第10話『兎に橋は必要か?』
草の匂いがする。
地下湖の岸に沿って続く岩場を、小さな兎が鼻をひくつかせながら進んでいた。右手には湿った岩壁、左手には淡く青い光を帯びた水面。足元には丸い石や尖った岩が折り重なり、気を抜けば脚を挟まれそうな隙間もある。それでも兎の耳は元気よく揺れていた。少し先から運ばれてくる青い匂いが、どうにも気になるらしい。
つい先ほど《響兎》から《巧響兎》へ進化したばかりの身体は、まだ慣れないところも多い。だが、目で見た石の形と耳に届く水音、足裏から伝わる傾きを合わせると、次にどこへ脚を置けばいいのかが以前より分かりやすかった。最初の岩を越え、低い石へ降り、少し離れた乾いた場所へ跳ぶ。着地の衝撃を受け止めてから方向を変える動きも、なかなか滑らかである。
本人にもそれが嬉しかったのだろう。二つ目の岩を軽々と越えると、三つ目には少し勢いをつけて飛び乗った。
ごとん、と嫌な音がした。
足元の岩が傾く。兎は耳を跳ね上げ、ほとんど反射で元の場所へ跳び戻った。次の瞬間、今まで乗っていた石がずるりと滑り、湖へ落ちて大きな水しぶきを上げた。
残された兎は腹を岩に押しつけたまま、しばらく水面を見つめていた。危うく一緒に泳ぐ羽目になるところだった。いや、泳ぐというより流される羽目になった可能性の方が高い。なにしろ本人は水遊びをしに来たわけではないのである。
進化して足場の見極めが上手になったのは確かだ。しかし、見た目が頑丈そうな石まで必ず動かないとは限らない。賢くなったことと、調子に乗らなくなることはどうやら別問題らしい。
兎はしばらく耳を伏せていたが、やがて隣の岩へ前脚を伸ばした。まず押してみる。少し体重をかけ、もう一度押す。動かないと分かってから跳び移ると、その先の岩にも同じことをした。
うむ。痛い目に遭ったあとではあるが、学習が早い。できれば落ちる前に思いついてほしかったものの、そこまで求めるのは贅沢だろう。
岸辺の道は湖へ張り出した岩の裏を回り、細くなったり広くなったりしながら続いていた。波が石の隙間へ入り込むたび、冷たいしぶきが兎の腹毛を濡らす。少し前に《苔甲蟹》と争ったときに負った浅い擦り傷が左の脇腹に残っており、ざらついた岩へ触れると小さく身を縮めた。そこへ無理に身体を押しつけず、向きを変えて通り抜ける。怪我を悪化させない歩き方も、少しずつ身についてきている。
進むにつれて、周りの音が変わり始めた。近くで寄せる波の向こうから細い水流の音が混ざり、さらに遠くでは何か巨大なものが低く唸るような響きが続いている。兎は足を止めて左右の耳を動かした。岩壁の向こうで水が落ちているらしい。少なくとも、そこで濡れた場所が広がっていることは、目の前の石に残る筋からも分かった。
水の流れる低い道を避け、兎は岩壁の出っ張りへ前脚をかけた。短い後ろ脚で身体を押し上げ、乾いた棚を慎重に進む。途中、下の隙間から草の匂いが強く漂ってきたが、すぐには飛び降りなかった。鼻を動かしながらも先に着地点を見ている。
この兎が食欲より安全を優先したとは、なんとも感慨深い。もっとも、正確には安全を確保してから食べようとしているだけだが、その順番を覚えたのは立派な進歩である。
岩棚が大きく曲がった先で、兎は思わず立ち止まった。
景色が突然、開けていた。
すぐ右に迫っていた岩壁は遥か後ろへ退き、湖を隠していた巨大な岩の岬もそこで途切れている。青白く明滅する水面が暗闇の彼方まで広がり、大小の岩島が点々と浮かんでいた。頭上には巨大な石の突起が何本も垂れ下がっているが、その根元は暗くて見えない。天井がどこにあるのかさえ、小さな身体からは想像もつかなかった。
遠くの崖には白い筋が何本も走り、それぞれが水となって湖へ落ちている。斜面には淡い緑色の帯が広がり、さらに上には樹木のような黒い影がまとまっていた。水辺なのに木があるのか、それとも木に似た何かなのか。兎にはもちろん分からない。あまりに遠く、その正体を見極めることもできなかった。ただ、今まで進んできた狭い岩道の向こうに、まるで別の土地のような景色が横たわっていることだけは確かだった。
大迷宮の内部では、通路の先が小部屋につながるとは限らない。一つの階層に森や湖が広がり、地上の一地方にも負けない規模の環境が成り立つことさえある。兎が歩いてきたのは、そんな広大な水辺のごく一部にすぎないのだ。
