第13話 離婚が、成立しました
霜の月の一日は、風のない朝でした。
夜明け前に厨へ下りて粥を仕掛けました。昨夜の客は馬方が四人です。四人とも明るくなる前に発ちますので、椀は土間の卓に出しておきます。厨で待たせると、その分だけ峠に取りつくのが遅れます。
厩も見に行きました。ジャンが、四頭に藁を足しております。夜のうちに霜が降りて、蹄の縁に薄い氷が付いておりました。氷は搔き落とさずに、藁を厚くして待ちます。無理に落とすと、割れているところまで一緒に持っていかれるからです。
一人が椀を返しにきて、わたくしの顔を見ました。
「今日だってな」
「はい」
「……粥、うまかった」
それだけ言って出ていきました。この宿場では、こういう言い方で人を送ります。父の代からそうでした。
四人が出たあとの土間には、藁の屑と、溶けかけた霜の足跡が残ります。掃いてから水を撒くと、夕方までに土が締まって、次の客の足がすべりません。
外套を着ていると、マノンが襟の後ろを引きました。
「曲がってます」
「ありがとうございます」
マノンは、わたくしの肩を裏返すように見ました。
「前掛けの紐の跡が、肩に残ってますよ」
「客商売の跡でございますので」
マノンは鼻を鳴らして、乾いたパンを布に包み、わたくしの手に押しつけました。
「食べてから行きなさい」
「戻ってから——」
「食べてから行きなさい」
二度言うときのこの人には勝てません。わたくしは戸口の外で半分だけ食べて、残りを袂に入れました。
教会は宿場の東のはずれにあります。歩いて四半刻ほどです。
道の霜は、まだ溶けておりませんでした。馬具屋の前には、新しい藁が積んであります。冬に馬を預かる支度です。パン屋の煙突からは、もう二度目の煙が上がっておりました。一度目は自分の家の分で、二度目からがよそに売る分になります。
この宿場の朝は、どこも同じ順番で始まります。順番が狂う日は、たいてい街道の方に何かが起きた日です。
教会の裏に、小部屋がありました。
卓が一つと、椅子が四つ。火の気はありません。石の壁で、朝のうちは息が白くなります。ベルナール様とロラン様が、すでに座っておいででした。
「お待たせいたしました」
どなたも返事をなさいませんでした。
書記の方が、綴りを開かれました。年配の、袖口の擦り切れた方です。指が二本、墨で黒くなっております。書付を繰る方の指は、右の親指の腹から先に汚れます。
「サンドラール家ロラン殿。ラフォン家イレーヌ殿。婚姻の実の無きこと、双方に相違ございませんな」
「ない」
「ございません」
「三年のあいだ、一度も」
「一度もございません」
書記の方は顔を上げずに、筆を動かされました。三年かけて確かめずに済むことを、この方は、二行で書き取ります。
「では、こちらへ」
筆を渡されました。
わたくしはイレーヌ・ラフォンと書きました。ラフォンの字を書くのは三年ぶりでしたので、ンの跳ねが少し長くなりました。書き直しはいたしません。書いたものを消すと、あとから見た人が読み方に迷います。
「本日をもちまして、この婚姻は、はじめから無かったものといたします」
ロラン様が、わずかに息を吐かれました。
ベルナール様が卓に手を置かれました。
「では、宿の話をしよう」
卓の上で、この方の指が組まれました。爪は今日も短く整えられております。
「買い戻す」
「値をつけていただけますか」
「値をつけろとは言っておらん。返せと言っておる」
書記の方が、筆を置かれました。
「サンドラール伯爵。本日の書付は、婚姻についてのものでございます」
「知っておる」
「持参財のご返還は、先の春に済んでおります。これより先のお申し立ては、代官所でお願いいたします」
「代官所で通ると思うか」
「通るかどうかは、代官所がお決めになります」
ベルナール様は、書記の方をご覧になりませんでした。
この方が金額と所有の話しかなさらないのは、そのほかの話し方をご存じないからだと思います。値のつかないものが卓に載ると、この方には言葉が無くなります。
書記の方が、綴りをめくられました。
「続けて、もう一件お預かりしております。サンドラール家ロラン殿、ダンジュ家ヴィオレット殿。婚儀の届けでございます」
書付を繰る音が、二度しました。
「日取りは、霜の月の八日。ダンジュ男爵家にて」
わたくしは、両手を膝の上で重ねました。
八日。今日から数えて、七日後です。
石の床から、足首の順に体温が抜けていきます。こういう部屋では、人は自分の手を握るか、卓の木目を見るかのどちらかをします。
「触れは出したか」
