第19話 もう遅い
雨でした。
峠の雪が緩むころの雨は、上から落ちるというより、横から吹きつけてまいります。屋根を打つ音がしませんので、戸を開けるまで降っているとわかりません。
朝のうちに乾かし場の炭を熾しておいたのは、風の向きが昨日と変わっていたからでございます。
馬方が三名、日の暮れる前に入りました。
一の間 馬方三名 薪多め 外套は乾かし場へ
顔:先頭の方、左の耳の縁が欠けている
匂い:濡れた麻と、鉄
荷に蹄鉄を積んでいる方々でした。鉄は湿ると匂いが立ちますので、乾かし場には入れず、厨の梁の下に吊るしていただきました。この建物でいちばん風の通る場所です。
「濡れた物は、こちらでお預かりします。朝には乾いております」
「助かる。石橋は、どこも一杯でな」
「石橋が、でございますか」
「役人が端から部屋を押さえておるのよ。おれたちは軒下だ」
わたくしは外套を掛ける鉤の間を、拳ひとつぶん空けました。詰めて掛けると乾きません。
三名に湯を使わせて、粥を出して、薪を二本足しました。
厨へ戻りますと、マノンが戸の方へ鼻を向けております。
「今夜のは、鉄と、濡れた麻ですねえ」
「はい」
「……それと、もう一つ」
わたくしは、戸の方を見ました。
「坂の下ですよ。歩きです」
馬の足音はいたしません。荷車の軋みもしません。坂の砂利を踏む音が一人分だけ、こちらへ上がってまいります。
戸が鳴りました。
開けますと、ロラン様が立っておいででした。
外套が肩から腿まで濡れて、色が変わっております。
裾に泥が跳ねているのは、乗合の荷車を石橋で降りて、そこから歩いていらしたからでしょう。
「……こんばんは」
「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」
ロラン様が、わたくしの顔をご覧になりました。それから、ご自分の裾をご覧になりました。
「泊まりに来たわけではない。……灯を、返しに来た」
外套の下から、雪の晩にお貸しした灯が出てまいりました。油はきれいに足してございます。
「濡れた方は、まず乾かします。お話は、そのあとで伺います」
乾かし場に掛けますと、袖口から水が落ちて、炭の上で鳴りました。
伯爵家の外套は裏に毛皮が入っております。毛皮は一晩では乾きません。裏を返して、火からこれくらい離して、途中で一度向きを変える。父のやり方です。
馬はどうなさいましたか、とは伺いませんでした。伺わなくても、裾の泥でわかります。
「……ジョスに、石橋まで乗せてもらった」
「さようでございますか」
「父上には言っていない。ヴィオレットにも」
わたくしは、うなずきました。
麦湯を注いで、卓に置きました。ロラン様は椀を両手で持って、しばらく持ったままでいらっしゃいました。
「屋敷が、回らない」
椀の縁を、親指でなぞっておいでです。
「西街道の荷が、うちを通らなくなった。峠の宿の話が流れてから、問屋がみな向こうについた。……帳面が、読めないんだ」
「読めない、とは」
「文字は読める。だが、どの数字がどこから来て、どこへ出ていくのかがわからない。父上もわからない。三年、君が見ていたところだ」
わたくしは、卓の上の皿を数えました。
六枚。馬方の方が三名で、三枚。あとの三枚は、明日の朝に使います。
「戻ってきてくれ」
「……」
「妻としてとは言わない。そういう話ではないのはわかっている。帳面だけでいい。月に幾日か、屋敷へ来てくれればいい。宿はそのままでいい。人を雇えばいいだろう」
わたくしは、椀を拭く布を取りました。
「君には感謝している。三年、本当にありがとう」
布を持ったまま、手が止まりました。
拭き終わっても、置きませんでした。
厨の方で、マノンが何か言いかけました。わたくしがそちらを見ますと、口を閉じて、鍋の蓋を持ち直します。蓋が縁に当たって、小さな音を立てました。
戸が、鳴りました。
二度、間を置いて、もう一度。叩き方が違います。
