第11話 屋根が上がる日
車輪の音で目が覚めました。
まだ暗いうちです。坂の下から上がってくる音が、一台ではありません。荷を積んだ車は空の車より遅く、輪の間が長く鳴ります。数えたら、四台でした。
土間へ下りると、マノンがもう戸を開けておりました。
「お嬢さん。薪です」
「……四台」
「六台ですよ。二台は馬だけで来ました」
外へ出ました。
割った薪が積んでありました。
割ってから、一冬は乾かしたものです。乾いた薪は木口が灰色になって、二本を打ち合わせると高い音がします。湿ったものは鈍く応えるだけです。燃やせば煙が出て、客間の壁を汚します。二本取って、打ち合わせてみました。高い音でした。
積み方も、投げ積みではありません。木口を外へ向けて、風の抜ける向きに積んであります。うちの父が馬方に教えたのと同じ積み方でした。
「どなたの薪でございますか」
先頭の男が、荷の縄を解きながら答えました。
「うちのだ」
「お売りいただけるのでしたら、ありがたいのですが」
「売りに来たんじゃない」
男が縄を肩に掛けました。右の耳が半分欠けています。冬に凍らせた耳です。
「あんたを乗せたのは、先月だったか」
「はい。代金を受け取っていただけませんでした」
「今日も受け取らん」
「それでは、こちらが困ります」
「厩番の子が来た。三年前にラフォンさんとこの娘さんが薪を頼んでいったと言う。頼まれた覚えは無いと言ったら、あの子が紙を出した」
「……ジャンが」
「あんたの字だと言われても、こっちは読めん。だが、うちの薪の置き場と、去年割った量と、雪の来る前に運べと、そこまで読み上げられちゃあ、知らん顔はできんよ」
「石橋の問屋には、参りました」
「知ってる。三軒とも断ったろう」
「はい」
「あそこの主人は伯爵様に革を売ってる。売る先には逆らえん。逆らえんが、うちは薪を売っちゃいない。自分の家の分だ。自分の家の薪を誰にやろうと、問屋には関わりが無い」
「ご迷惑が、かかりませんか」
「かかる。だから夜のうちに出た」
男はそれだけ言って、荷を下ろしました。
馬の背に振り分けてきた荷は、薪ではありませんでした。縄と、鎚と、古い釘を集めた箱です。釘は錆びていましたが、頭が潰れていません。頭さえ生きていれば、抜いて、叩いて、もう一度打てます。
厩の壁に、板が立てかけてあります。二の間から落ちた天井板です。三年、そこで乾いておりました。
「マノン。あの板を出します」
「屋根に戻すんですか。落ちた板ですよ」
「落ちたのは板ではなく、板を留めていた釘です。板そのものは、まだ生きております」
「あんた、そういうところは親父さんですねえ」
男たちが屋根に上がりました。
この宿の屋根は、こけら葺きです。薄い板を鱗のように重ねて、上の段が下の段の三分の一を隠すように置きます。隠しが浅いと雨が回り、深いと板が足りません。峠の風が下から吹き上げる土地ですので、父は隠しを深めに取っておりました。深いぶん、板がたくさん要ります。
足りないところは藁で葺きます。藁は雪に弱いのですが、こけらの上から押さえに使うぶんには、よく効きます。
縄は湿らせてから使います。乾いた縄で締めると、雨に濡れて伸びます。湿らせて締めておけば、乾いたときに締まります。父がそう言っておりましたので、井戸の水を桶に張って、縄を沈めておきました。
わたくしは下で板を渡す役でした。
板は一枚ずつ、木口を上にして渡します。抱えて渡すと、受け取る側が持ち替えねばならず、持ち替えるたびに手が滑ります。落とした者は、そのあと下を見ながら仕事をします。屋根の上で下を見る者は、役に立ちません。
朝のうちに二十枚、日が高くなるまでにもう三十枚を上げました。
昼を過ぎて、坂の下から馬が一頭上がってきました。
ユーグ・ドルレアン様です。
「お仕事の途中でございますか」
「そうだ」
屋根の上の一人が、下を見て、縄を持つ手を止めました。
「……街道局の旦那か」
「検分ではない。通りがかりだ」
「三年前の冬に、峠の下で凍えかけてた若いのがいた。うちの兄が橇に乗せて、この宿まで運んだ。あんた、あのときの」
ユーグ様は答えませんでした。答えずに外套を脱いで、梯子に手を掛けました。
「上がる。押さえていろ」
梯子を押さえました。
この方は、上りながら一段ごとに指で桟を叩いて確かめていらっしゃいます。街道の橋を検分する人の癖だと、あとで馬方に聞きました。落ちる橋は、渡る前に音が変わるのだそうです。上りきったところで屋根板の重ねを一度だけ見て、それから、何も言わずに縄を受け取りました。
