第18話 道は、付け替えられません
朝の湯を沸かしているところへ、ユーグ様がいらっしゃいました。
帳場の卓に、紙が一枚置いてございます。ゆうべ書いたものです。この方はそれを見て、手袋を外されました。
「これは何だ」
「父の帳面の、破られた頁でございます」
「破られた頁は無い」
「ございません。ですので、書きました」
ユーグ様が紙を持ち上げて、灯に近づけられました。
細い筆で、上から下まで隙間なく埋めてございます。日付。降った日数。崩れた場所。崩れた土がどこまで届いたか。埋まった谷の深さ。通れなくなった道の長さ。父の帳面は一日に一行でございますので、長雨の分だけで十七行ございました。
「読んだのか」
「十四のときに」
「十年前だ」
「はい」
「十年前に読んだものを、順に書けるのか」
わたくしは、筆入れの蓋を閉めました。
「お屋敷におりました三年、眠れない晩がございました。眠れない晩は、父の帳面を思い返しておりました。頁の順に、書いてある場所の順にたどってまいります。たいてい、途中で朝になりました」
ユーグ様が、紙を卓に戻されました。
紙の端が、灯の熱で少し反っております。この方は、それを指で押さえておられました。
「これは記録として使えない」
「はい」
「署名も日付も無い。ただの紙だ」
「存じております」
「だが、掘る場所は書いてある」
街道局の人手が六人、その日のうちに峠へ入りました。
鍬と、細い鉄の棒を持っておられます。棒は雪の下の固さを見るものだそうでございます。差して、抜いて、先に付いた土を見る。それを斜面の下から順に、幅を変えて繰り返しておられました。
昼前に、男爵が上がってこられました。
「何をしておる」
「検分です」
「検分は済んだであろう」
「掘るところまでが検分です」
人手の方々は、上から掘りませんでした。
斜面の下の、木の生えていないところから掘っておられます。上から掘りますと、掻いた雪が下へ落ちて、掘ったところを埋めてしまうからでございます。宿の裏で井戸をさらうときも、同じ順でやります。
鍬の先が、固いものに当たったのは、そのすぐあとでございます。
人夫の方が雪と土を掻き分けると、平らな石が出てまいりました。一枚ではございません。並んでおります。並び方に見覚えがございました。宿の前の街道の敷石と、同じ並べ方でございます。
「……道だ」
「三十年前の道でございます」
ユーグ様が、わたくしのほうへ顔を向けられました。
「続けろ」
「峠の道は、昔はもう少し下を通っておりました。秋の長雨のあとに、南の斜面が崩れました。崩れた土が谷を半分埋めて、道はその下になりました。いまの道は、崩れたあとに上へ付け替えたものでございます」
「……付け替えたのなら、もう一度付け替えられるであろうが」
「上へは、もう付け替えられません。上は岩でございます」
「下があるだろう」
「下が、三十年前に崩れた土でございます」
ユーグ様が、掘った穴の縁を靴の先で押されました。
土は、崩れるというより、こぼれました。粉のようになって穴の底へ落ちて、落ちた先で水を吸って黒くなります。人夫の方が二人、顔を見合わせておられました。
「締まっていない。三十年でこれだ」
「木が若いのは、日当たりが良いからだ」
「木が若いのは、根が張れないからです」
人夫の方々は、鍬を杖のようにして立っておられます。誰も掘るのをやめておりません。やめよという合図が、まだ出ていないからでございます。
男爵が、地図を畳もうとなさいました。
風があって、うまく畳めません。人夫が二人がかりで押さえて、それでも角が折れました。折れた角のところに、峠の宿が描いてございます。二階建てで、屋根に飾りの付いた宿でございました。
「街道局として申し上げます」
ユーグ様が、男爵のほうへ向き直られました。
「この斜面に、宿は建てられません。道は、付け替えられません」
「……たかが土ではないか」
「土の上に二階建てを載せます。屋根には冬じゅう雪が載ります。載せたものは、いつか下へ動きます」
「金なら出す」
「金で締まる土なら、街道局は要りません」
男爵が、こちらをご覧になりました。
この方がわたくしを見られたのは、これが初めてでございます。峠で三度お目にかかって、三度とも顔を上げられませんでした。
「……そこの」
「はい」
「宿の者か」
「銀の梯子亭の主でございます」