当の兎はしばらく湖面を眺めたあと、遠い緑の斜面へ鼻を向けた。どうやら壮大な景観にも感心しているようだ。いや、鼻の動きからすると、そこに生えていそうな草へ期待している可能性の方がずっと高い。本人にとっては、どちらも十分すぎるほど魅力的な眺めなのだろう。
足元の浅瀬では、岩に絡まる細い根の下を小さな影が行き来していた。丸い背が水面をかすめたかと思えば石の裏へ消え、別の影が底の砂を巻き上げる。兎が一歩近づくと、それらは示し合わせたように隙間へ潜り込んだ。名も形もまだ分からない小さな生き物たちが、この水際だけでもいくつも暮らしているらしい。
兎は水面を覗き込み、影の消えた辺りへ前脚を伸ばした。ぽちゃん、と足先が沈む。思いのほか冷たかったらしく、慌てて引っ込めると波紋の上に長い耳の影が揺れた。兎はそれをじっと見つめ、顔を近づける。水が揺れるたびに影も動くので、ますます気になるらしい。
それは自分の耳である。捕まえたところで、たぶん嬉しくない。
幸い、いつまでも水面に夢中でいることはなかった。岩の上を吹き抜けた風に草の匂いが混じると、兎はすぐさま顔を上げた。好奇心は育っている。それはそれとして、空腹にはかなわない。
その匂いを辿った先に、以前から遠くに見えていた石柱の列があった。近づいてみると一本一本が驚くほど太く、兎が何匹並んでも横幅に余裕がある。まっすぐな溝の走る表面、妙に揃った間隔、途中で折れて水中へ沈んだ柱。それらは古い建造物の残骸に似ていたが、ここは大迷宮の中である。迷宮の景観が誰かの建物を真似たのか、それとも別の成り立ちを持つのか、今のところ確かなことは何もない。
そんな難しい事情に兎が頭を悩ませるはずもなかった。柱の根元に柔らかな草を見つけると、鼻を突っ込み、早速むしゃむしゃと食べ始めたのである。硬めの葉を一枚、柔らかい葉をもう一枚。味を確かめるように交互に噛む姿は、巨大な柱よりよほど真剣だ。よくよく考えれば、これほど大きな迷宮で見つけた新しい食事処なのだから無理もない。
食べている間も耳は休まなかった。背後で弾ける水音、柱の上を抜ける風、どこか遠くから伝わる低い響き。その一つひとつへ耳を向け、ときどき顔を上げて周囲を確かめる。腹が落ち着いたところで再び歩き始めると、柱の先で道が途切れていることに気がついた。
目の前を、水路が横切っていた。
湖から入り込んだ水が岩を割るように流れ、向こう側の入り江へ抜けている。さほど幅広い水路ではないが、兎がひと跳びで渡れるほど狭くもない。水面から突き出た石は離れすぎており、途中の足場には使えそうになかった。
しかも反対側の岸には、こちらよりずっと柔らかそうな草が茂っている。
見える。匂いも届く。なのに食べに行けない。空腹でなくとも、これは兎にとって少々許しがたい状況だったようで、岸の端を何度も行ったり来たりした。前脚を踏み出しては水の流れを見て引っ込み、少し助走をつけては距離の遠さに思い直す。勢いだけで飛ばなくなったのは偉いが、草を諦めるという選択肢は最初から存在しないらしい。
やがて兎は流れの上手へ耳を向けた。水が石にぶつかる音が、少し離れた場所で不規則に返ってくる。何か大きなものが水路を横切っているように感じられた。兎は石の上を慎重に移動し、柱の陰からその場所を覗き込む。
折れた石柱が一本、水路をまたいで倒れていた。
片端は手前の岸、もう片端は向こう岸の岩へ引っかかっている。丸かった表面の一部が欠けて細い平面を作り、そこだけなら四本の脚を置けそうだった。ただし中央には亀裂が走り、水路側へ傾いた箇所もある。たまたま橋のような形になった石であって、安全な渡り道として整えられたものではない。
兎は手前の端へ鼻先を伸ばした。石の匂いを嗅ぎ、前脚を置き、後ろ脚で押しても動かないことを確かめてから進む。二歩ほど歩いて下を覗くと、思っていたより速い水流が真下を走っていた。水音が岩の腹へ当たって反響し、耳の奥が落ち着かなくなる。思わず首を引っ込めた兎は、来た方へ後ずさりして岸に戻った。
いい判断である。渡り始めたからといって、最後まで進まねばならない決まりはない。特に今の兎には、水路の向こうの草より大切な四本の脚がある。本人がそれを理解しているかはともかく、少なくとも無理はしなかった。
