第9話 ヴィオレット様、お泊まりでございます
峠は、夜のうちに閉じました。
朝から、坂を上がってくる者が続きました。峠の登り口で足止めされた荷が、石橋へ戻ってくるからです。宿場の宿は昼前に埋まりました。馬具屋の二階は六人まで。パン屋の裏の納屋にも、三人入ったそうです。
うちは一の間に六人お入れしました。馬方が四人と、鍛冶の道具を運ぶ職人が二人です。
濡れた外套は、竈の脇ではなく、土間の梁に渡した竿へ掛けます。竈の近くで乾かしますと、外側だけが乾いて、裏の毛が湿ったまま残ります。それを翌朝に着て峠風へ出れば、乾いていない側から冷えます。
荷は部屋へ入れずに、帳場の裏へ積んでいただきました。六人で一部屋を使う夜は、荷を置いた者と置けなかった者のあいだで、必ず一度もめ事が起きます。荷は帳場が預かれば喧嘩にならない、と父は言っておりました。
昼を過ぎて、坂の下に馬車が見えました。
二頭立てです。車体に紋があります。翼のある魚。ダンジュ家。
車輪の泥が、下から三寸のところで切れております。石橋より低い川筋を渡ってきた泥です。馬は二頭とも、たてがみを短く刈ってありました。峠の道を知っている者は、冬にたてがみを刈りません。首の毛は、雪が吹きつけるときに馬の顔を守ります。この馬車は峠を越える支度をせずに峠へ行って、閉じた道の前から引き返してきたのでしょう。
マノンが厨から出てきて、鼻から息を吸いました。
「……ほら、来ましたよ。花のほうだ」
御者が降りて、こちらへ来ました。
「峠が閉じたと聞いた。石橋に部屋が無い。ここは」
「一の間は、六名様がお入りです。ほかにお部屋が二つございますが、一つは天井の板が落ちておりまして、もう一つは梁が湿っております。どちらもお泊めできません」
「では」
「わたくしの部屋をお使いいただきます。狭うございますが、乾いております」
馬車の扉が開きました。
降りてきたのは、若い娘さんでした。外套の裾を両手で押さえて、足元を見ながら降りて、それから顔を上げました。
ヴィオレット・ダンジュ様。
わたくしは頭を下げました。
「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」
ヴィオレット様は、看板を見上げました。それから、わたくしを見ました。それから、もう一度看板を見上げました。
「……あの」
「はい」
「こちらのお宿は、その、あなたの……?」
「はい。わたくしの宿でございます」
ヴィオレット様は、そこで何かを言おうとして、言えませんでした。
「お荷物をお預かりいたします。湯は、半刻ほどで沸きます」
自分の部屋からは、まず宿帳の控えと父の匣を出しました。それから寝台の藁を返して、上下を入れ替えました。使っていた側を下にしますと、潰れた面が沈んで、背中の当たりが柔らかくなります。
毛布は、いちばん厚いものを二枚。窓は南向きですので、板戸の隙間に古布を詰めて、下の隅だけ指一本ぶん空けておきました。詰め切ってしまいますと、朝に煙が抜けません。
厨で、マノンが皿を数えておりました。
「お嬢さん。あんた、どこで寝るんです」
「帳場です」
「帳場に寝台はありませんよ」
「椅子を三つ並べます」
「三つ並べたって、あんたの背丈には足りません」
「四つ並べます」
マノンは、皿を一枚わたくしの前に置きました。
「食べてから並べなさい」
湯屋には、内から掛ける閂がありません。ですから、外に心張り棒を立てて、そこにマノンを座らせました。座らせるといっても、この人は座りません。壁に背をつけて立って、通る者をひとりずつ睨んでおりました。
湯は二度に分けました。ヴィオレット様が先で、馬方たちが後です。九人を一度に入れれば湯が濁ります。濁った湯で髪を洗いますと、乾いたときに指が通りません。順を先にしたのはそれだけの理由ですが、理由のある順は、誰も文句を言いません。
食堂の卓は、長いものが一つきりです。男六人と娘さんをひとつの卓に着けるときは、灯の位置を変えます。娘さんの側の灯を落として、男たちの側を明るくします。人は明るいほうを見て話しますので、暗い側の椅子は、座っている人の分だけ壁になります。
