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白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


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19/28

第19話 もう遅い

 雨でした。


 峠の雪が緩むころの雨は、上から落ちるというより、横から吹きつけてまいります。屋根を打つ音がしませんので、戸を開けるまで降っているとわかりません。


 朝のうちに乾かし場の炭を熾しておいたのは、風の向きが昨日と変わっていたからでございます。


 馬方が三名、日の暮れる前に入りました。


  一の間 馬方三名 薪多め 外套は乾かし場へ

  顔:先頭の方、左の耳の縁が欠けている

  匂い:濡れた麻と、鉄


 荷に蹄鉄を積んでいる方々でした。鉄は湿ると匂いが立ちますので、乾かし場には入れず、厨の梁の下に吊るしていただきました。この建物でいちばん風の通る場所です。


 「濡れた物は、こちらでお預かりします。朝には乾いております」


 「助かる。石橋は、どこも一杯でな」


 「石橋が、でございますか」


 「役人が端から部屋を押さえておるのよ。おれたちは軒下だ」


 わたくしは外套を掛ける鉤の間を、拳ひとつぶん空けました。詰めて掛けると乾きません。


 三名に湯を使わせて、粥を出して、薪を二本足しました。


 厨へ戻りますと、マノンが戸の方へ鼻を向けております。


 「今夜のは、鉄と、濡れた麻ですねえ」


 「はい」


 「……それと、もう一つ」


 わたくしは、戸の方を見ました。


 「坂の下ですよ。歩きです」


 馬の足音はいたしません。荷車の軋みもしません。坂の砂利を踏む音が一人分だけ、こちらへ上がってまいります。


 戸が鳴りました。


 開けますと、ロラン様が立っておいででした。


 外套が肩から腿まで濡れて、色が変わっております。


 裾に泥が跳ねているのは、乗合の荷車を石橋で降りて、そこから歩いていらしたからでしょう。


 「……こんばんは」


 「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」


 ロラン様が、わたくしの顔をご覧になりました。それから、ご自分の裾をご覧になりました。


 「泊まりに来たわけではない。……灯を、返しに来た」


 外套の下から、雪の晩にお貸しした灯が出てまいりました。油はきれいに足してございます。


 「濡れた方は、まず乾かします。お話は、そのあとで伺います」


 乾かし場に掛けますと、袖口から水が落ちて、炭の上で鳴りました。


 伯爵家の外套は裏に毛皮が入っております。毛皮は一晩では乾きません。裏を返して、火からこれくらい離して、途中で一度向きを変える。父のやり方です。


 馬はどうなさいましたか、とは伺いませんでした。伺わなくても、裾の泥でわかります。


 「……ジョスに、石橋まで乗せてもらった」


 「さようでございますか」


 「父上には言っていない。ヴィオレットにも」


 わたくしは、うなずきました。


 麦湯を注いで、卓に置きました。ロラン様は椀を両手で持って、しばらく持ったままでいらっしゃいました。


 「屋敷が、回らない」


 椀の縁を、親指でなぞっておいでです。


 「西街道の荷が、うちを通らなくなった。峠の宿の話が流れてから、問屋がみな向こうについた。……帳面が、読めないんだ」


 「読めない、とは」


 「文字は読める。だが、どの数字がどこから来て、どこへ出ていくのかがわからない。父上もわからない。三年、君が見ていたところだ」


 わたくしは、卓の上の皿を数えました。


 六枚。馬方の方が三名で、三枚。あとの三枚は、明日の朝に使います。


 「戻ってきてくれ」


 「……」


 「妻としてとは言わない。そういう話ではないのはわかっている。帳面だけでいい。月に幾日か、屋敷へ来てくれればいい。宿はそのままでいい。人を雇えばいいだろう」


 わたくしは、椀を拭く布を取りました。


 「君には感謝している。三年、本当にありがとう」


 布を持ったまま、手が止まりました。


 拭き終わっても、置きませんでした。


 厨の方で、マノンが何か言いかけました。わたくしがそちらを見ますと、口を閉じて、鍋の蓋を持ち直します。蓋が縁に当たって、小さな音を立てました。


 戸が、鳴りました。


 二度、間を置いて、もう一度。叩き方が違います。


 開けますと、ヴィオレット様が立っておいででした。髪から水が落ちております。


 乗合の馬車は日暮れで終いです。この方も歩きです。


 「……ヴィオレット」


 「あの、勝手に来ました。お屋敷には、お使いに出ると……」


 「まず、乾かし場へどうぞ。お履物はそこでお脱ぎください。中は石でございますので、濡れたままですと足から冷えます」


 ヴィオレット様は言われた通りに靴を脱ぎ、わたくしの方をご覧になりました。


 「イレーヌさん。……伺ってもよろしいですか」


 「はい」


 「ご婚礼の夜、あの人は、寝室の扉の前で足をお止めになりましたか」


 わたくしは、答えませんでした。


 「わたし、そうでした」


 「ヴィオレット、やめなさい」


 「済まないが、と、おっしゃいました。今はまだ、と。……三年待たせた自分が、今すぐには、と」


 ロラン様が、椅子を引かれました。ヴィオレット様は、その音の方をご覧になりませんでした。


 「わたし、婚礼の朝に気づいたんです。いえ、本当は、もっと前から。……あの人が好きなのは、わたしではないんです。わたしのために三年我慢していらっしゃる、ご自分なんです」


