第14話 峠に、宿を建てます
霜の月の三日に、伯爵家の先触れが参りました。
馬に乗った若い方が一人で、坂を上がってきて、馬から下りずに用件を言われました。婚礼の前夜に三十五名、こちらへ泊める。荷は別に届ける。以上、というお話です。
「承りました。お発ちは何刻でございましょう」
「夜明けだ」
「では、朝の膳は五度に分けてお出しいたします。三十五名様を一度に召し上がっていただくと、最後の組の出立が一刻遅れます」
若い方は少し黙ってから、うなずいて馬の首を返されました。
伯爵家の触れは、いつも人数だけで届きます。どなたが年寄りで、どなたが子どもで、どなたが魚を召し上がらないかは書いてありません。屋敷におりました三年のあいだ、それを書き足していたのはわたくしでした。
わたくしは土間に戻って、藁の束を数えました。三十五名。馬具屋さんの二階に六名。合わせて四十一名です。
「三十五人」
マノンが、厨から顔を出しました。
「入りますか」
「入れます」
「客間は三つですよ」
「客間に入れるのは、十四名でございます。あとは食堂の床と、厨の隣と、厩の上の物置になります」
「あたしの部屋は」
「お使いください」
「あんたの部屋は」
わたくしは、藁の束をもう一度数え直しました。
昼を過ぎた頃、坂の下に馬が四頭見えました。
乗っているのは五人です。一頭に二人乗っている組がありました。二人乗りで山道を来る人は、たいてい急いでいるか、馬の数を勘定に入れずに出てきた人です。
先頭の方が、宿の前で馬を下りられました。
外套が新しい。長靴も新しい。裾に泥が一つも付いておりません。石橋から坂を上がって、靴に泥が付かない歩き方というものはありません。馬から下りたのが今というだけです。
「亭主はどこだ」
「わたくしが主でございます」
その方は、わたくしの右の後ろを見ました。
厩の戸口にジャンが立っておりました。十五になる子です。喋りません。
「おい。中を借りるぞ。卓の大きいのがあるだろう」
ジャンが、首を横に振りました。
「なんだ、聞こえんのか」
「食堂の卓が、いちばん大きうございます。ご案内いたします」
その方は、わたくしの声のした方へは向き直られませんでした。ただ、ご自分で戸を開けて中へ入っていかれました。連れの四人が、丸めた紙の筒と、木の杖のようなものを抱えて続きます。
厨の入口で、マノンが鼻から息を吸いました。
「……あの匂いだ」
「どちらの」
「墨と、新しい紙と、履いたことのない長靴ですねえ」
「はい」
「山を歩いたことのない人が、山の話をしに来た匂いですよ」
食堂の卓の上には、宿帳が出してありました。
その方は、宿帳を手の甲で端まで押しやって、そこに紙を広げられました。
地図でした。
わたくしは宿帳を取り上げて、帳場に戻しました。それから湯を五つ運んで、地図の四隅を押さえている湯呑みの下に、布を一枚ずつ敷きました。塗りのない卓は、水の輪が付くと乾いても残ります。地図の紙も、底の濡れた器を載せると縁から波を打ちます。
どなたも、気づかれませんでした。
宿では、気づかれない仕事のほうが多うございます。気づかれたときには、その仕事はもうどこかで遅れております。
「ここが峠だ」
その方の指が、紙の白いところを叩きました。
「南に平場がある。おまえたちが茅を刈っているあたりだ。ここに宿を建てる。二十人は泊まれるものを建てる」
連れの一人が、杖の先で紙をなぞりました。
「道は、ここからこちらへ寄せます。石橋の坂を登らずに済みますので、荷車で半日縮まります」
「半日だ。半日縮む道と、半日余計にかかる道と、荷方はどちらを通る」
誰も答えませんでした。答えを求めていらっしゃらないからです。
わたくしは湯を足しに一度厨へ戻り、それから、また食堂に立ちました。
紙の上の峠は、上から見た形をしております。実際の峠は、上から見ることができません。
その方の指が、南の平場のあたりで止まっておりました。
わたくしの手も、そこで止まりました。
父と一度だけ、あの斜面を登ったことがあります。何をしに行ったのかは、その日は教えてもらえませんでした。
「金はこちらで出す。人と荷は伯爵が出す。石は峠のものを使う」
「木は」
「南の斜面のものを伐る。ちょうど平場の裏だ」
「街道局は」
その方が、初めて笑われました。
「婚礼の日に、四十一人が峠を越える。越える者は皆、あの平場の下を通る。通ったあとで、みなが同じことを言うようになる。ここに宿があればいい、と」
