第8話 父の帳面
サンドラール家の使いの方は、朝の粥を食べて発たれました。
代金は銀貨で十二。帳場の台の上で、その方の見ている前で数えました。あとで数えますと、客の顔を疑ったことになります。父はどんなに立て込んでいても、この数えるところだけは人任せにしませんでした。
その日は、昼まで誰も坂を上がってきませんでした。
二の間の落ちた板を、削ってみました。湿って黒くなっているのは表の三分ほどで、下はまだ生きております。かんなをかけますと、白い面が出ました。ただし、削れば薄くなります。薄い板を屋根に上げれば、ひと冬は保ちますが、雪が乗ったときに撓みます。撓んだところに水が回って、来年また同じことになります。
父なら、削らずに置いておけと言うでしょう。半端に直すと、直したことにして、次から見なくなるからです。
削りかけの板を、壁に立てかけました。
薪は、朝のうちに三十四本になっておりました。
日が落ちる少し前に、坂の下から鈴の音がしました。
ろばが一頭。荷は二つ。塩です。塩の荷は、袋の腹が張っていて、揺れても音がしません。
「泊まれるかね」
「一の間が空いております。おひとりでしたら、寝台をお使いいただけます」
「湯は」
「沸くまでに、少しお時間をいただきます」
「構わん。座らせてくれ」
男は土間の椅子に座って、そのまま長いこと足を見ておりました。靴を脱ぐのに手間取っております。紐が凍って、指のほうも動いておりません。
わたくしは前に膝をついて、紐を解きました。
足の指が、白い。
湯を待っていては間に合いませんので、竈の脇の石を三つ、火の際へ寄せました。手をかざして、熱くなりすぎていないかを見ます。触れて熱いと感じる石は、凍えた足には熱すぎます。布を二重に巻いて、寝台の足元へ入れました。
それから、桶に井戸の水を張って、そこへ湯を少しだけ足しました。ぬるい水です。凍えた足を熱い湯に入れますと、その場は痛みが引きますが、あとで腫れます。父はそれを、戻すのは湯ではなく時間だ、と言っておりました。
「……ぬるいな」
「はい。少しずつ足してまいります」
「宿は、あんたひとりでやっとるのかね」
「女中頭がおります」
「ふたりか」
「ふたりでございます」
「三年前は、もっと人がおったろう」
「おりました」
ろばは厩へ入れました。馬とろばを同じ仕切りに入れますと、ろばのほうが眠りません。仕切りの端に藁を厚く敷いて、水は半分だけやりました。峠を下りてきた獣に水を存分にやりますと、夜のうちに腹を下します。
蹄を順に持ち上げてみましたところ、後ろの右に小石が挟まっておりました。指では出せませんので、厩の柱にかけてある古い鉤を使いました。父の鉤です。柄のところが、手の形に凹んでおります。
男は塩の行商で、今日、峠を下りてきたそうです。
「今年は南側が悪い」
「南の斜面でございますか」
「岩が濡れとる。雨でもないのに濡れとるんだ。下の道に、細かい石がざらざら落ちてきよる。あの音を聞きながら歩くのは、気持ちのいいもんじゃない」
「いつ頃からでしょう」
「わしが気づいたのは去年だ。……あんた、なんでそんな顔をする」
「父が、それを書いていた気がいたします」
男は、それきり峠の話をしませんでした。塩の行商は、道の悪いところを他人に喋りすぎません。喋れば、次の年に自分の売り先が減ります。
夜、帳場で宿帳をつけました。
十の月の四日 塩の行商 一名 一の間 銀貨八
顔:左の親指の爪が黒い。荷紐で潰した爪。
匂い:塩と、ろば。
片付けが終わってから、マノンに聞きました。
「マノン。父の帳面は、宿帳のほかにありませんでしたか」
「ありましたよ」
「どこですか」
「知りません」
「……」
「知らないと言ったら、知らないんです。あたしは字が読めないんだから、どれが宿帳で、どれがそうじゃないかなんて分かりゃしません。厚いのと薄いのの区別はつきますけどね」
「厚いほうですか」
「厚いほうです。親父さんが、夜にひとりで開いてました。あたしが厨から覗くと、閉じるんです。見せられないんじゃない、覗かれるとこっちに気を遣うと思ったんでしょうよ」
わたくしは灯を持って、父の部屋へ行きました。
