第17話 検分
三日経って、雪が締まりました。
締まった雪は歩けます。踏んでも沈まず、靴の裏で鳴る。この音が鳴りだすと、峠に人が入れるようになったということでございます。父はこの音を聞くと、厩の藁を入れ替えておりました。
朝のうちに、ユーグ様がいらっしゃいました。
「街道局の検分です」
土間に入るなり、天井を見上げておられます。
「梁を替えたな」
「はい。先月に」
「一本足りない。厩の側だ」
「春に替えます。冬の材は水を吸っておりますので」
「……そうか」
この方は、宿に来ても腰を下ろされません。柱を見て、梁を見て、床を踏んで、それから用件をおっしゃいます。用件の前に世間の話をなさらないので、話が早うございます。
「峠へ行く。立ち会え」
「わたくしがでございますか」
「土地の者の立ち会いが要る。街道局の決まりだ」
「宿の主でもよろしいのですか」
「宿の主だから呼んでいる。この道で三十年商いをしていた家は、ここだけだ」
マノンが厨から出てきて、布に包んだものをわたくしの手に押し込みました。
「麦の焼餅と、塩でございますよ」
「昼までには戻ります」
「戻る戻ると言って、戻ってこない人を三年見ておりましたからね。食べなさい、イレーヌお嬢さん。峠の風は、腹から冷やしにきます」
ジャンが馬を二頭、引いて出てまいりました。
鞍の下に、古い毛布が一枚多く敷いてあります。雪の日は鞍の下が汗で濡れます。濡れたものが冷えて、馬の背を傷めます。わたくしが教えたのではありません。この子は誰にも教わらずに、去年の冬から自分でそうしております。
坂の途中で、馬を一度止めました。
止めて、蹄の内側を見ます。上りの雪は蹄に詰まります。詰まったまま上がると、平らなところで足を取られます。ジャンが二頭とも見終えて、手綱をわたくしに渡しました。何も申しません。この子は馬の脚のこと以外を口にいたしません。
道の雪には、轍が三本ついておりました。
深いものが一本。浅いものが二本。深いのは荷を積んだ車の跡でございます。浅いのは空の車と、馬だけの跡でございます。冬に入ってこれだけ通っていれば、この峠はまだ生きております。
峠道は、宿から半刻ほど上がったところで平らになります。
平らになったところの南側が、いま杭の打たれている斜面でございます。日がよく当たり、雪が先に消え、木は膝の高さから胸の高さまでのものばかりが生えております。太い木は、一本もございません。
斜面には、雪の消え方に段がついております。
上のほうは白く残っております。途中から下は黒い土が出ております。日の当たり方だけでは、こうはなりません。土の下で水が動いているところは、そこだけ先に溶けます。水の道は雪で見える。父の帳面にそう書いてございました。
杭は、二十本ほど並んでおりました。
人夫の方が二人がかりで、その一本を打ち直しておられます。柄の尻で叩くたびに、杭は入るというより、沈むように下がっていきました。宿の裏で井戸の枠を直したときの土は、こうではございませんでした。
「昨日打ったものが、朝には傾いておったのです」
「雪のせいだ」
地図を広げておられる方が、そうおっしゃいました。
ギュスターヴ・ダンジュ男爵でございます。地図は人夫の背中の上に広げてありました。風で端が返るのを、もうひとりが押さえております。
人夫は六人おられました。
三人が杭を打ち、二人が地図を押さえ、残りの一人は焚き火の番でございます。焚き火は斜面の下の平らなところに焚いてありました。上に焚くと、雪の解けた水が火のほうへ流れてまいります。この方々は、それをご存じでございます。火の場所をお決めになったのは、男爵ではございません。
「おお、街道局の。見たまえ。ここに宿を建てる。南向きだ。日が当たる。冬でも雪が先に消える」
ユーグ様は答えずに、雪をかき分けて、地面に膝をつかれました。
手袋を外して、土を掴んで、指の腹で潰しておられます。潰した土を風に散らして、それから立ち上がって、斜面の上のほうを見上げられました。
