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白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


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16/30

第16話 旦那様の泊まるお部屋は、ございません

 寝床の数を、もう一度数えました。


 一の間に六つ。二の間に四つ。三の間に五つ。食堂の長椅子を寄せて三つ。厨の板の間に二つ。厩の上の藁部屋に二つ。


 二十二でございます。


 昼のうちに毛布を全部出して、外の綱に掛けておきました。雪の来る前の日の風は乾いておりますので、半刻も干せば毛布が軽くなります。軽い毛布のほうが暖こうございます。理屈は存じませんが、父がそう申しておりましたし、実際に客の寝つきが違います。


 婚礼は、明日でございます。


 峠の向こうの教会で、ロラン・サンドラール様とヴィオレット・ダンジュ様の式が執り行われます。王都から来られる方も、伯爵家の領から来られる方も、峠を越えなければ着きません。そして峠を越える前の晩に泊まれる宿は、西街道にひとつきりでございます。


 うちでございます。


 「一の間、湯が済みましたよ」


 マノンが襷を掛け直しながら、厨から出てまいりました。


 「二の間のご婦人が、枕が高いと」


 「藁を一掴み抜いてさしあげてください。抜いたぶんは、明日の朝に戻します」


 「厩の上の若い衆は、外に出て雪を見ておりますよ」


 「呼んでくださいまし。今夜は積もります」


 夕方のうちに、荷方の方がひとり、坂を上がってこられました。


 右の小指が短い方でございます。


 「一人だ。板の間でいい」


 「厨の板の間が二つ、まだ空いております。壁際のほうが暖こうございます。竈の土が朝まで温うございますので」


 「……いくらだ」


 「湯と食事で、十六でございます」


 その方は帳場に十六置いて、名を書かずに板の間へ行かれました。書かなくてよいことになっております。宿帳の名の欄は、書きたい方だけが書きます。父がそう決めました。名を書かない客のほうが、たいてい、よく払います。


 これで二十二でございます。


 二十二人ぶんの器を洗い終えて、灯を細くしたころに、戸を叩く音がいたしました。


 マノンが鼻から息を吸いました。


 長く吸って、それから、目を細めます。


 「……あの匂いだ」


 「どちらの」


 「今夜のは——雪と、未練の匂いですねえ」


 わたくしは前掛けで手を拭いて、閂を上げました。


 雪が、先に入ってまいりました。その次に、人が入ってまいりました。


 外套の肩に雪を載せた方が、灯の届く端に立っていらっしゃいます。帽子の縁からも袖の折り目からも雪が落ちて、土間に落ちた端から溶けていきます。長靴の膝から下だけが白くなっておりません。途中で馬から降りて、引いて上がってこられたのでしょう。


 「……こんばんは」


 「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」


 ロラン様でございました。


 「君は」


 「はい」


 「……部屋を、一つ。一晩でいい」


 わたくしは帳場へ回って、宿帳を開きました。


 今日の頁を、上から下まで指でたどります。一の間に六つ。二の間に四つ。三の間に五つ。食堂に三つ。板の間に二つ。厩の上に二つ。指が下まで行って、そこで止まりました。もう一度、上からたどりました。数は変わりません。


 「一の間の商いの方々に、もうお一人お入りいただくことはできます」


 「では——」


 「あの方々は明日、峠を越えて荷を下ろされます。夜のうちに眠っていただかないと、下りの坂で馬を潰します」


 「……そうか」


 「食堂の長椅子は三つに割ってございます。二つに戻せば一人ぶん増えますが、増えたぶん、寝ておられる方の足が椅子から出ます。今夜の床は、板の下から冷えます」


 「イレーヌ」


 わたくしは顔を上げました。宿では、名を呼ばれたら顔を上げます。


 「言い値でいい。金は持ってきた」


 「お代のお話ではございません」


 「では何の話だ」


 「お約束のお話でございます」


 わたくしは宿帳を、この方のほうへ向けました。


 「ここに書いてございます二十二人は、みなさま先にお約束くださって、お代を先に置いていかれた方々です。わたくしの宿でございますから、わたくしが約束したものを、わたくしが取り上げるわけにはまいりません」


 ロラン様が、宿帳をご覧になりました。


 文字は読めても、意味は読めなかったと思います。一の間、二の間、三の間。書いてあるのは、それだけの宿でございますので。


 「……父上が、部屋を取ってあると」


 「伯爵様からのお申し付けは、届いておりません」


 「そんなはずは」


 「十日前に、峠の向こうから使いが二度まいりました。ダンジュ家のご一行の分と、王都のお客様の分でございます。伯爵様のお家の分は、そのどちらにも入っておりませんでした」