寝台の下です。板の間のいちばん端の一枚が、ほかより浮いております。父は釘を全部は打たない人でした。全部打ってしまうと、開けられなくなるからです。
指をかけて、外しました。
外しながら、天井のほうを一度見上げました。梁が一本、油で黒くなっているところです。
「そっちじゃありません」
マノンの声が、思ったより強く出ました。
「……はい」
「下です。下を見なさい」
板の下に、木の箱がありました。
油紙で二重に包んであります。包み方が父のやり方でした。角を折ってから、紐を十字にかけて、結び目を下にします。結び目を上にしますと、埃が溜まって、解くときに中へ落ちるからです。
紐を解きました。
中に、帳面が一冊。厚さは指を三本ぶん。表紙は革ですが、なめしの甘い革で、端が反り返っております。金も箔もありません。宿の帳場に置くには地味すぎて、屋敷に置くには粗すぎるものでした。
紙は、宿帳より厚いものでした。宿帳は毎日開いて毎日書きますので、薄くてめくりやすい紙を使います。この帳面の紙は指に吸いつくほど厚く、めくると硬い音がします。長く持ち歩いて、雨に遭っても字の流れない紙です。
頁の縁は、上のほうだけが黒くなっておりました。同じところを何度も繰った、指の跡です。父はこれを、宿の外へ持って出ておりました。
開いて、最初の行だけを見ました。
父の字でした。
わたくしは、そこで手を止めました。灯の油が残り少なく、あと半刻もしないうちに細くなります。細い灯で父の細かい字を読みますと、目が滑ります。滑ったまま読んだものは、あとで思い出せません。
帳面を膝に置いたまま、しばらく座っておりました。
「読まないんですか」
「明日、日のあるうちに読みます」
「三年待ったのに」
「三年待ったからです」
「灯を持っていきなさい」
「マノンは」
「あたしは暗くても歩けます。四十年、同じ床板の上を歩いてるんですから」
箱の底に、紙が一枚残っておりました。
証文の写しです。父の字で、日付と、額と、貸した相手の名が写してあります。額は、うちの宿が二年かかって稼ぐくらいのものでした。
写しの字は、父にしては丁寧でした。急いで書いた字ではありません。宿帳の父の字は、はねが短くて、行の終わりが少し下がります。この写しは行がまっすぐで、数字のところだけ二度なぞってあります。あとで人に見せるつもりで写した字です。
日付を見ました。
父が亡くなる、半年前です。
その半年前の宿帳を、わたくしは覚えております。秋の荷が例年より多くて、一の間も二の間も埋まって、三の間にまで藁を敷いた月でした。馬方が入りきらずに、厨の床に寝た夜もあります。
借りる年ではありません。
「マノン」
「なんです」
「父は、お金に困っていましたか」
マノンは、鍋を持ったまま少し考えました。
「困ってる人の食べ方じゃありませんでしたよ。困ってる人は、自分の皿から先に減らします。親父さんは、最後まで自分の皿に肉を残しませんでした」
「残さない」
「載せてから、人の皿に移すんです。減らすんじゃなくて、動かすんです。あれは、まだ余裕のある人のやり方です」
わたくしは、紙を箱に戻しました。
帳面も包み直そうとして、指が引っかかりました。
最後の頁が、ありません。
綴じ糸のところに、紙の縁が三分ほど残っております。刃で切ったのではなく、引いて破いた縁でした。破いた者は、糸を切っておりません。糸を切れば帳面がばらけますので、頁だけを抜きたかったのでしょう。
残った縁に、父の字が二文字だけかかっていました。読めるのは、そのうち一字の偏だけです。
「お嬢さん」
マノンが、戸口から言いました。
「明日、客が来ますよ」
「触れがございましたか」
「いいえ。風が変わりました。今夜のうちに峠が閉まります。閉まれば、越えられなかった者がみんな、ここへ下りてきますからね」
マノンが、鼻を鳴らしました。
「……ひとつ、いい匂いのが混じってますよ。石鹸と、花だ。この街道じゃ、めったに嗅がない匂いです」
次話「ヴィオレット様、お泊まりでございます」では、峠を越えられなかった馬車が一台、坂を上がってまいります。
紋には、翼のある魚。この宿で、いちばん泊まりにくいお客様です。




