい。実に結構。できれば今後もその調子でお願いしたいところだ。
細い水を少し舐め、身体を窪みへ戻す。飲み込んだ水は冷たく、腹の中で妙な熱を暴れさせることもなかった。それだけでずいぶん安心できた。何しろ、昨日は水を飲んだだけで死にかけたのだ。普通の水のありがたさを、これほど身に染みて知る兎も珍しいだろう。
身体を丸めて目を閉じると、腹の奥にかすかな温かさが残っているのを感じた。意識せずに呼吸を詰めれば落ち着かず、ゆっくり息を吐くと少しだけ静まる。兎は短く鼻を鳴らし、もう一度ゆっくり呼吸した。新しい身体と仲良くなるには、どうやら時間がかかりそうだ。
その日は遠くへ行かなかった。水を舐め、膜をかじり、あとは眠った。外で足音が増えると耳を立て、遠ざかれば目を閉じる。怪我をした生き物にとって、何事もない一日ほど貴重なものはない。
翌日、兎は久しぶりに全身を伸ばした。
正確には、伸ばしかけて顎を引っ込め、前脚の置き方を変えた。まだ痛いのだ。思うようにならない身体が不満らしく、長い耳をぺたりと倒す。誰に怒っているのかは知らないが、岩壁は何の反応も返してくれなかった。
昨日よりは歩ける。そこで兎は亀裂を抜け、外の岩棚へそろそろ顔を出した。あたりには細い水脈が幾筋も走り、その間を小さな殻の生き物が忙しく移動している。あの大群はまだ途切れていなかった。時々姿を隠していたのは、列そのものが消えたのではなく、足音が別の道へ移っていただけらしい。
陽も月も見えない岩の世界で、何日も続く小さな行進。なかなか壮観だ。本人たちは食べ物を探しているだけなのに、遠くから見ると一本の生きた川になるのだから面白い。
兎は食べやすそうな小さな影を見つけた。岩のくぼみで足を滑らせ、仰向けになってじたばたしている。なんとも都合のよい獲物ではないか。
兎の耳がぴんと立つ。鼻先を寄せ、口を開き――顎に痛みが走った。
獲物はその隙に起き上がり、割れ目へすたこら逃げていった。
兎はしばらく穴を見つめていた。実に恨めしそうである。相手としては命拾いしただけなのだが、あの小さな背中にまで腹を立てられては気の毒だ。
結局、少し先の湿った石に生えている柔らかな苔で腹を落ち着かせた。噛みやすい部分だけを選び、固い筋は残す。身体に負担をかけず、食べられるだけ食べて戻る。療養中の献立としては、なかなか手堅い選択だった。
帰り道、遠くの上段で大きな水音がした。
兎は即座に身を伏せた。続いて重たい脚音が二つ、三つ。青灰色の毛が岩角の向こうで揺れる。《流牙獣》だ。昨日と同じ個体かは遠くから分からないが、近づいて確かめる趣味など持たない方がいい。
幸い、獣は別の斜面へ鼻を向けていた。小動物の群れが走る方向へゆっくり歩いていく。兎はその姿を追いかけず、前脚を岩に沿わせてじっと待った。足音が遠ざかり、水音に紛れて聞こえなくなってからも、すぐには動かない。見つからなかったからといって、いなくなったとは限らないのだ。
やがて兎は来た道を戻った。今日の食事は少々物足りない。しかし、無事に帰ってきた。まずはそこを褒めてやりたい。本人が喜ぶのは、腹が満ちたときだけかもしれないが。
◇
三日目には、脚を引きずることがほとんどなくなった。
顎は硬いものを噛むとまだ痛むものの、柔らかな苔なら少しずつ食べられる。前脚の擦り傷も乾き、毛の下に薄いかさぶたができていた。兎は何度か立ち上がってみて、歩き方を確かめる。そこからひと跳び。着地すると耳を立ててしばらく待ち、痛みが増さないことを確かめて、もうひと跳びした。
