第15話 婚礼のお客様が、次々に
霜の月の七日は、昼のうちから風が止んでおりました。
風の止んだ日は、夕方から冷えます。わたくしは朝のうちに薪を三度に分けて運び、湯屋の焚き口の脇まで積み直しました。夜中に足す薪を取りに外へ出ると、その分だけ湯がぬるくなります。
宿場も、朝から婚礼の支度でした。パン屋さんはいつもの三倍焼き、馬具屋さんは二階の板を張り替えたそうです。この宿場が一度に四十一人を受けるのは、父の代を入れても数えるほどしかありません。
最初のお客様は、昼を少し回った頃に着かれました。
王都からの馬車が二台。轅の泥が乾いて白くなっております。三日は走ってきた泥です。
「銀の梯子亭でございます。お荷はこちらでお預かりいたします」
「部屋は」
「二の間へご案内いたします。お召し替えのあいだ、湯を一度目にお使いいただけます」
「一度目、というのは」
「湯は四度に分けてお使いいただきます。四十人分を一度に流しますと、あとの方が薄い湯にお入りになりますので」
その方は少し驚いた顔をして、それから、供の方に何かおっしゃいました。
馬車の馬は四頭とも、首の下が白く乾いておりました。汗が乾いて塩になっております。厩へ入れる前に、濡らした布でそこだけ拭いておきます。塩を残したまま夜を越すと、朝に毛が抜けます。
日が傾くまでに、坂を上がってきたのは十九名。日が落ちてから、残りが着きました。
輿が二挺。担ぎ手が八名。衣装の荷が四つ。ほかに伯爵家の家人が六名です。
衣装の荷は、土間には置きません。土間は下から湿気が上がります。厨の梁に紐を渡して、荷を吊るしておきました。明日の朝に下ろせば、皺が一晩ぶん伸びております。
履物は、戸口の板の上へ二列に並べました。片方の列は明日いちばん先に発つ方のもの、もう片方はあとの方のものです。並べる場所で出立の順が決まりますので、口で言う必要がなくなります。
締めて三十五名を、この宿に入れました。
客間に入れるのは十四名でございます。一の間に六名、二の間に五名、三の間に三名。三の間は梁が乾ききっておりませんので、人数を減らして火を絶やしません。
食堂の床に十二名。卓を全部壁へ寄せて、藁を二重に敷いて、その上に毛布を並べます。床に寝る側には毛布を四枚ずつ渡します。床は、寝ている人の下から熱を持っていくからです。
厨の隣に四名。ここは竈の裏が温まりますので、いちばん年嵩の方に使っていただきました。
厩の上の物置に五名。担ぎ手の方々です。この方々には、湯を最初にお使いいただきました。明日いちばん重いものを担ぐ人から先に休ませるのが、父の順番でした。
「お嬢さん」
厨でマノンに袖を引かれました。
「あんたの部屋は」
「お使いいただいております」
「じゃあ、あんたはどこで寝るんです」
「帳場でございます」
「帳場は寝るところじゃありません」
「宿帳の脇でしたら、火が近うございます」
帳場は玄関のすぐ脇です。夜中に戸を叩く人がいたときに、いちばん早く出られるのが帳場でした。父も冬のあいだは、そこに毛布を持ち込んでおりました。
マノンが、杓子をわたくしの手から取り上げました。
「食べてから言いなさい」
「あとで——」
「食べてから言いなさい」
わたくしは立ったまま粥を半分いただきました。半分にしたのは意地ではありません。三十五名分の膳がまだ二度目の途中でしたので、腹が重いと足が遅くなります。
食堂の壁際で、王都からいらした奥方お二人が話しておいででした。
「ロラン様は、三年もお通しになったのよ。白い結婚のまま」
「まあ」
「想う方がいらしたから、奥様には指一本お触れにならなかったの。今どき、ねえ」
「ご立派だこと」
「ご本人がおっしゃっていたわ。三年、自分は一度も嘘をつかなかった、って」
「そのお話でしたら、わたくしも伺いました」
「あら、いつ」
「去年の秋と、今年の春と、先月でございます」
「……三度」
「三度でございますわね」
わたくしは、その卓に湯の器を置きました。
三年のあいだ、この方が何を語っていらしたかを、わたくしは存じませんでした。屋敷では、この方はわたくしに三年の話をなさいませんでした。なさる相手が、ほかにいらしたからです。
器を置いて、下がりました。給仕は、話の切れ目に置いて、切れ目に下がります。話の途中で器を置くと、客はその話を続けなくなります。
厩の方から戻ってきたとき、家人の方々の卓の脇を通りました。
「費えは、春の荷で埋めるとおっしゃっている」