しばらく石柱を見上げていた兎は、今度は手前の少し高い岩へ跳び乗った。そこからなら橋の先まで見通せる。中央は窪んでいて右側が滑りやすそうだが、その隣には乾いた筋が続いていた。目に見える欠け目と、耳に届く水音を確かめながら、兎は頭を小さく傾ける。
もちろん、頭の中で橋の構造を計算しているわけではない。見えた形、聞こえた流れ、脚を置いたときの感触が、次の一歩へ結びつきやすくなっただけだ。それでも《巧響兎》へ進化し、《感覚連携》という技術を身につけた今の兎にとって、その違いは大きかった。
もう一度、石柱へ前脚をかける。
広い部分を抜けたところで一度止まり、脚をそろえて身体を低くする。次は左寄り。そこへ短く進んだら、窪みでまた止まる。急ぐ必要はない。水面を見下ろすたび胸の鼓動が速くなったが、兎は今度こそ引き返さず、慎重に橋の中ほどへ近づいていった。
そのとき、湖の遠くで妙な動きがあった。
岩島だと思っていた黒い塊が、ほんの少し場所を変えたのである。最初は水面の光が揺れたせいにも見えた。しかし、塊の端から長いものがゆっくり持ち上がり、大きな頭が暗い水上へ姿を現すと、見間違いではないことが分かった。水の下で太い四肢が動き、岩島の周りに幅広い白波が生まれていく。
《湖嶺大亀》。広大な地下湖の深いところを回遊する、巨大な亀型の魔獣だ。岩山のような甲羅には長い年月の間に土砂がたまり、苔や草が根づいている。主に水草や藻類を食べて暮らす温厚な種族だが、成体の全長は三十メートルを超える。少し遠くから眺めただけでは、泳ぐ亀と浮かぶ小島の区別がつかないのも仕方ない。
それにしても、背中に草を生やして泳ぎ回るとは贅沢なことである。食べ物と一緒に移動しているようなものではないか。もっとも、あの草が兎の口に入る可能性は限りなく低い。なにしろ畑が勝手に泳いでいくのである。
そんな悠長なことを考えている場合ではなかった。兎は石橋の上で耳を立てたまま固まっていた。湖の沖を進む巨大な影は、小鬼や《鳴洞蝠》とは比べものにならない大きさだ。そもそも自分を見つけて近づいてくる気配すらない。あれほど巨大なものが何をしてくるのか、小さな兎には見当もつかなかった。
《湖嶺大亀》は長い首を水へ戻し、悠然と沖へ向かっていった。波を立てるために特別な魔法を使ったわけでもない。ただ泳いでいる。それだけで甲羅の周りの水が押し分けられ、遠い岸まで届くうねりが生まれていた。
しばらくすると、そのうねりが石柱の列へ届いた。
初めは浅瀬を洗う小さな波だった。だが水路へ流れ込んだ水がいつもより高く盛り上がると、橋の下で鈍い音が響き、跳ねたしぶきが石の縁を濡らした。柱自体は大きく揺れない。それでも突然近くで響いた水音に兎が身を固くした拍子に、後ろ脚が欠けた場所へずれてしまった。
ざり、と小石が崩れた。
後ろ半身が水路側へ滑る。兎は反射的に跳ぼうとしたが、正面の石は斜めに割れ、勢いよく飛びつけばかえって落ちそうだった。前脚を広げて爪を岩のざらつきへかけ、腹を柱へ押しつける。片方の後ろ脚を引き戻そうにも、そこにはすでに踏める場所がない。
耳のすぐ下で水が吠えていた。普段なら音の反響から周囲の様子を捉えられるのに、今は水音が幾重にも重なり、距離をつかみにくい。兎は必死に目を開き、左前方の平らな部分を見つけた。遠くへ跳ぶ必要はない。そこへ身体を移せれば、まだ四本の脚を置ける。
支えのある前脚へ体重を寄せ、残った後ろ脚で石を蹴る。跳躍というにはあまりに低い、横へ身を投げるような動きだった。腹毛が石をかすめ、前脚が平らなところへ届き、続いて後ろ脚が引き寄せられる。
どうにか、落ちなかった。
兎はその場に伏せたまま荒い息を繰り返した。耳を伏せても水音は消えず、心臓が小さな胸をせわしなく叩いている。左の脇腹の擦り傷も、石に押しつけたせいでじんじんした。先ほど見た巨大な亀はすでに遠く、こちらへ首を向けることさえない。
あちらはただ湖を泳いでいただけなのだ。それなのに、岸辺のこんな小さな命が危うく水へ落ちかけた。この大迷宮では、遠く離れた生き物の何気ない暮らしすら、別の生き物にとっては大事件になるらしい。
兎が再び顔を上げるまでには、少し時間がかかった。背後へ戻ることもできる。けれど向こう岸の草地は、もう間近に見えている。鼻をひくつかせると、湿った空気に混じって柔らかな葉の匂いが届いた。
こんな思いをしたあとでも、草のことを忘れないとは。頼もしいというべきか、少しは懲りてほしいというべきか。ひとまず生きていてくれて何よりである。
