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白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


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第10話 読めない手紙

 霜が降りました。


 朝のうちに毛布を出して、東の壁へ掛けました。峠に近い土地の霜は、日が回ると一度に融けます。土間へ下りたときには、もう三枚が壁に掛かっておりました。


 「ヴィオレット様は、夜明け前にお発ちになりました」


 「存じております。玄関で、お見送りいたしました」


 マノンが毛布の端を叩きました。埃を落とす叩き方ではありません。霜は布の目の奥まで入りますので、日が回る前に叩いて浮かせておく必要があります。三年前も、この人はこの手つきで叩いておりました。


 「あの娘さん、最後に何か言ってましたね」


 「峠を、お父上が見に来ていらっしゃるそうです」


 「見に来て、どうするんです」


 「存じません」


 わたくしは四枚目の毛布を抱えて、壁の空いているところへ掛けました。掛けてから、端を揃えました。揃えたところで乾き方は変わりません。それでも揃えました。


 薪の話を、しなければなりませんでした。


 石橋の問屋は、昨日で三軒目です。一軒目は値をつけられないと言い、二軒目は在庫が無いと言い、三軒目は主人が出てきませんでした。ベルナール様が街道の問屋筋に何とおっしゃったのかは、聞かずとも分かります。


 「マノン。いまある薪で、何日もちますか」


 「客を入れなければ十日。入れれば四日です」


 「屋根の板は」


 「馬具屋が、分けられる板は無いと言いました。言ってから、目を逸らしました」


 断られたほうが目を逸らすことは、あまりございません。逸らすのは、たいてい断ったほうです。あの店の主人は父の代からの付き合いで、うちの井戸の縄も厩の金具も、ずっとあそこで直していただいております。


 「知っていて、まだ頼みに行くんですか」


 「参ります。断る側にも、断り方の都合がございますので」


 わたくしは帳場に戻って、宿帳を開きました。開いてから、今日書くことが何も無いのに気づいて、閉じました。


 三年前の秋に、わたくしは一通目を書きました。


 屋敷の書斎の勘定を任された晩です。仕入れの綴りを繰っていたら、伯爵家が石橋の問屋から革を買っている行がありました。買っているということは、荷が石橋を通るということです。荷が通るなら、人が通ります。人が通るなら、紙は運べます。


 それから月に一度、書きました。


 書いたのは近況ではありません。宿の指示です。湯屋のこと、井戸のこと、桶のこと。書いて、屋敷を出る荷に紛れさせました。返事は、一度も来ませんでした。


 来ないほうがいいと思っておりました。返事が屋敷に届けば、誰かの目に触れます。触れれば、その先はもう書けません。ですから返事の来ないことを、うまくいっている証拠だと思うことにしました。


 薪のことも、どこかに書いたはずです。三年目までに、と。


 どの月にどう書いたのかは、覚えておりません。三十六回ぶんの晩を、屋敷の細い灯で書きました。書いた紙は、こちらに一枚も残っておりません。


 「お嬢さん」


 マノンが、土間の奥から梯子を引いてきました。


 「何を」


 「梁です」


 わたくしは、天井を見上げました。


 帳場の上を横に渡っている梁が一本、他より黒い。煤ではありません。油です。油紙を巻いたものを長く上げておくと、木がああいう黒み方をします。戻ってきた日にわたくしはそれを見て、見たことを忘れることにしました。訊けば、マノンが答えなければならなくなります。


 マノンが梯子を掛けて、裾を帯に挟みました。


 「あたしが上がります」


 「わたくしが」


 「あんたが落ちたら宿が閉まります。あたしが落ちても閉まりません」


 「マノン」


 「上がりますよ」


 六十二の人が梯子を上がるのを、下から押さえておりました。三段目で一度止まって、それから、また上がりました。この梯子は父が作ったものです。段が七つあって、いちばん上の段だけ少し太い。なぜ上だけ太いのかは、聞かないままになりました。


 上で、乾いた音がしました。


 布の擦れる音ではありません。油紙が木を擦る音です。


 包みが、三つ下りてきました。


 紐の縛り方は荷方のもので、片方を引けば解ける結び方です。一つ目を受け取ったとき、腕が下がりました。思っていたより重い。


 油紙を解きました。


 手紙でした。わたくしの字です。


 マノンが下りてきて、袖で手を払いました。


 「三十六通あります」


 「……数えたのですか」


 「数えるのはできます」


 マノンが、いちばん上の包みを顎で示しました。


 「読めやしませんけどね。あんたの字だってことは、匂いで分かりますよ」


 厨で湯が鳴っておりました。マノンは竈のほうを見て、見ただけで動きませんでした。この人が湯の音を聞いて立たないのを、わたくしは初めて見ました。


 「字が」


 「読めません。六十二年、読めたことはありません」


 「三年、一度も」


 「一度も読んでません」


 宛名は書いておりません。書けば、途中で誰かに読まれたときに困ります。ただ「宿の者へ」とだけ書いて、封をしました。この宿に読める者がいるかどうかを、わたくしは三年、一度も確かめませんでした。


