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白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


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9/27

第9話 ヴィオレット様、お泊まりでございます

 峠は、夜のうちに閉じました。


 朝から、坂を上がってくる者が続きました。峠の登り口で足止めされた荷が、石橋へ戻ってくるからです。宿場の宿は昼前に埋まりました。馬具屋の二階は六人まで。パン屋の裏の納屋にも、三人入ったそうです。


 うちは一の間に六人お入れしました。馬方が四人と、鍛冶の道具を運ぶ職人が二人です。


 濡れた外套は、竈の脇ではなく、土間の梁に渡した竿へ掛けます。竈の近くで乾かしますと、外側だけが乾いて、裏の毛が湿ったまま残ります。それを翌朝に着て峠風へ出れば、乾いていない側から冷えます。


 荷は部屋へ入れずに、帳場の裏へ積んでいただきました。六人で一部屋を使う夜は、荷を置いた者と置けなかった者のあいだで、必ず一度もめ事が起きます。荷は帳場が預かれば喧嘩にならない、と父は言っておりました。


 昼を過ぎて、坂の下に馬車が見えました。


 二頭立てです。車体に紋があります。翼のある魚。ダンジュ家。


 車輪の泥が、下から三寸のところで切れております。石橋より低い川筋を渡ってきた泥です。馬は二頭とも、たてがみを短く刈ってありました。峠の道を知っている者は、冬にたてがみを刈りません。首の毛は、雪が吹きつけるときに馬の顔を守ります。この馬車は峠を越える支度をせずに峠へ行って、閉じた道の前から引き返してきたのでしょう。


 マノンが厨から出てきて、鼻から息を吸いました。


 「……ほら、来ましたよ。花のほうだ」


 御者が降りて、こちらへ来ました。


 「峠が閉じたと聞いた。石橋に部屋が無い。ここは」


 「一の間は、六名様がお入りです。ほかにお部屋が二つございますが、一つは天井の板が落ちておりまして、もう一つは梁が湿っております。どちらもお泊めできません」


 「では」


 「わたくしの部屋をお使いいただきます。狭うございますが、乾いております」


 馬車の扉が開きました。


 降りてきたのは、若い娘さんでした。外套の裾を両手で押さえて、足元を見ながら降りて、それから顔を上げました。


 ヴィオレット・ダンジュ様。


 わたくしは頭を下げました。


 「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」


 ヴィオレット様は、看板を見上げました。それから、わたくしを見ました。それから、もう一度看板を見上げました。


 「……あの」


 「はい」


 「こちらのお宿は、その、あなたの……?」


 「はい。わたくしの宿でございます」


 ヴィオレット様は、そこで何かを言おうとして、言えませんでした。


 「お荷物をお預かりいたします。湯は、半刻ほどで沸きます」


 自分の部屋からは、まず宿帳の控えと父の匣を出しました。それから寝台の藁を返して、上下を入れ替えました。使っていた側を下にしますと、潰れた面が沈んで、背中の当たりが柔らかくなります。


 毛布は、いちばん厚いものを二枚。窓は南向きですので、板戸の隙間に古布を詰めて、下の隅だけ指一本ぶん空けておきました。詰め切ってしまいますと、朝に煙が抜けません。


 厨で、マノンが皿を数えておりました。


 「お嬢さん。あんた、どこで寝るんです」


 「帳場です」


 「帳場に寝台はありませんよ」


 「椅子を三つ並べます」


 「三つ並べたって、あんたの背丈には足りません」


 「四つ並べます」


 マノンは、皿を一枚わたくしの前に置きました。


 「食べてから並べなさい」


 湯屋には、内から掛ける閂がありません。ですから、外に心張り棒を立てて、そこにマノンを座らせました。座らせるといっても、この人は座りません。壁に背をつけて立って、通る者をひとりずつ睨んでおりました。


 湯は二度に分けました。ヴィオレット様が先で、馬方たちが後です。九人を一度に入れれば湯が濁ります。濁った湯で髪を洗いますと、乾いたときに指が通りません。順を先にしたのはそれだけの理由ですが、理由のある順は、誰も文句を言いません。


 食堂の卓は、長いものが一つきりです。男六人と娘さんをひとつの卓に着けるときは、灯の位置を変えます。娘さんの側の灯を落として、男たちの側を明るくします。人は明るいほうを見て話しますので、暗い側の椅子は、座っている人の分だけ壁になります。