人数を数えました。
屋根に六人、下に四人、厩にジャン。粥の椀が足りません。
「マノン。椀は」
「十一。ちょうどです」
「わたくしたちの分は」
「あとで鍋から食べます。あんたも食べるんですよ」
「はい」
「返事だけは早いんですから」
粥は塩を強めにしました。屋根の上は、下にいるより風が当たります。当たったまま半日いて、下りてから飯を食べると、たいてい足がつります。
椀を配る順は、屋根の上の者を後にしました。先に配ると、下りてこないからです。屋根の上で食べる者はそのまま日暮れまで上にいて、暗くなってから足を踏み外します。父はそれを、飯は下ろすためのものだ、と言っておりました。
十一人が土間と厨に座って、椀を持ちました。屋根を葺いた男たちが同じ格好で粥を吹いているのを、わたくしは帳場の前に立って見ておりました。
日が傾いたころ、坂の下に馬車が停まりました。
ベルナール様でした。降りていらっしゃいません。窓から屋根を見上げていらっしゃいます。屋根の上では、まだ縄の音がしております。
「イレーヌ」
「ご無沙汰いたしております」
「その板は、誰の板だ」
「この宿のものでございます」
「三年前まで、この宿はうちのものだった」
「三年前まで、でございます」
義父上が、窓の縁を指で叩かれました。
「屋根を上げたところで、客が来なければ同じことだ。革も薪も、この街道の問屋はうちが握っておる」
「はい」
「冬は長いぞ」
「長うございます。ですから、屋根を上げております」
義父上は、しばらく屋根をご覧になっていました。
わたくしは、この方が値段の話をなさらないことに気づきました。買い戻すとも、いくらでとも、今日はおっしゃいません。この方が値段を言わないのは、そのものを買う気が無いときです。
「イレーヌ。峠に、宿を建てる」
「……はい」
「峠の上に宿があれば、誰もこんな坂を上がらん。街道もそちらへ寄せればいい。金を出す者がおる」
「さようでございますか」
「言っておくが、値をつけろとは言っておらん。いまのうちに返せと言っておるのだ」
馬車が坂を下りていきました。
轍が一本、通りの泥に残りました。義父上の馬車は輪の幅が広く、この宿場の荷車とは跡が違います。冬になれば、その跡だけが凍って残ります。
わたくしはしばらくそれを見ておりましたが、そのうち屋根の上から縄を投げろと言われましたので、投げました。投げるときは、束のまま放りません。端を持って輪を作り、下から上へ送ります。
夕方の光がいちばん低くなったころ、屋根の上で音が止まりました。
最後の一枚が入ったのは、外からでは分かりません。中に入って見上げれば分かります。
二の間の天井が、暗くなっておりました。
三年ぶりに、空が見えなくなっています。
「マノン。二の間が」
「見えてます」
マノンは天井を見上げたまま、鼻を鳴らしました。
「今夜のは、藁と、松脂の匂いですねえ」
男たちは、日が落ちる前に坂を下りていきました。泊まっていってくださいと申し上げましたが、誰も泊まりません。夜のうちに帰らねば、明日、自分の家の仕事にならないそうです。
薪の代金は、受け取っていただけませんでした。代わりに、宿帳へ名前を書いていただきました。
名前を書けば客です。泊まらずとも湯を使わずとも、宿帳に行が増えれば、この宿はその日開いていたことになります。父の書式ですから、顔と匂いの欄も埋めました。右の耳が半分欠けた方。薪の樹脂と、馬の汗。書きながら六人ぶんの顔を思い出すのに、一度も手が止まりませんでした。
残ったのは、一人だけでした。
「部屋はあるか」
「ございます。一の間へどうぞ。……薪は、多めにお入れしておきます」
ユーグ様が宿帳に手を伸ばして、名前の欄に字を書きました。書いてから、こちらを見ずにおっしゃいました。
「明日から雪だ。峠は、明後日には閉じる」
「はい」
「屋根は、間に合った」
その夜、初めの雪が降りました。
厩を見に行くと、ジャンが藁を足しておりました。
「ジャン。今日は、ありがとうございました」
ジャンは馬の脚を見たまま、少しだけ首を動かしました。それから、外の方を指しました。
指の先は、屋根ではありません。峠です。
峠の上に、灯が二つ見えました。この時季、あの高さに人はいないはずでした。
次話「雪の夜の話」では、雪で峠が閉じた宿に、客が一人だけ残ります。
三年前の冬にも、この宿には名前を書かずに泊まった客がおりました。