どうやら身体が軽くなったのが嬉しいらしい。傷を治すために休んでいたはずなのに、跳べると分かるや跳びたくなる。回復を待ち望んでいたのは間違いないが、もう少し落ち着いてくれてもよいのではなかろうか。
岩棚の低い段差をいくつか渡ると、上から水滴の落ちる壁に出た。そこには細い溝が並び、湿った石の裏へ入り込む小さな影があちこちに見える。兎はしばらく虫を追ったが、奥まった割れ目で動く相手には簡単に逃げられた。穴の奥まで鼻を突っ込めば食べられるかもしれない。しかし、今度は抜けなくなる恐れがある。
兎は穴の前で踏ん張り、首を傾けた。
おや。今日は諦めが早い。
と思ったら、隣の出口へ回り込んでいた。なんのことはない、諦めたのではなく別の入口を探していただけらしい。結局その虫にも逃げられたが、兎はしばらく二つの穴を交互に覗き込み、鼻をひくつかせていた。負けず嫌いな食いしん坊は、なかなか忙しい。
帰り道、細い岩の亀裂で灰茶色の尾が揺れた。《岩縫鼬》だ。前に虫を取り合った個体かは分からない。兎は耳を倒した。
鼬は顔を出し、兎の存在に気づくとすぐ穴へ引っ込んだ。餌をくわえているわけでもなく、争う理由はない。兎も追わなかった。あれほど真剣に虫一匹を取り合ったのが嘘のように、互いにさっさと別の道へ行く。小さな因縁など、食べ物が挟まっていなければ案外あっさりしたものである。
午後にあたる頃――そう呼べる明るさの変化があるわけではないが、兎が何度か食べ、何度か休んだあと――湿った溝の奥で微かな石の軋みを聞いた。
硬いもの同士が擦れるような、低く長い音だった。小さな虫の爪音とは違う。兎は耳を回したものの、すぐに音は途切れた。あたりの小生物は相変わらず動いている。危険が近づく気配もない。
兎は少し待ち、それから苔のある方へ向かった。奇妙な音は気になる。だが、今すぐ逃げるべき相手も見当たらない。腹が減れば、そちらの都合も無視できないのである。
四日目、兎は新しい寝床を見つけた。
水脈から離れた低い岩の下に、乾いた空洞があった。出入口は二つで、一方は兎が身体を低くすれば通れるほどの幅。もう一方は鼻先しか入らない細さだった。奥には丸まって眠るだけの場所があり、天井から水が落ちてこない。実に素晴らしい物件だ。見晴らしこそ皆無だが、寝床に眺望を求める兎もあまりいないだろう。
兎は最初の入口から入り、隅の砂を前脚で掻いた。小石を押しのけ、何度かくるくる回ってから身体を丸める。思いのほか居心地がよかったらしく、耳をゆるめて目を細めた。
ところが、眠りかけたところで頭上から砂が一粒落ちてきた。
鼻先に乗る。
兎はくしゃみをした。
小石が二つ転がり、耳が勢いよく立ち上がった。せっかくの新居なのに、いきなり砂を降らせるとは。迷宮の不動産事情はなかなか厳しい。
兎は頭を振って砂を払い、天井へ耳を向けた。何か重い足音がしたわけではない。ただ、岩の奥からごく短く、こつ、と音が伝わってきた。昨日聞いた軋みに少し似ている。
耳を立てたまま待ったが、それきりだった。兎は新しい窪みに腹を預け、うとうとし始める。結局そのまま眠ってしまったのだから、住み心地は悪くなかったらしい。
◇
五日目には、顎の痛みもほとんど気にならなくなっていた。
兎はまず、昨日までなら噛みにくかった少し太い苔の束へ前歯を当ててみた。ぐいと引けば繊維がほどけ、青臭い味が広がる。口の端を動かし、ゆっくり噛み切って飲み込んだ。