「出しました。客は四十一名です」
ロラン様がそう答えて、それから口を閉じられました。
閉じてから、もう一度お開きになりました。
「父上。客の宿は、どうなさいますか」
部屋が、そこで止まりました。
書記の方は筆を持ったままです。ベルナール様は卓の木目をご覧になっています。ロラン様は父上の返事を待っておいでです。
この小部屋にいる四人のうち、その問いに答えられる者は、一人しかおりません。
わたくしは背を伸ばして、いつも帳場で出している声を出しました。
「石橋でお泊まりになれますのは、馬具屋さんの二階が六名様まででございます」
ベルナール様が、顔を上げられました。
三年のあいだ、この方がわたくしの顔をまっすぐご覧になったのは、たぶん二度目です。一度目は、証文を持っていらした日でした。
「……あとは」
「うちでございます」
書記の方が、綴りに日付を書き入れながらおっしゃいました。
「霜の月の八日でしたら、荷車はもう越えられませんな。先月の末で、峠の荷は終わっております」
「馬は通る」
「馬と、人は通ります。輿も、担ぎ手が揃えば」
ベルナール様が立ち上がられました。
「馬具屋の二階を、六つ取れ」
「残りは」
ロラン様が言い終わらないうちに、ベルナール様は戸を開けて出ていかれました。戸は、閉められませんでした。書記の方が立って、それを閉めに行かれました。
わたくしは頭を下げて、あとから外へ出ました。
教会の石段のところで、ロラン様が待っておいででした。外套の裾に、霜の溶けた跡が二つ付いております。この方は、雪の日にどこを歩けば裾が濡れないかをご存じありません。屋敷では、そういうことを覚える必要がありませんでした。
「君に、頼みがある」
「宿のことでしたら、宿でお伺いいたします」
「そうではない。……いや、そうだ」
この方は、ご自分が何を頼もうとしているのかを、まだお決めになっていませんでした。
「君は、怒っていないのか」
「本日は、書付のことだけを伺いに参りました」
「三年だぞ」
「三年でございました」
わたくしは頭を下げて、坂の方へ歩きました。振り返りませんでした。宿の者が客の顔を長く見ると、その顔は宿のものになります。
坂を上がると、うちの煙突の煙が見えます。今朝の煙は細めでした。厨の火を落として、湯屋の方に薪を回しているからです。
土間に入ると、マノンが豆を選っておりました。
「終わりました」
「そうですか」
「終わりました」
「二度言いましたよ」
わたくしは前掛けをつけて、桶に湯を張りました。二の間の床を拭く湯です。手を動かしていないと、指が数を数え始めます。
布巾を絞ってから、厨の方へ声をかけました。
「霜の月の八日に、婚礼だそうです。峠の向こうの、ダンジュ様のお屋敷で」
マノンが、豆から手を離しました。
「……客は」
「四十一名と伺いました」
「その四十一人は、どこから来るんです」
「王都と、こちら側からでございます」
マノンが、天井の梁を見上げました。それから、指を折り始めました。
「越える前の晩は」
わたくしは、桶に湯を足しました。湯気が上がって、窓の内側が白くなります。
「馬具屋さんの二階が、六名様まで」
マノンが、豆の器を置きました。器の底が卓に当たって、乾いた音がしました。
「北の古い道は」
「輿が通りません。婚礼の荷も無理でございます」
「越えてから、向こう側に泊まれる宿は」
「峠を下りきるまで、ございません」
この宿場に泊まる人は、宿場を選んで来るのではありません。峠がそこにあるから、道がそこを通ります。道がそこを通るから、日の暮れる場所がここになります。父はそれを、自慢するようなことではないと申しておりました。
わたくしは帳場へ行って、宿帳を出しました。
新しい頁を開いて、日付を書きます。
四十一名。馬はおそらく、それより多くなります。輿の担ぎ手と、衣装の荷を負う者が別に付きますので、厩に入る頭数は五十を超えるかもしれません。飼葉は三日分を前もって積んでおきます。湯は四度に分けて、最後の組にぬるい湯を使わせないよう、途中で二度沸かし直します。
霜の月の七日 婚礼の御一行 四十一名 一の間・二の間・三の間
書いてから、その下を見ました。空いております。
「マノン」
「はい」
「うちの客間は、いくつでございましたか」
「三つですよ」
「三つでございます」
次話「峠に、宿を建てます」では、ヴィオレット様の父君が地図を持って坂を上がってきます。
男爵は食堂の卓に地図を広げて、峠に宿を建てる話を始めます。この宿の主が誰であるかは、最後まで聞きません。