兎は慎重に立ち上がった。さっき滑った右側には寄らず、乾いた筋を辿って短い歩幅で進む。途中で止まるたびに足元を確かめ、最後の欠け目だけを小さく跳び越えた。前脚が向こう岸の土をつかみ、続いて後ろ脚が柔らかな草の上へ降りる。
渡り切った。
兎は水路の方を振り返った。細い石柱が黒い水の上に横たわり、その下では何事もなかったように流れが続いている。遠い湖面には、さっきまで岩島だった巨大な影が小さく残っていた。
脚は疲れたし、胸はまだどきどきする。脇腹も少し痛む。だが、無事に渡り終えた今、目の前には柔らかな草が生えている。兎は一番近くの葉を噛み切り、夢中で咀嚼し始めた。
ああ、美味しそうだ。きっと実際に美味しいのだろう。命懸けで水路を渡ったあとの食事なのだから、多少硬い葉だってご馳走に違いない。
兎は次々と葉を口へ運び、少し長い草を見つけると根元まで引っ張った。ところがその一本は思ったより丈夫だったらしい。後ろ脚を踏ん張って力を込めた途端、ぷつんと茎が切れ、勢い余って尻もちをついてしまった。
つい先ほど危ない橋を渡り切った兎が、今度は草に負けたのである。実に忙しい一日だ。
食べ終える頃には身体の震えも収まり、兎は草の上へ腹をつけて休んだ。岩壁を抜ける風と、柱の間を通る水音。遠い滝の低い響きも、落ち着いて聞けば先ほどまでとは違う場所にあることが分かる。動く岩島、滑りやすい石、脚を置けるところと置けないところ。怖い思いをしたせいか、ひとつひとつがいつもより鮮やかに残っていた。
そこで兎は、ふと思い出したように目を閉じた。敵を倒したわけでも、進化したくなったわけでもない。ただ、今の自分がどうなっているのかが気になったのである。意識を内側へ向けると、何度も触れてきた《進化の羅針》の感覚が静かに浮かび上がった。
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固有能力:《進化の羅針》
↪詳細:自身の保有する能力・スキルを確かめ、進化の可能性を観測し、条件を満たした進化先を選ぶ。
能力:――
スキル:《跳躍》Lv2
スキル:《着地》Lv2
スキル:《聴き分け》Lv2
スキル:《警戒》Lv2
↪詳細:周囲の変化や危険の兆しを見落とさないよう注意を向け、行動を調整する技術。
スキル:《蹴撃》Lv1
スキル:《間合い》Lv1
スキル:《感覚連携》Lv1
その他:
⦅世界の祝福⦆
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新しい技が増えたわけではない。けれど危ないものに気づくための感覚が、前より少し確かになっている。濡れた岩に気をつけ、遠くの波へ耳を向け、落ちそうな足場から引き返した。その積み重ねの中で《警戒》という技術が育っていたのだろう。
兎には表示された文字の読み方も、数字の意味も分からない。それでも《進化の羅針》を通して伝わる変化と、自分の身体で覚えたことは少しずつつながり始めていた。目を開けた兎は、食べ残しの葉へ顔を寄せる前に柱の陰と水際を見回した。近づく気配がないと確かめてから、安心したように口を動かす。
なんと、草を食べる前に周りを見た。以前のこの兎を思えば、わりと大きな事件である。
やがて腹が満ちると、兎は草地の奥に顔を向けた。石柱はまだ何本も並び、その間には崩れた岩が暗い影を落としている。少し離れたところに細い隙間があり、そこから流れ出す風には湖とは違う青い匂いが混じっていた。嗅いだことのない植物の匂いだ。
兎は足元の草と暗い隙間を見比べた。ここにいればまだ食べられる。だが、向こうにも何かありそうだ。その気配に引かれるように耳を伸ばし、それでも名残惜しそうに目の前の葉を一枚かじる。
もう一枚だけ。そんなつもりだったのかもしれない。
ところが兎は本当に一枚で食べるのをやめた。最後の葉を飲み込むと立ち上がり、足元を確かめてから暗がりへ向かう。いやはや、今日は驚かされてばかりである。進化によって賢くなったことより、草を途中で切り上げられるようになったことの方が、よほど目覚ましい成長なのではないだろうか。
小さな耳が石柱の奥へ向いた。崩れた岩の向こうでは、まだ知らない水の音がかすかに響いている。
兎は鼻を動かし、薄暗い隙間へ一歩踏み出した。
この大迷宮は、まだどこまでも続いている。