「それは、そうなりますな」
「検分官さえ首を縦に振れば、来年の春に杭を打つ」
わたくしは、湯呑みの一つに湯を足しました。
空になっているのは、いちばん奥の方の器だけです。この方は話しながら飲まれません。話し終えてから、一息に飲まれます。宿では、そういう客の湯は最後に足します。
「ところで」
その方が、地図から顔を上げられました。
「この宿は、誰のものだったかね」
「イレーヌ・ラフォンと申します。わたくしのものでございます」
「うむ」
それだけでした。
その方はもう一度地図を見て、指で二か所を叩いて、それから紙を巻き始められました。巻きながら、連れの方に何かおっしゃっています。杭の値と、石を運ぶ人足の数の話です。
わたくしは戸口へ出て、西の空を見ました。
稜線の上に、灰色の帯が横に伸びております。あの帯が出た日の午後は、峠の風が変わります。
「お発ちは、これからでございますか」
「平場まで登る。日のあるうちに戻る」
「今からお登りになりますと、お戻りは日が落ちてからになります」
返事はありませんでした。
「それと、二人乗りをなさっていた葦毛のお馬でございますが、右の後ろの蹄が欠けております。厩で油を塗らせていただけますか」
「いらん」
連れの方々が、次々に馬へ戻っていかれます。
最後に、その方が鞍の上からおっしゃいました。
「亭主に伝えておけ。ここは、二年もすれば街道ではなくなる」
馬が四頭、坂を上がっていきました。
葦毛だけが、後ろの脚を一足ごとに浮かせております。ああいう上がり方をする馬は、下りで潰れます。上りは痛い脚でも耐えますが、下りは重さが全部そこに乗るからです。
わたくしは食堂に戻って、湯呑みを下げました。
布を外すと、卓の木の上に輪が一つ残っておりました。布を敷き忘れた器が一つあったようです。冷たいものの跡は拭けば消えますが、熱いものの跡はしばらく残ります。
日が落ちてから、ジャンが土間へ駆け込んできました。
右手を上げて、指を四本立てて、それを坂の上の方へ向けます。それから、その手を止めました。
「坂の途中で、止まっていらっしゃいますか」
うなずきました。
「馬が」
ジャンが、自分の右の踵を叩きました。
半刻ほどして、連れの方が一人だけ坂を下りてこられました。息が上がっておいでです。
「灯を。それと、油があれば分けてほしい」
「ございます」
「……いくらだ」
「灯が二つで銀貨の八分の一、油は樽から取り分けますので、二十でございます」
その方は懐を探って、銭を数えて置かれました。数え終わってから、少し早口になりました。
「男爵にはあとで払わせる。私が立て替えたことは、言わないでもらいたい」
「承知いたしました。宿帳には、お名前は書きません」
「……助かる」
「峠の道は、平場の下で二度曲がります。二度目の曲がりを過ぎたら、内側に寄って下りてください。外側の縁は、この時期はもう凍んでおります」
その方は灯を受け取って、坂を上がっていかれました。
その晩、あの方々は宿場の馬具屋さんの二階に泊まられました。二階は六名までです。五人ですので、ちょうど入られたと思います。
厨で膳を片づけながら、マノンが言いました。
「二十人泊まれる宿だそうですね」
「はい」
「水は」
「平場の上に、湧いているところがございます」
マノンが、鍋を持つ手を止めました。
「……あるんですか」
「ございます」
「じゃあ、建つじゃありませんか」
「建ちます」
湧き水のあるところに人が寄って、寄ったところに道が付きます。それを最初にしたのが、この宿場でした。宿場は、誰かが選んで作ったものではありません。水と、日の暮れる場所が、勝手に決めたものです。
「二年ですって」
「二年と、おっしゃいました」
「二年で、道が動くもんですか」
「動かす、とおっしゃいました」
「あの人、宿を建てるんでしょう」
「はい」
「宿を建てる人が、うちの湯呑みを卓に直に置いていきましたよ」
わたくしは灯を一つ落として、戸口から街道を見ました。
道は、いままでどおりの場所にあります。峠に向かって、まっすぐに。
その道の上に、この宿が建っております。道が動いたとき、宿は、ついていくことができません。
次話「婚礼のお客様が、次々に」では、婚礼の前夜の宿が満室になります。
三十五名分の湯を沸かしながら、イレーヌは客の口から漏れる話を聞きます。ロラン様が三年のあいだ、どんな顔でその三年の話をなさっていたか、という話です。