「木が若い」
「若い木は、切りやすくて結構」
「……宿の主」
「はい」
「この斜面に、荷を置く者はいるか」
「おりません。父の代から、南の斜面には荷を置くなと申しておりました」
「理由は」
「存じません。決まりでしたので、そのように」
ユーグ様が、斜面の中ほどを指されました。
雪の消えているところが、細い帯になって横に続いております。
「水が出ている」
「湧きでしょうな。井戸を掘る手間が省ける」
男爵は、地図から目を上げられませんでした。
わたくしは三歩離れたところに立っておりましたが、この方は一度も顔を上げられません。地図の上には、宿がひとつ描いてございます。峠の上の宿でございます。坂の途中の宿は、描いてございませんでした。
「三十年前の記録が要る」
帰り道で、ユーグ様がそうおっしゃいました。
「街道局にはございませんの」
「無い。庁を移したときに、古い綴りが散った。この峠の三十年前の分は、綴りごと無い」
「……」
「この街道の記録を取っていた者を知らないか」
「父が」
わたくしは、手綱を持ち替えました。
「毎日、戸を閉めたあとに一行ずつ書いておりました。日付と、天気と、道の様子と、通った荷の重さでございます」
「見せてもらう」
帳面は、帳場の下の抽斗に、油紙に包んで入れてございます。
表に父の字で「西街道」とだけ書いてあります。厚さは煉瓦ほどでございます。下のほうの紙は湿気で波を打っております。一日に一行でございますから、一年で三百六十行。それが三十年ぶん重なっております。
わたくしはそれを卓に置いて、包みを開きました。
ユーグ様が頁を繰られます。
繰る手が、途中で止まりました。
「破れている」
綴じ糸のところに、紙の残りが細く付いております。二枚でございます。前後の日付から数えて、三十年前の秋、長雨の頃の分でございました。
マノンが手を伸ばして、残った紙の端に鼻を近づけました。
長く吸って、それから、顔をしかめます。
「……蜜蝋ですねえ。安いほうの」
「蝋」
「荷の封に使う蝋でございます。手に付くと三日は落ちません。三年前にこの宿で払わずに出ていった連中の手からも、同じ匂いがいたしました」
わたくしは、抽斗をもう一度開けました。
底に、紙の粉が薄く溜まっております。持ち出して破ったのではなく、この抽斗の前に立って破って、破った頁だけを持っていかれたということでございます。三年のあいだ、この宿の鍵は伯爵家が持っておりました。
ユーグ様が、帳面を閉じられました。
「認可の可否は、十日のうちに出す」
「十日」
「記録が無ければ、出せるのは差し支えなしのほうだ」
「……閣下のご計画が、通るということでございますか」
「そうなる」
この方は、言いにくいことを言いにくそうにおっしゃいません。
「無いことは、無かったことの証にはならない。だが街道局は、無いものを根拠にできない。根拠の無い却下は、翌年ひっくり返される」
「探してはいただけませんの」
「破った者の手元にあるものを、街道局は取り上げられない」
「さようでございますか」
「気の毒だと言っている」
ユーグ様は、それだけおっしゃって帰られました。
戸を閉めて、閂を落としました。落としてから、竈の灰を掻いているマノンの背中に、火の始末をお願いしますと申し上げました。
「お嬢さん。寝なさい」
「はい」
「はい、と言って寝ない人ですねえ、あんたは」
わたくしは帳場に座って、紙を一枚出しました。
父の筆入れから、いちばん細い筆を選びます。細い筆でないと、一枚に入りません。硯に息を吹きかけて、墨を溶きました。溶けるまでのあいだ、破れ目の残りを指でなぞっておりました。
窓の外は、まだ暗うございます。
破られたのは、三十年前の秋の頁でございました。
長雨の、あとの頁でございます。
次話「道は、付け替えられません」では、街道局の人手が峠の南斜面を掘ります。
どこを掘るかを決めるのは、その破られた頁でございます。