耳がふわりと上がった。
どうやら久しぶりに、しっかり食べられるのが嬉しいらしい。柔らかいものばかりを少しずつかじる日々も終わりが近そうだ。もちろん、調子に乗って固い石まで噛んでは困るが。
身体の動きも戻ってきた。短い跳躍なら痛みはなく、濡れた岩と乾いた岩を足裏で確かめながら歩ける。岩棚の奥で細い水路を渡ると、湿った空気が濃くなった。天井の暗い筋から長い根が垂れ、壁を伝う水がその先から滴っていた。
緑もあった。
兎は即座に鼻先を上げた。なんと分かりやすい反応だろう。先ほどまで慎重に足場を見ていたのに、緑色が見えた途端、歩幅が少し大きくなる。
壁際には短い葉のかたまりが点々と生え、根の陰には柔らかな苔が広がっていた。兎はまず近くの葉へ口を寄せる。瑞々しい匂い。これは期待できそうだ。
ひと噛み。
次の瞬間、兎は目を細めて顔を引いた。
苦かったらしい。
ものすごく苦かったらしい。前脚で口元をこすり、耳をぶんと振ってから水辺へ行く。慎重な食べ方を覚えたおかげで、飲み込んだのはほんの少しだ。被害は味覚だけで済んだ。そこは立派な成長である。もっとも、苦いものを見つける才能まで磨く必要はないと思うが。
水で口を湿らせたあと、兎は隣の岩に広がる苔を試した。こちらは柔らかく、口の中に嫌な味が残らない。今度こそ落ち着いて食べ始める。根の隙間には小さな虫もいたが、今日は追いかけなかった。十分な食べ物が目の前にあるなら、わざわざ逃げるものを追い回す必要もない。かつての草食兎としての好みも、ちゃんと残っているのだ。
食べ終えてから、兎は大きな根の下で身体を休めた。壁の向こうからは絶え間ない水音がする。その奥に、もっと広い空間があるのかもしれない。だが、岩の裏側を今すぐ確かめる術はない。兎は耳を動かし、時折聞こえる小さな擦過音に注意を向けていた。
そのとき、低い振動が岩を伝った。
昨日より長かった。
根の先の水滴が揺れ、壁際の細かな砂がぱらぱらと落ちる。兎は腹を地面から浮かせ、耳をぴんと立てた。近くに生き物の足音はない。なのに、足場そのものがごくわずかに動いている。
兎は食べ残した苔へ鼻を寄せかけて、やめた。
おや、珍しい。食事の続きを諦めるとは。
兎は壁から離れ、低い岩の陰でじっと待った。音が途切れてもすぐには動かず、水滴の落ち方と地面の震えを確かめる。危険が来れば身を伏せ、聞こえなくなってもしばらく待つ。ここ数日繰り返してきた動きだった。耳のよさだけに頼らず、身を隠す場所を先に見つける。その慎重さが、今は食欲に勝っている。
身体の奥へ意識を向けると、いつもの線が静かに浮かんだ。
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固有能力:《進化の羅針》
↪詳細:自身の保有する能力・スキルを確かめ、進化の可能性を観測し、条件を満たした進化先を選ぶ。
能力:――
スキル:《跳躍》Lv3
スキル:《着地》Lv2
スキル:《聴き分け》Lv2
スキル:《警戒》Lv3
↪詳細:周囲の音や動きの変化を継続して見張り、危険の兆しを早めに捉え、行動を控える・退避する時機を判断する技術。
スキル:《蹴撃》Lv2
スキル:《間合い》Lv2
スキル:《感覚連携》Lv2
スキル:《悪食》Lv2
スキル:《魔力調息》Lv1
スキル:《潜伏》Lv1
↪詳細:物陰や地形に身体を沿わせ、不要な動きと音を抑えて身を隠す初歩的な技術。姿や匂いを魔法的に消すものではない。