ヴィオレット様には、竈にいちばん近い端の席へお座りいただきました。厨から出入りするたびに、わたくしがその席の後ろを通ります。
夕餉は、麦の粥に干した無花果を二つ添えました。
無花果は、去年マノンが軒に吊るしておいたものです。菓子はございません。屋敷では蜂蜜の菓子を焼かせておりましたが、ここには蜂蜜も、白い粉もありません。
粥には、香草を入れませんでした。この方は、香草の匂いのするものを皿の端に寄せる癖がおありです。屋敷の厨で、三年見ておりました。
ヴィオレット様は、粥を半分ほど食べて匙を置きました。
それから、皿の端をご覧になりました。
寄せるものが、何もありません。
夜、帳場で宿帳をつけておりますと、階段の板が鳴りました。
三段目です。この宿でいちばんよく鳴る板で、父はわざと直しませんでした。夜中に人が下りてくれば、帳場に音で分かります。
ヴィオレット様が、外套を肩にかけて立っておられました。
「あの、お代を——多く、置かせてください」
「宿代は、一人前でございます」
「でも、わたし、お部屋を……あなたのお部屋を、取ってしまって」
「多くいただきますと、宿帳に書けません。父の書式に、その欄がございませんので」
ヴィオレット様は、台の上の宿帳を覗き込まれました。
「……顔と、匂い」
「はい。名前は書き換えられますが、顔と匂いは書き換えられないと、父が申しておりました」
「わたしのところには、何と」
わたくしは、書いたところをお見せしました。
十の月の五日 ダンジュ家 ご息女 一名 主人部屋 銀貨十四
顔:右の目尻に小さな黒子。人の話を聞くとき、少し首を傾げる。
匂い:石鹸(花)。馬車の油。
ヴィオレット様は、しばらくそれをご覧になっておりました。
「……あの方は」
「はい」
「ロラン様は、わたしのことを三年ずっと待っていたと、おっしゃるんです」
「さようでございますか」
「わたし、待っていてくださいと申し上げたことが、一度もないんです。一度も。それなのに、あの方は、待っていたご自分の話を、なさるんです。ずっと。……わたしの話は、あまり」
わたくしは、筆を置きました。
「お客様」
「はい」
「石が冷めます」
「石……?」
「寝台の足元に、焼いた石を入れてございます。布が二重に巻いてありますので、直に触れても熱くはありません。冷めますと、明け方に足から冷えます。冷める前にお休みになったほうが、よろしゅうございます」
ヴィオレット様は、立ち上がりました。それから、階段の下で止まりました。
「イレーヌさん」
「はい」
「わたし、何も知らなかったんです。本当に、何も」
「はい」
「……はい、って、あの」
「お客様が何をご存じかは、宿の書く欄にございません」
階段の板が、三段目で鳴りました。
朝、峠は白いままでした。
馬車の車輪に夜のうちに霜が付いておりましたので、ジャンが藁で拭いております。馬の脚も見ました。この子は人に挨拶をしませんが、馬の前脚には必ず一度、手を当てます。
御者が言いました。
「お嬢様、そろそろ。男爵様と石橋でお会いになるお約束です」
「……はい」
「ギュスターヴ様は昨日から下の道をご覧になっているそうで、雪が本降りになる前にと」
ヴィオレット様が、馬車の窓から顔を出されました。
「イレーヌさん」
「はい。お忘れ物はございませんか」
「父が、峠を見に来ているようです」
「峠を」
「わたし、何も聞かされていないのですけれど、地図を持って来ておりました。とても大きな地図で、街道が——あの、お世話になりました」
馬車が、坂を下りていきました。
轍が二本、雪の上に残ります。下りの轍は、上りより浅い。坂を下りる車は、馬が引くのではなく、車が馬を押しますので、車輪が雪を掻きません。
わたくしは帳場に戻って、昨日の行の下に一行足しました。
※ 峠を見に来ている者あり。地図を持参。
マノンが、後ろから覗き込みました。
「読めません」
「はい」
「けど、書いておきなさい。親父さんも、そうしてました」
次話「読めない手紙」では、梁の上から油紙の包みが下りてまいります。
三年ぶんです。中身は、わたくしが屋敷から書き送っていたものでした。