 「では、どうして宿が」


 「厩番の子です」


 「ジャン」


 「あれは字が読めます。親父さんが教えたんでしょう。手紙が来るたび、あの子を厨に座らせて、読ませました」


 「ジャンは、何と」


 「何も言いません。読んで、馬を見に行きます」


 わたくしは、一通目を開きました。


 三年前の秋の字です。いまより右上がりで、行の終わりが下がっています。


  湯屋の火を落とさないでください。竈の灰が白いうちは、火が入っていた証しになります。人が見に来たとき、宿が生きているように見えます。


  井戸は年に二度、浚ってください。秋と、雪解けのあとです。


  二の間の天井が落ちましたら、板を捨てずに厩へ回してください。乾かせば、いつか屋根に戻せます。


 書いたことは、全部この宿にありました。


 湯屋の灰は白くなっておりました。井戸の水は澄んでおりました。落ちた天井板が厩の壁に立てかけてあるのを、わたくしは戻ってきた日に見ております。見て、マノンが片付け忘れたのだと思いました。


 「マノン。桶を替えた銭は」


 「自分の銭です」


 「手紙に、銭のことは書いておりません」


 「書いてありませんでしたね。あの子が、そう読みました」


 「では、なぜ」


 「替えろと書いてあったからです」


 二通目を開きました。三通目も開きました。どれにも、最後に一行だけ、宿のことでない行がありました。


  マノンは、ちゃんと食べていますか。


 「これは」


 「毎回ありましたね。あの子が読むたび、いらんと言いました」


 「……いらん、と」


 「いらんですよ。人に食べたか訊く前に、自分が食べなさい」


 マノンがわたくしの膝から束を取り上げて、すぐに戻しました。戻すときに、いちばん上の一通の角を、指で揃えました。


 三つ目の包みだけ、結び目が硬くなっておりました。


 解いて、中を見ました。封が切ってありません。


 「そちらは去年のぶんです」


 「開いていません」


 「あの子が、去年の冬から春まで来なかったんです。親父さんの代わりに馬を追って、峠の向こうにいました」


 「宿場に、読める方は」


 「頼めば読めます。頼めば、中身が宿場に残ります」


 「あんたの字を、あたしの一存で人に渡すわけにはいきません」


 封蝋は屋敷の厨にあった安い蜜蝋で、三年経つと爪で割れます。割れた蝋を膝に落としながら、十二通を順に開きました。


 九通目に、それがありました。


  三年目の秋までに、峠の下手の馬方へ薪を頼んでおいてください。冬の薪は秋のうちなら安く、雪が来てからでは倍になります。石橋の問屋ではなく、峠の下手です。あの人たちは父に借りがあります。銭は宿が開いてから払うと言えば、通ります。


 わたくしの字でした。


 紙を持っている指の先が、少し湿っておりました。息が近すぎたのだと思います。紙を膝から離して、袖で目のふちを押さえてから、もう一度、同じ行を読みました。


 「マノン。ジャンを、呼んでいただけますか」


 ジャンが土間に立ちました。背が伸びております。三年前は、わたくしの肩までしかありませんでした。


 「ジャン。手紙を読んでくれたそうですね」


 「……はい」


 「峠の下手の馬方に、薪を頼みに行けますか」


 ジャンが、うなずきました。


 「今日のうちに」


 もう一度うなずいて、それから、初めて口を開きました。


 「馬は、脚を見てから出します」


 「お願いします」


 ジャンが出ていったあと、マノンが鍋を火にかけて、こちらを見ずに言いました。


 「三十六通、無駄になりませんでしたね」


 「はい」


 「あたしは一通も読んでません」


 「はい」


 「それでも、書いてあったとおりになりましたよ」


 わたくしは束を油紙に戻して、三つとも荷方の結び方で縛り直しました。梁に上げるのはやめて、帳場の引き出しに入れました。


 戸口から、坂の下を見ました。


 宿場の通りの向こうに、西街道が細く伸びております。日の残りを受けているところだけが白くて、あとはもう暗い。


 あの道のどこかに、薪があります。三年前のわたくしが頼んでおいたはずの薪です。頼まれたほうが、覚えていれば。

 次話「屋根が上がる日」では、坂を上がってくるのが荷車一台では済みません。


 薪を運んできた人たちが、そのまま梯子に上ります。

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