「その荷は、この冬は越えんぞ」
「越えんな」
「では、どこで埋める」
「男爵のご出資でな。……峠の話が通れば、の話だが」
わたくしは、その卓には湯を置かずに通り過ぎました。
春の荷というのは、雪が解けてから峠を越える荷のことでございます。その荷が動く前に、この宿にはお支払いいただく分がございます。三年前の掛けと、先の秋の証文と、二つです。どちらも宿帳に挟んでございますので、動く順番はこちらで存じております。
燭の油を足しに二階へ上がると、階段の下で娘さんが二人、荷を解いておいででした。ヴィオレット様のお付きの方です。
「お嬢様、この十日ほど、ほとんど召し上がらないの」
「花嫁様は皆そうよ」
「お笑いにならないの。一度も」
「……緊張なさっているのよ」
「婚礼のお話が決まった日から、一度もよ」
わたくしは油の壺を持ったまま、三段ほど下りて、また上がりました。人が話しているところを通るときは、足音を先に聞かせます。黙って通ると、聞いていたことになります。
ヴィオレット様がこの宿にお泊まりになったのは、先の月のことでした。あのときのお膳は、半分残っておりました。残った量まで書いてあるのが、父の宿帳の面倒なところでございます。
それから、いちばん奥の卓でした。
年配の家人の方が、椀を持ったままわたくしの顔を見上げて、そのまま止まっておいででした。
この方は屋敷の裏の倉におられた方です。わたくしが最初の月に、荷を数えに立っていた場所です。
「……奥様」
「お代わりをお持ちいたしましょうか」
「あの、私は」
「粥は、まだございます。塩は少し強めにしてございますので、明日峠を越える方には、ちょうどよろしいかと存じます」
その方が、椀を卓に置かれました。手が少し滑って、椀の縁が卓に当たりました。
わたくしは布巾でそこを拭いて、新しい椀と取り替えました。
拭くときに、卓の下でその方の靴が半分脱げているのが見えました。長く歩いた日の足は、むくんで靴の中で泳ぎます。
「厩の上に、藁が余っております。足を上げてお休みになると、明日が楽でございます」
「……はい」
その卓の隣で、別の家人の方が声を落としておっしゃいました。
「三年前、あの家が嫁の実家の宿を取ったろう」
「取った」
「あの証文は、どこから出た」
「……その話は、よせ」
わたくしは、空の器を四つ重ねて厨へ運びました。重ねる順は、大きいものが下です。急いでいるときほど、そこを間違えます。
夜が更けてから、帳場で宿帳をつけました。
食堂は、床いっぱいに人が並んでおります。壁際に寄せた卓の上には、明日の膳の器が五度分、組ごとに積んでありました。鍋は三つとも竈に掛けたままです。朝は、火を起こすところから始めると間に合いません。
食堂の灯を二つ落として、帳場の灯だけを残します。床に寝ている方々の顔の側に灯を残すと、眠れない人が出ます。
霜の月の七日 婚礼の御一行 三十五名 湯四度 朝の膳五度
顔:輿の担ぎ手八名、皆、右の肩が下がっている。
匂い:新しい麻と、樟脳。
宿帳には、見たことだけを書きます。聞いたことは書きません。父の書式にその欄はありません。
三十五名。全部、名前が入りました。
マノンが帳場の框に腰を下ろして、足をさすりました。
「馬具屋さんの二階が六つ、埋まったそうですよ」
「六名様でございますね」
「六つと、三十五。四十一」
「四十一名でございます」
「触れどおりですねえ」
「触れどおりでございます」
マノンが、指を折るのをやめました。
「……お嬢さん。花婿は、客ですか」
わたくしは、筆を持ったまま、宿帳の一行下を見ました。
空いております。
夕方に厩で聞いた話を、そのとき思い出しました。若様は王都から直においでになる、伯爵が部屋は要らぬとおっしゃった、この宿にはな、と。家人の方は最後のところだけ、声を落としておいででした。
外で、風の向きが変わりました。
昼から止んでいた風です。止んでいた風が夜に動き出すときは、たいてい西から動きます。
「マノン」
「はい」
「厨の火は、落とさないでおいてください」
「……どなたか、いらっしゃるんですか」
「わかりません」
「じゃあ、なんでです」
「宿でございますので」
次話「旦那様の泊まるお部屋は、ございません」では、婚礼の前夜の宿に、雪をかぶった人が一人立ちます。
この宿の客間は三つで、三つとも埋まっております。イレーヌは玄関で、宿の主として同じ言葉を申し上げます。