 ヴィオレット様には、竈にいちばん近い端の席へお座りいただきました。厨から出入りするたびに、わたくしがその席の後ろを通ります。


 夕餉は、麦の粥に干した無花果を二つ添えました。


 無花果は、去年マノンが軒に吊るしておいたものです。菓子はございません。屋敷では蜂蜜の菓子を焼かせておりましたが、ここには蜂蜜も、白い粉もありません。


 粥には、香草を入れませんでした。この方は、香草の匂いのするものを皿の端に寄せる癖がおありです。屋敷の厨で、三年見ておりました。


 ヴィオレット様は、粥を半分ほど食べて匙を置きました。


 それから、皿の端をご覧になりました。


 寄せるものが、何もありません。


 夜、帳場で宿帳をつけておりますと、階段の板が鳴りました。


 三段目です。この宿でいちばんよく鳴る板で、父はわざと直しませんでした。夜中に人が下りてくれば、帳場に音で分かります。


 ヴィオレット様が、外套を肩にかけて立っておられました。


 「あの、お代を——多く、置かせてください」


 「宿代は、一人前でございます」


 「でも、わたし、お部屋を……あなたのお部屋を、取ってしまって」


 「多くいただきますと、宿帳に書けません。父の書式に、その欄がございませんので」


 ヴィオレット様は、台の上の宿帳を覗き込まれました。


 「……顔と、匂い」


 「はい。名前は書き換えられますが、顔と匂いは書き換えられないと、父が申しておりました」


 「わたしのところには、何と」


 わたくしは、書いたところをお見せしました。


  十の月の五日 ダンジュ家 ご息女 一名 主人部屋 銀貨十四

  顔:右の目尻に小さな黒子。人の話を聞くとき、少し首を傾げる。

  匂い:石鹸(花)。馬車の油。


 ヴィオレット様は、しばらくそれをご覧になっておりました。


 「……あの方は」


 「はい」


 「ロラン様は、わたしのことを三年ずっと待っていたと、おっしゃるんです」


 「さようでございますか」


 「わたし、待っていてくださいと申し上げたことが、一度もないんです。一度も。それなのに、あの方は、待っていたご自分の話を、なさるんです。ずっと。……わたしの話は、あまり」


 わたくしは、筆を置きました。


 「お客様」


 「はい」


 「石が冷めます」


 「石……?」


 「寝台の足元に、焼いた石を入れてございます。布が二重に巻いてありますので、直に触れても熱くはありません。冷めますと、明け方に足から冷えます。冷める前にお休みになったほうが、よろしゅうございます」


 ヴィオレット様は、立ち上がりました。それから、階段の下で止まりました。


 「イレーヌさん」


 「はい」


 「わたし、何も知らなかったんです。本当に、何も」


 「はい」


 「……はい、って、あの」


 「お客様が何をご存じかは、宿の書く欄にございません」


 階段の板が、三段目で鳴りました。


 朝、峠は白いままでした。


 馬車の車輪に夜のうちに霜が付いておりましたので、ジャンが藁で拭いております。馬の脚も見ました。この子は人に挨拶をしませんが、馬の前脚には必ず一度、手を当てます。


 御者が言いました。


 「お嬢様、そろそろ。男爵様と石橋でお会いになるお約束です」


 「……はい」


 「ギュスターヴ様は昨日から下の道をご覧になっているそうで、雪が本降りになる前にと」


 ヴィオレット様が、馬車の窓から顔を出されました。


 「イレーヌさん」


 「はい。お忘れ物はございませんか」


 「父が、峠を見に来ているようです」


 「峠を」


 「わたし、何も聞かされていないのですけれど、地図を持って来ておりました。とても大きな地図で、街道が——あの、お世話になりました」


 馬車が、坂を下りていきました。


 轍が二本、雪の上に残ります。下りの轍は、上りより浅い。坂を下りる車は、馬が引くのではなく、車が馬を押しますので、車輪が雪を掻きません。


 わたくしは帳場に戻って、昨日の行の下に一行足しました。


  ※ 峠を見に来ている者あり。地図を持参。


 マノンが、後ろから覗き込みました。


 「読めません」


 「はい」


 「けど、書いておきなさい。親父さんも、そうしてました」

 次話「読めない手紙」では、梁の上から油紙の包みが下りてまいります。


 三年ぶんです。中身は、わたくしが屋敷から書き送っていたものでした。

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