第16話 旦那様の泊まるお部屋は、ございません
寝床の数を、もう一度数えました。
一の間に六つ。二の間に四つ。三の間に五つ。食堂の長椅子を寄せて三つ。厨の板の間に二つ。厩の上の藁部屋に二つ。
二十二でございます。
昼のうちに毛布を全部出して、外の綱に掛けておきました。雪の来る前の日の風は乾いておりますので、半刻も干せば毛布が軽くなります。軽い毛布のほうが暖こうございます。理屈は存じませんが、父がそう申しておりましたし、実際に客の寝つきが違います。
婚礼は、明日でございます。
峠の向こうの教会で、ロラン・サンドラール様とヴィオレット・ダンジュ様の式が執り行われます。王都から来られる方も、伯爵家の領から来られる方も、峠を越えなければ着きません。そして峠を越える前の晩に泊まれる宿は、西街道にひとつきりでございます。
うちでございます。
「一の間、湯が済みましたよ」
マノンが襷を掛け直しながら、厨から出てまいりました。
「二の間のご婦人が、枕が高いと」
「藁を一掴み抜いてさしあげてください。抜いたぶんは、明日の朝に戻します」
「厩の上の若い衆は、外に出て雪を見ておりますよ」
「呼んでくださいまし。今夜は積もります」
夕方のうちに、荷方の方がひとり、坂を上がってこられました。
右の小指が短い方でございます。
「一人だ。板の間でいい」
「厨の板の間が二つ、まだ空いております。壁際のほうが暖こうございます。竈の土が朝まで温うございますので」
「……いくらだ」
「湯と食事で、十六でございます」
その方は帳場に十六置いて、名を書かずに板の間へ行かれました。書かなくてよいことになっております。宿帳の名の欄は、書きたい方だけが書きます。父がそう決めました。名を書かない客のほうが、たいてい、よく払います。
これで二十二でございます。
二十二人ぶんの器を洗い終えて、灯を細くしたころに、戸を叩く音がいたしました。
マノンが鼻から息を吸いました。
長く吸って、それから、目を細めます。
「……あの匂いだ」
「どちらの」
「今夜のは——雪と、未練の匂いですねえ」
わたくしは前掛けで手を拭いて、閂を上げました。
雪が、先に入ってまいりました。その次に、人が入ってまいりました。
外套の肩に雪を載せた方が、灯の届く端に立っていらっしゃいます。帽子の縁からも袖の折り目からも雪が落ちて、土間に落ちた端から溶けていきます。長靴の膝から下だけが白くなっておりません。途中で馬から降りて、引いて上がってこられたのでしょう。
「……こんばんは」
「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」
ロラン様でございました。
「君は」
「はい」
「……部屋を、一つ。一晩でいい」
わたくしは帳場へ回って、宿帳を開きました。
今日の頁を、上から下まで指でたどります。一の間に六つ。二の間に四つ。三の間に五つ。食堂に三つ。板の間に二つ。厩の上に二つ。指が下まで行って、そこで止まりました。もう一度、上からたどりました。数は変わりません。
「一の間の商いの方々に、もうお一人お入りいただくことはできます」
「では——」
「あの方々は明日、峠を越えて荷を下ろされます。夜のうちに眠っていただかないと、下りの坂で馬を潰します」
「……そうか」
「食堂の長椅子は三つに割ってございます。二つに戻せば一人ぶん増えますが、増えたぶん、寝ておられる方の足が椅子から出ます。今夜の床は、板の下から冷えます」
「イレーヌ」
わたくしは顔を上げました。宿では、名を呼ばれたら顔を上げます。
「言い値でいい。金は持ってきた」
「お代のお話ではございません」
「では何の話だ」
「お約束のお話でございます」
わたくしは宿帳を、この方のほうへ向けました。
「ここに書いてございます二十二人は、みなさま先にお約束くださって、お代を先に置いていかれた方々です。わたくしの宿でございますから、わたくしが約束したものを、わたくしが取り上げるわけにはまいりません」
ロラン様が、宿帳をご覧になりました。
文字は読めても、意味は読めなかったと思います。一の間、二の間、三の間。書いてあるのは、それだけの宿でございますので。
「……父上が、部屋を取ってあると」
「伯爵様からのお申し付けは、届いておりません」
「そんなはずは」
「十日前に、峠の向こうから使いが二度まいりました。ダンジュ家のご一行の分と、王都のお客様の分でございます。伯爵様のお家の分は、そのどちらにも入っておりませんでした」
板の間のほうで、器の触れる音がいたしました。