その他:
⦅世界の祝福⦆
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兎には文字は読めない。それでも、今までより危険を見つけるのが早くなった感覚と、息を潜めて身を隠す動きが少し馴染んできたことは伝わった。新しい身体の内側には、飲み込んだものと一緒にわずかな魔力を取り分けられる仕組みがある。しかし、その仕組みを使ったところで、今聞いた岩の振動が何なのかまでは教えてくれない。
兎は目を開け、もう一度壁を見た。
静かだった。とても静かだ。ついさっきまで動いていた小さな影が、目に見える範囲からいなくなっている。
嫌な予感、と言えば人間には分かりやすいだろう。兎がそこまで言葉にしたわけではない。ただ、ここにじっとしていたくないという感覚が、腹の空き具合よりも強くなったのだ。
兎は新しい寝床へ戻ることにした。
ところが、戻る途中の細い水路では、水の流れが少し変わっていた。昨日は石の右側を伝っていた筋が、今日は左の亀裂へ落ちている。水音が低くなり、岩の継ぎ目から白っぽい砂が浮き出していた。兎は近づきかけて足を止め、少し遠回りして乾いた段差を渡った。
今までの経験から、濡れた場所ほど滑りやすいことは知っている。だが、濡れている岩がいつも同じ姿でいてくれるとは限らないらしい。
六日目、兎は寝床の奥で目を覚ました。
外が妙に静かだった。
小さな殻が擦れる音が、いつもより少ない。水音は相変わらず続いているが、その下から、低く、遠い唸りが聞こえる。耳を壁へ向けると、昨日とは違う場所から石を擦るような音が返ってきた。
兎は身体を起こし、入口へ歩いた。傷はずいぶんよくなっている。だが、この静けさは気に入らない。いつもなら寝床の近くにいる小さな生き物たちも、今日は奥の割れ目へ潜り込んでいる。
外へ出た瞬間、足裏に細かな揺れが来た。
兎は反射的に岩の陰へ身を寄せる。少し離れた上段で、ぱき、と何かが割れた。小石が跳ね、粉のような砂が舞い上がる。地面の奥から響いてくる低い音が、今度は途切れず続いていた。
遠くの岩棚が沈んだ。細い水脈が横切る場所で、板のような岩が傾き、小さな生き物たちが一斉に走り出す。割れ目が広がり、縁の石が次々と落ちた。
兎は耳を伏せた。
あれは獣ではない。少なくとも、目の前に噛みついてくる相手ではなかった。だが、獣より逃げ道を選びにくい。岩棚そのものが動いているのだから。
低い地響きがもう一度走った。兎のいた寝床の天井から砂がこぼれる。下段へ戻ろうとした兎は、行く手に細い裂け目が増えているのを見て止まった。左は深い断崖。右は水路に沿った濡れた斜面。背後の岩穴へ戻れば天井がまた崩れるかもしれない。
兎は右へ走った。
水路をまたぐ小さな石の上へ跳び、さらに乾いた突起へ前脚を伸ばす。着地すると身体を低くし、次の足場を確かめる。目の前の岩が揺れるたびに踏み切りを遅らせ、収まった瞬間に跳ぶ。急ぎたい。だが、急いで滑れば終わりだ。昨日までの慎重さが、今日ほどありがたい日はない。
すぐ横で水が噴き上がった。
岩の割れ目から押し出された水が細い柱となり、兎の耳を濡らす。驚いて跳び上がりかけたが、兎は着地点を見て踏みとどまった。そこにはもう、さっきまであった石がない。崩れた岩片が暗い下方へ消え、遅れて遠くから鈍い音が返ってきた。
落ちたら、どうなる。
そんな問いを言葉にするまでもない。兎の四肢はすっかり縮こまり、鼻が忙しく震えていた。
