第12話 雪の夜の話
雪の夜は、音が減ります。
風は同じだけ吹いているのに、雪がその音を吸います。ですから雪の晩の宿では、外より内側の音のほうが大きく聞こえます。竈で薪の割れる音、湯屋の湯が桶に当たる音、葺いたばかりの屋根が落ち着くときの、細い軋み。
雪が積もり始めた晩は、宿の者にすることが増えます。
まず、戸の下の隙間に古布を詰めます。次に、湯屋の火を落とさずに熾のまま残します。峠が閉じる前後は、真夜中に人が下りてくることがあるからです。下りてきた人は、たいてい何も言えません。ですから、玄関の灯だけは細くして点けたままにしておきます。
わたくしは帳場に座って、宿帳を書いておりました。
十の月の四日 街道局 ドルレアン様 一名 一の間 湯・食事あり
顔:眉の上に古い傷。左。
匂い:雪と、鉄。
書いてから、手が止まりました。
同じことを、前にも書いた覚えがありました。書いたのはわたくしではありません。
古い宿帳を出して、三年前の冬の頁を繰りました。父の字です。十一の月の終わりに、名前の欄が空いたままの行が一つありました。
名:記さず 一名 一の間 湯
顔:眉の上に古い傷。左。
匂い:雪と、鉄。
代金の欄には、何も書いてありません。
父は代金を取れなかった客の欄を空にはしませんでした。取れなければ「掛け」と書き、はじめから取らなかったのなら「宿より」と書きます。空のまま残っている行を、わたくしはこの帳面で二つしか知りません。一つは十年前に雪崩で荷を失った巡礼の一行です。もう一つが、この行でした。
「お嬢さん」
マノンが厨から出てきました。手拭きで手を拭いております。
「あの人、湯から上がりました」
「ありがとうございます」
「あたしは寝ます。六十二の膝で梯子を上がった翌日ですから、寝ます」
「お疲れさまでございました」
「イレーヌお嬢さん」
「はい」
「宿帳は、明日でも書けますよ」
マノンが厨の奥へ引っ込みました。
わたくしは古い宿帳を開いたまま、卓の上に置きました。
ユーグ様が土間へ下りてこられたのは、それからすぐです。髪が濡れています。湯屋から戻った方は、たいてい竈の前に座ります。この宿の石の床は、履物ごしでも冷えるからです。
「薪を、お足しします」
「いい。座れ」
わたくしは竈の前の低い椅子に座って、膝の上で両手を重ねました。
宿の者は客の前では座りません。座れば、客が話しかけてよいことになります。話しかけてよいことになると、客は宿の者に自分の身の上を話し始めて、翌朝それを話したことを後悔しながら発ちます。父はそれを嫌いました。ですから、椅子を勧められて座ったのは、三年ぶりのことでした。
「三年前の冬に、一度だけ泊まった」
わたくしは頁を押さえていた指を、そのままにしておりました。動かせば、この方が話すのをやめるように思われたからです。
「名乗らずに出た」
「宿帳に、そう書いてございます」
ユーグ様が卓の上の頁を見ました。しばらく見てから、指で端を押さえました。
「……代金の欄が、空だ」
「父の字です」
「置いていったはずだ。銀貨を一枚、この卓に」
「置いていかれたのだと思います。父は、それを代金として書かなかったのだと思います」
「なぜだ」
「存じません。父には、もう訊けませんので」
ユーグ様は、それきり黙りました。
黙っているあいだ、竈のほうを見ていらっしゃいます。無愛想なのではなく、この方は言葉を選ぶのに時間がかかるだけなのだと、そのとき分かりました。
「私は当時、街道局の者ではなかった」
街道局の検分官の外套には、襟に銅の留め具が付きます。三年前の頁に、その留め具のことは書いてありません。父は書けるものを何でも書く人でした。書いていないということは、その晩のこの方が、まだ何者でもなかったということです。
「石を積む職人のところにいた。道の測りを手伝っていた。冬に峠を越えれば日数が稼げると言われて、越えようとした」
「峠は、そういう山でございます」
「甘く見た。雪ではなく風だった。膝から下の感覚が無くなって、それから道が分からなくなった」
「気がついたら橇の上にいた」
「馬方の方が」
「兄弟だそうだ。今日、屋根に上がっていたほうが弟だと聞いた」
わたくしは麦湯を注いで、椀を卓に置きました。
注ぎ口を先に温めておくと、湯が落ちる音が変わります。冷たい器に落ちる湯は高い音を立て、温めた器に落ちる湯は低く鳴ります。父はその音で、客がどれだけ待たされているかを厨から聞き分けておりました。今夜の音は、低いほうでした。