右の小指の短い方が、こちらに背を向けて座っておられます。この方は伯爵家の荷を三年運んでおられますから、誰が誰の部屋を頼み忘れたか、たぶんご存じでございます。ご存じですが、荷方が伯爵家の差配に口を出すことはできません。
「……宿場町のほうは」
「石橋の宿は、婚礼のお客様で埋まっております。今朝、馬方の方が下から上がってこられて、そう申しておりました」
「では、どうしろと」
戸の隙間から、雪が吹き込んでおりました。
わたくしは戸を少しだけ引いて、隙間を狭くしました。それから、この三年で一番はっきりした声を出しました。
「あいにく、旦那様の泊まるお部屋は、ございません」
ロラン様が、旦那様、と口の中で繰り返されました。
宿では、お名前を存じ上げないお客様を旦那様とお呼びします。父がそうしておりました。名を書かない客も、名を書けない客も、みな旦那様でございます。今夜この宿にいらっしゃる方のうち、宿帳に名の無い方は、この方おひとりでございます。
「……君は」
「はい」
「怒っているのか」
「いいえ」
わたくしは宿帳を閉じました。閉じるときに、綴じ紐の結び目が指に当たりました。父が結んだ結び目でございます。
それから厨へ行って、椀に麦湯を注ぎました。塩を一つまみ落として、戻ってまいりました。
「熱いうちにお召し上がりください。お代はいただきません。椀は宿のものでございますので、飲み終えましたらお返しくださいまし」
「……座らせては、くれないのか」
「椅子は、寝床にしてございます」
ロラン様は、土間に立ったまま麦湯を飲まれました。
肩の雪が溶けて、外套の色が濃くなっていきます。飲み終えて椀を返される手が、少し震えておりました。寒いからでございます。峠の風は、袖の内側から入ってまいります。
「馬を見せてくださいまし」
「……馬」
「脚でございます。引いていらしたのなら、前の脚に雪が固まっております。放っておくと、下りで滑ります」
外へ出ると、灯の届くところに馬が一頭、繋がれておりました。
ジャンが藁を抱えて出てきて、何も言わずに前脚を持ち上げました。蹄の内側に雪が氷になって詰まっております。木の柄でそれを落として、油を薄く塗って、また何も言わずに厩へ戻っていきました。
「……あれは」
「厩番でございます」
「君の宿の者か」
「はい。うちの者でございます」
わたくしは、灯を一つ、鉤から外しました。
「石橋まで半日でございます。下りは風が背に付きますので、上りより楽でございます。二つ目の橋の手前で道が二つに割れますが、右は冬のあいだ使いません。左をお通りください。灯は、お貸しいたします」
「……借りたら、返しに来なければならない」
「はい」
ロラン様は灯を受け取って、しばらく持っておられました。
それから、馬の口を取って坂を下りていかれました。灯がひとつ、雪の中を揺れながら小さくなって、二つ目の曲がりで見えなくなりました。
マノンが、閂を落としました。
「間に合いますかね、婚礼」
「間に合わせると思います」
「間に合わせて、今夜のことは無かったことにするんですよ、ああいう人は」
土間に落ちた雪が、水になって溜まっております。わたくしは布を取ってきて、それを拭きました。
「腹が立ちませんか」
「立ちません。うちは、二十二人ぶんでございますので」
帳場に戻って、今日の頁の下に一行足しました。匂いの欄は、マノンに訊いてから書きます。マノンは字が読めませんので、書くのはわたくしの役目でございます。
十二の月の四日 婚礼のお客様 二十二名 満室
顔:雪をかぶって、名を名乗らぬ旦那様がおひとり。お断りいたしました。
匂い:雪と、未練。
筆を置いたところで、マノンが背中で申しました。
「ですけどねえ、お嬢さん」
「はい」
「峠に宿が建ったら、今夜みたいなことは、二度と起きませんねえ」
わたくしは、筆を筆入れに戻しました。
峠の上に宿が建てば、手前で泊まる必要がなくなります。必要がなくなれば、この坂を上がってくる馬はいなくなります。上がってこなければ、断ることもございません。断ることのない宿は、迎えることもない宿でございます。
あと幾日かすれば、街道局の方が峠を測りにいらっしゃいます。
わたくしは灯を細くして、玄関の閂に手をかけました。閂は、もう落ちております。落ちているのを、二度確かめました。
次話「検分」では、街道局の検分官ユーグが、峠の建設予定地に立ちます。
立ち会いを求められるのは、宿の主であるイレーヌです。そこで要るのは、父の帳面の、あの破られた頁でございます。