「……そうか」
それだけでございました。名は、お訊きになりません。わたくしも、申し上げませんでした。
その夜、峠が荒れました。
風が谷から吹き上がる晩は、下りの道が使えません。男爵ご一行は、うちにお泊まりになりました。一の間と二の間で、十一名でございます。
厩には、馬が七頭と荷車が一台入りました。
車は空でございましたが、車輪の轂に土が詰まっております。峠の土は水を含むと粘りますので、抜かずに置きますと、朝には固まって回らなくなります。ジャンが木の箆で掻き出しておりました。誰にも頼まれてはおりません。
湯は二度に分けました。一度に十一人お入れすると湯が濁って、二度目の方が薄い湯を使うことになります。粥の塩は少し強めにいたしました。峠に半日立っていた方は、気づかぬうちに汗をかいておられます。塩が足りないと、明け方に足がつります。
「あの男に飯を出すんですか」
「お代をいただいておりますので」
「……あんたのそういうところは、三十年見ておりますけどね。いまだに慣れません」
マノンは、そう言いながら鍋に肉を足しました。
帳場では、ユーグ様が父の帳面を写しておられました。
街道局が記録として預かるのは、崩落の前後の二十日ぶんだけだそうでございます。その前後は写さずに返す。決まりでございます。ところが、この方の手が、決まりの外の頁で止まりました。
「宿の主」
「はい」
「三十年前の秋より前に、道でないものが一行ある」
わたくしは、そこを覗きました。
十の月 サンドラール様より 銀貨六十枚 借り受け 峠の道普請の名目
利は要らぬと言われた。要らぬ金は、無い。
父の字でございます。ほかの行より、少し小さうございました。
「道普請の金は、街道局が出す」
「……はい」
「街道局が出すものを、伯爵が出すと言った。出た金は道にならず、この宿の証文になった」
「はい」
「これは街道局の管轄ではない」
「はい」
「だが写しは取る。記録だからだ」
ユーグ様は、細い筆でその一行を写されました。写して、日付を入れて、ご自分の名を書き添えられました。署名のあるほうが、記録でございます。
ユーグ様は写しを油紙に包んで、外套の内へ入れられました。
包み方が、父のものと同じでございました。角を折って、折った側を内へ向けて、紐は二度回して結ぶ。雪の日に紙を持ち歩く者の包み方でございます。どこで覚えられたのかは、お訊きいたしませんでした。
わたくしは、何も申し上げませんでした。
申し上げることがございません。父はもう亡くなっております。宿はもう戻ってまいりました。返していただくものが、ほかにございません。
夜半、板の間で人夫の方々が話しておられました。
「峠の宿は、伯爵様が半分出されるはずだった」
「出す先が無くなったな」
「無くなったのは、それだけじゃない。春の荷を峠の向こうへ回す約束で、西街道の問屋の権をまとめて押さえておられたんだ。荷が回らなけりゃ、権だけ抱えて冬を越すことになる」
板の壁ごしに、よく聞こえてまいります。壁が薄いのではございません。人が寝静まったあとの宿は、音がまっすぐ通ります。
「持つかね」
「持たんだろう。あの家は、来年の春には西街道から手を引くよ」
わたくしは、麦湯の鍋を火の端に寄せてから、板の間の戸を閉めました。
夜中に起きる方がいらっしゃいます。冷めた麦湯は腹を冷やしますので、端に寄せておけば朝までぬるいままでございます。父がそうしておりました。
帳場に戻って、今日の頁に一行足しました。
十二の月の九日 ダンジュ家ご一行 十一名 一の間・二の間 お支払い済み
顔:地図を畳めない方がおひとり。
匂い:新しい紙と、湿った土。
匂いの欄は、マノンに訊いて書きました。
「明日、峠が開きます」
「開けば、下りてきますねえ。いろいろな人が」
「はい」
「下りてくる中に、いますよ」
「どちらの」
マノンは答えませんでした。
答えずに竈の灰を掻いて、火を落としました。落とした灰の匂いだけが、しばらく厨に残っております。わたくしは一の間の廊下を見に行って、毛布の足りているのを確かめて、それから帳場の灯を細くしました。
明日の頁には、まだ何も書いてございません。
次話「もう遅い」では、峠を下りてきたその方が、もう一度この宿の戸を叩きます。
今度は、部屋を頼みにいらっしゃるのではありません。