背後で岩が裂ける音がした。戻る道が崩れた。右前方に、壁へ張りつくように続く細い棚がある。そこへ飛び移れば、少なくとも今の場所から離れられる。兎は耳を伏せ、後ろ脚を踏ん張った。
跳んだ。
前脚が向こうの縁に届く。だが、着地した瞬間、足元の岩がずるりと沈んだ。
兎は爪を立てた。踏み直そうにも、石そのものが傾いている。崩れた足場が、兎を乗せたまま暗い裂け目へ滑り始めた。
視界が横へ回った。耳元を風が抜け、足元の岩が遠ざかる。
落ちる。
兎は後ろ脚を空へ蹴り、前脚を伸ばした。届く岩はない。代わりに、上から垂れ下がる太い根が幾筋も見えた。一本が胸をかすめ、もう一本へ身体がぶつかる。細い枝分かれが毛並みへ絡み、落ちる勢いがわずかに鈍った。
それでも止まらない。
兎は根の束へ身体を押しつけ、前脚で絡まる細枝をかいた。根が大きくたわみ、ばき、と一本折れる。次の瞬間、兎の身体は水の流れる斜めの岩へ落ち、転がった。足裏が岩に当たる。反射的に四肢を縮めて衝撃を逃がしたが、肩には鋭い痛みが走った。
滑り落ちた先は、根に覆われた幅のある岩のくぼみだった。そこにも水が流れ、柔らかな苔が岩の端を覆っている。兎は腹を地面に押しつけ、しばらく動かなかった。
上で大きな岩が落ちる音がした。だが、もう頭上を直接通ってはいない。崩れた石は遠くの暗がりへ消えていき、水音だけが残った。
兎はゆっくり耳を立てた。
痛い。肩が痛い。せっかく何日もかけて傷を治したのに、また痛い。ほんの少し前まで寝床でのんびり苔を食べていた兎には、まったく理不尽な話である。
けれど、その耳に届いた音は、いままでとは違っていた。
水が落ちる音。それも一つや二つではない。遥か下から幾重にも重なって響き、その向こうで葉の擦れ合うような音がする。湿った土の匂いが、冷たい空気とともに上がってきた。
兎は根の間から鼻先を出した。
そこには、巨大な空間が広がっていた。
高い天井から幾千もの根が垂れ下がり、根と根の間を細い滝が白く流れている。岩壁は幾重にも折り重なり、段差ごとに緑が浮かんでいた。水が落ちるたび、遠くの葉が揺れ、淡い光を宿した湿った岩肌がかすかに輝く。さらに奥は霧に隠れ、どこまでが壁で、どこからが空間なのかも見分けられない。
さっきまで灰色の石ばかり見ていた目には、信じがたいほど豊かな景色だった。地下にこれほど大きな庭が隠れていたとは。いや、庭と呼ぶには広すぎる。誰が手入れするでもないのに、根は伸び、水は落ち、見知らぬ緑があちこちで息づいている。大迷宮というものは、どこまで行っても人の想像を軽々と越えてくるらしい。
兎はしばらく身じろぎもしなかった。
恐ろしい目に遭ったばかりだ。肩は痛むし、頭上ではまだ時折、小石が落ちる音がする。それでも、眼下の緑の塊を見つけた鼻先が、ほんの少し動いた。
あれは食べられるのだろうか。
……まったく。
世界がひとつ崩れたような騒ぎのあとで、また食べ物を探している。少しは景色の壮大さに浸ってほしい気もするが、まあ、この兎にしてみれば立派な発見なのだろう。
兎は根に守られた岩の窪みへ身体を戻し、痛む肩をかばうように丸くなった。今すぐあの緑へ飛び込むわけにはいかない。まずは息を整え、頭上の音が静まるのを待たなければ。
遠くで滝が響いていた。知らない葉の匂いが、途切れることなく流れてくる。
食べ物はありそうだ。
そして、きっと食べ物以外にも、まだ何かがいる。
兎は片方の耳を立てたまま、ゆっくり目を閉じた。