 板の間のほうで、器の触れる音がいたしました。


 右の小指の短い方が、こちらに背を向けて座っておられます。この方は伯爵家の荷を三年運んでおられますから、誰が誰の部屋を頼み忘れたか、たぶんご存じでございます。ご存じですが、荷方が伯爵家の差配に口を出すことはできません。


 「……宿場町のほうは」


 「石橋の宿は、婚礼のお客様で埋まっております。今朝、馬方の方が下から上がってこられて、そう申しておりました」


 「では、どうしろと」


 戸の隙間から、雪が吹き込んでおりました。


 わたくしは戸を少しだけ引いて、隙間を狭くしました。それから、この三年で一番はっきりした声を出しました。


 「あいにく、旦那様の泊まるお部屋は、ございません」


 ロラン様が、旦那様、と口の中で繰り返されました。


 宿では、お名前を存じ上げないお客様を旦那様とお呼びします。父がそうしておりました。名を書かない客も、名を書けない客も、みな旦那様でございます。今夜この宿にいらっしゃる方のうち、宿帳に名の無い方は、この方おひとりでございます。


 「……君は」


 「はい」


 「怒っているのか」


 「いいえ」


 わたくしは宿帳を閉じました。閉じるときに、綴じ紐の結び目が指に当たりました。父が結んだ結び目でございます。


 それから厨へ行って、椀に麦湯を注ぎました。塩を一つまみ落として、戻ってまいりました。


 「熱いうちにお召し上がりください。お代はいただきません。椀は宿のものでございますので、飲み終えましたらお返しくださいまし」


 「……座らせては、くれないのか」


 「椅子は、寝床にしてございます」


 ロラン様は、土間に立ったまま麦湯を飲まれました。


 肩の雪が溶けて、外套の色が濃くなっていきます。飲み終えて椀を返される手が、少し震えておりました。寒いからでございます。峠の風は、袖の内側から入ってまいります。


 「馬を見せてくださいまし」


 「……馬」


 「脚でございます。引いていらしたのなら、前の脚に雪が固まっております。放っておくと、下りで滑ります」


 外へ出ると、灯の届くところに馬が一頭、繋がれておりました。


 ジャンが藁を抱えて出てきて、何も言わずに前脚を持ち上げました。蹄の内側に雪が氷になって詰まっております。木の柄でそれを落として、油を薄く塗って、また何も言わずに厩へ戻っていきました。


 「……あれは」


 「厩番でございます」


 「君の宿の者か」


 「はい。うちの者でございます」


 わたくしは、灯を一つ、鉤から外しました。


 「石橋まで半日でございます。下りは風が背に付きますので、上りより楽でございます。二つ目の橋の手前で道が二つに割れますが、右は冬のあいだ使いません。左をお通りください。灯は、お貸しいたします」


 「……借りたら、返しに来なければならない」


 「はい」


 ロラン様は灯を受け取って、しばらく持っておられました。


 それから、馬の口を取って坂を下りていかれました。灯がひとつ、雪の中を揺れながら小さくなって、二つ目の曲がりで見えなくなりました。


 マノンが、閂を落としました。


 「間に合いますかね、婚礼」


 「間に合わせると思います」


 「間に合わせて、今夜のことは無かったことにするんですよ、ああいう人は」


 土間に落ちた雪が、水になって溜まっております。わたくしは布を取ってきて、それを拭きました。


 「腹が立ちませんか」


 「立ちません。うちは、二十二人ぶんでございますので」


 帳場に戻って、今日の頁の下に一行足しました。匂いの欄は、マノンに訊いてから書きます。マノンは字が読めませんので、書くのはわたくしの役目でございます。


  十二の月の四日 婚礼のお客様 二十二名 満室

  顔:雪をかぶって、名を名乗らぬ旦那様がおひとり。お断りいたしました。

  匂い:雪と、未練。


 筆を置いたところで、マノンが背中で申しました。


 「ですけどねえ、お嬢さん」


 「はい」


 「峠に宿が建ったら、今夜みたいなことは、二度と起きませんねえ」


 わたくしは、筆を筆入れに戻しました。


 峠の上に宿が建てば、手前で泊まる必要がなくなります。必要がなくなれば、この坂を上がってくる馬はいなくなります。上がってこなければ、断ることもございません。断ることのない宿は、迎えることもない宿でございます。


 あと幾日かすれば、街道局の方が峠を測りにいらっしゃいます。


 わたくしは灯を細くして、玄関の閂に手をかけました。閂は、もう落ちております。落ちているのを、二度確かめました。

 次話「検分」では、街道局の検分官ユーグが、峠の建設予定地に立ちます。


 立ち会いを求められるのは、宿の主であるイレーヌです。そこで要るのは、父の帳面の、あの破られた頁でございます。

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