 ロラン様が、名前をお呼びになりました。


 「だから、わたしに触れると、終わってしまうんです。三年我慢した人でなくなってしまいますから」


 「私は、君たちを大事にしてきたつもりだ」


 「存じております。……つもりでいらしたことは、存じております」


 ヴィオレット様が、袖の水を絞られました。


 「わたし、気づいていて、黙っておりました。三年、黙っておりました。ですから、わたしも同じです。……イレーヌさん、わたし、あの日、あなたにお礼を申し上げてはいけない人でした」


 厨で、鍋が煮立ちました。わたくしは火から下ろして、蓋を少しずらしました。


 「ロラン様」


 「……ああ」


 「わたくしは、この宿の主でございます。宿の主は、宿を空けられません」


 「人を雇えと言っている」


 「雇った方は、峠の雪がいつ緩むか存じません。存じない方に帳場を任せて屋敷へ通いますのは、宿を閉めるのと同じでございます」


 ロラン様が、椀を置かれました。中身は減っておりません。


 「……もう、遅いか」


 「はい。もう遅うございます」


 使えるのは一の間だけでございます。二の間は天井板が落ち、三の間は梁が湿っております。そこへ、馬方が三名。


 わたくしは一の間の戸を叩いて、あと二名お入りいただくことを先にお断りいたしました。文句は出ませんでした。夜の雨の中へ人を出す宿を、街道の者は嫌います。


 「泊まれと」


 「峠の南側は、この雨で肩が落ちております。夜に歩く道ではございません」


 「……君は」


 ロラン様は、そこで言葉をお切りになりました。


 三年のあいだ、この方はわたくしを名前でお呼びになったことがありません。今夜も、そうでした。


 朝は晴れました。


 軒から落ちる雫が、土間の敷石に穴を作っております。外套の毛皮は乾いておりました。


 「お二人で、一泊、湯と食事つき。締めて銀貨で、二十六でございます」


 ロラン様が財布を出されました。中をご覧になって、全部お出しになりました。


 「……掛けには、してくれないのか」


 「いたしません。うちは、初めてのお客様に掛けはお受けしないことにしております」


 「初めての、客か」


 「はい。宿帳に、お名前がございませんので」


 握り飯を二つずつ包んで、石橋まで戻るなら川沿いを上がる方がよいことをお伝えしました。


 峠から来る方にも、峠へ行く方にも、道の話をするのが宿の仕事です。


 ヴィオレット様が、戸口で頭を下げられました。


 「お世話になりました」


 「またのお越しをお待ちしております」


 二人が、坂を下りていきました。


 ロラン様は振り返らず、ヴィオレット様は一度だけ屋根をご覧になりました。葺き直したところだけ、藁の色が新しうございます。


 マノンが、わたくしの隣に立ちました。


 「一度くらい、怒鳴っておやりになればよかったのに」


 「怒鳴りましたら、書斎の鍵は回ってまいりませんでした」


 「……はい?」


 「あのお屋敷で声を荒らげた者は、翌日から帳面を外されます。外されたら、婚姻契約の綴りは読めません。読めなければ、第九条は写せません。写せなければ、この宿は今ごろ、どなたか存じ上げない方のものでございます」


 マノンが、鍋の蓋を置きました。


 「怒らなかったから、宿が残りました。それだけのことでございます」


 「……三年、そのために黙っていらしたんですか」


 「そのためだけではございません。ただ、順番はその通りでございました」


 馬方の三名が、荷を積みながら話しておりました。


 「石橋の役人な。ありゃ街道局じゃないぞ」


 「王都の紋の馬車が二台、昨日の朝に入ったそうで」


 わたくしは厩へ行って、荷を縛る紐を渡しました。


 「そのお役人様は、どちらにお泊まりでございますか」


 「宿場の一番奥だ。街道局の検分官殿が、昨日から一度も外へ出ておられん」


 乾かし場の炭は、まだ熾っておりました。新しい炭を足して、鉤の数を見ました。


 六つあります。


 峠は、明日にも開きます。開けば、石橋からここまでは半日でございます。

 次話「銀の梯子亭、開いております」では、街道局の検分官が坂を上がってきます。


 手には、この宿の名の書かれた紙が一枚。

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