「ここへ運ばれて、湯に入れられた。入るな、と言われた」
「……入るな、と」
「凍えた者を熱い湯に入れると死ぬ。あんたの父上はそう言った。桶の湯に手だけ入れさせて、あとは毛布を三枚重ねて、竈の前に寝かせた。夜のうちに、誰かが何度も薪を足していた」
「父でございます」
「そうだろうな」
凍えた足を熱い湯につけると、心の臓が持ちません。手のさきだけ温めて、あとは外から布で包み、時をかけて戻す。父がそう教えてくれたのは、わたくしが十かそこらのころです。教えられたときは、そんな客が来るものかと思っておりました。
その客が、いま、竈の前に座っています。
「朝に、銀貨を置いて出た。名乗らなかったのは、名乗るほどの者ではなかったからだ」
「父は、何か申しましたか」
「戸口で一つだけ言われた」
ユーグ様が、火を見たままおっしゃいました。
「宿は、通る人のためにあるので、泊まる人のためにあるのではない、と」
わたくしは、卓に置いていた手を膝に下ろしました。
その言葉を、わたくしは何度も聞いております。厨で、厩で、雪かきの途中で。意味を訊いたことはありません。訊かなくても、父が毎朝、泊まってもいない人のために坂の雪を除けているのを見ておりましたから。
「その年に、街道局に入られたのですか」
「入った。道を測る側から、道を通す側に変わっただけだ。それ以上の意味は無い」
薪が、一本崩れました。
わたくしは火箸を取って、直しました。奥へ押し込むと煙が回りますので、手前に少し引いて、下の熾に空気の道を作ります。燃えている面を上に向けて、真下へ灰を寄せる。直してから、椅子に戻りました。
ユーグ様が、こちらを見ていらっしゃいました。
「父上と同じ手つきだ」
「……さようでございますか」
「良い宿だ。人が通るように出来ている」
わたくしは、竈の中の薪を数えました。
五本。うち三本は、もう半分燃えています。燃えているものを数えても、今夜の客の数は分かりません。それでも数えました。
「言っておくが」
「はい」
「私は職務でここにいる。それ以上の意味は無い」
「存じております」
「……そう即座に言われると、少し困る」
ユーグ様が、外套の内から折った紙を出して、卓に置かれました。紙の折り目に、雪の湿りが残っています。
「街道局に、願い出が来ている」
願い出、という言い方をなさいました。願い出は、出した者の名の付いた書きものです。噂ではありません。
「峠の上に宿を建てたいという願い出だ。街道の道筋を、そちらへ寄せる話がついている」
わたくしは、紙を見ました。開いてはおりません。開いてよいとは、言われておりません。
「お出しになったのは、どなたでございますか」
「言えん。検分が済むまでは」
「では、伺いません」
「……検分が済めば、言う」
つい先ほど、峠の上に灯が二つ見えました。この時季、あの高さに人はおりません。人がいるとすれば、雪の来る前に何かを測っておきたい人です。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「言ってみろ」
「峠の上に宿が建ちましたら、この宿は、どうなりますか」
ユーグ様は、すぐには答えませんでした。
答えないのは、答えを持っている人のやり方です。持っていない人は、分からないと言えます。
「街道が付け替われば、ここは街道から外れる」
「外れましたら」
「宿ではなくなる。坂の上の、ただの建物だ」
竈で、薪がもう一度鳴りました。
わたくしは立ち上がって、一の間へ毛布を出しに行きました。雪の晩は、上に着せるより下に敷いたほうが暖かく寝られます。床のほうが冷えるからだと、父が申しておりました。
寝台に二枚を敷いて、一枚を上に置きました。
敷くほうの二枚は、毛の目を上へ向けます。上へ向ければ、体温が布の中に溜まります。掛けるほうの一枚は、逆に目を下へ向けます。この順を父から教わったとき、なぜ二枚と一枚なのかを訊きました。三枚を上に掛けても人は温まらない、と父は答えました。下から冷えるからだ、と。
板戸の隙間を確かめて、灯を細くしました。
「ドルレアン様」
「なんだ」
「毛布は、三枚にしてございます」
三年前の雪の夜と同じ枚数でございます、と申し上げようかと思って、やめました。
次話「離婚が、成立しました」では、教会の帳面に線が一本引かれます。
同じ日に、婚礼の日取りが決まります。婚礼の客がどこに泊まるのかは、まだ誰も考えておりません。