開けますと、ヴィオレット様が立っておいででした。髪から水が落ちております。
乗合の馬車は日暮れで終いです。この方も歩きです。
「……ヴィオレット」
「あの、勝手に来ました。お屋敷には、お使いに出ると……」
「まず、乾かし場へどうぞ。お履物はそこでお脱ぎください。中は石でございますので、濡れたままですと足から冷えます」
ヴィオレット様は言われた通りに靴を脱ぎ、わたくしの方をご覧になりました。
「イレーヌさん。……伺ってもよろしいですか」
「はい」
「ご婚礼の夜、あの人は、寝室の扉の前で足をお止めになりましたか」
わたくしは、答えませんでした。
「わたし、そうでした」
「ヴィオレット、やめなさい」
「済まないが、と、おっしゃいました。今はまだ、と。……三年待たせた自分が、今すぐには、と」
ロラン様が、椅子を引かれました。ヴィオレット様は、その音の方をご覧になりませんでした。
「わたし、婚礼の朝に気づいたんです。いえ、本当は、もっと前から。……あの人が好きなのは、わたしではないんです。わたしのために三年我慢していらっしゃる、ご自分なんです」
ロラン様が、名前をお呼びになりました。
「だから、わたしに触れると、終わってしまうんです。三年我慢した人でなくなってしまいますから」
「私は、君たちを大事にしてきたつもりだ」
「存じております。……つもりでいらしたことは、存じております」
ヴィオレット様が、袖の水を絞られました。
「わたし、気づいていて、黙っておりました。三年、黙っておりました。ですから、わたしも同じです。……イレーヌさん、わたし、あの日、あなたにお礼を申し上げてはいけない人でした」
厨で、鍋が煮立ちました。わたくしは火から下ろして、蓋を少しずらしました。
「ロラン様」
「……ああ」
「わたくしは、この宿の主でございます。宿の主は、宿を空けられません」
「人を雇えと言っている」
「雇った方は、峠の雪がいつ緩むか存じません。存じない方に帳場を任せて屋敷へ通いますのは、宿を閉めるのと同じでございます」
ロラン様が、椀を置かれました。中身は減っておりません。
「……もう、遅いか」
「はい。もう遅うございます」
使えるのは一の間だけでございます。二の間は天井板が落ち、三の間は梁が湿っております。そこへ、馬方が三名。
わたくしは一の間の戸を叩いて、あと二名お入りいただくことを先にお断りいたしました。文句は出ませんでした。夜の雨の中へ人を出す宿を、街道の者は嫌います。
「泊まれと」
「峠の南側は、この雨で肩が落ちております。夜に歩く道ではございません」
「……君は」
ロラン様は、そこで言葉をお切りになりました。
三年のあいだ、この方はわたくしを名前でお呼びになったことがありません。今夜も、そうでした。
朝は晴れました。
軒から落ちる雫が、土間の敷石に穴を作っております。外套の毛皮は乾いておりました。
「お二人で、一泊、湯と食事つき。締めて銀貨で、二十六でございます」
ロラン様が財布を出されました。中をご覧になって、全部お出しになりました。
「……掛けには、してくれないのか」
「いたしません。うちは、初めてのお客様に掛けはお受けしないことにしております」
「初めての、客か」
「はい。宿帳に、お名前がございませんので」
握り飯を二つずつ包んで、石橋まで戻るなら川沿いを上がる方がよいことをお伝えしました。
峠から来る方にも、峠へ行く方にも、道の話をするのが宿の仕事です。
ヴィオレット様が、戸口で頭を下げられました。
「お世話になりました」
「またのお越しをお待ちしております」
二人が、坂を下りていきました。
ロラン様は振り返らず、ヴィオレット様は一度だけ屋根をご覧になりました。葺き直したところだけ、藁の色が新しうございます。
マノンが、わたくしの隣に立ちました。
「一度くらい、怒鳴っておやりになればよかったのに」
「怒鳴りましたら、書斎の鍵は回ってまいりませんでした」
「……はい?」
「あのお屋敷で声を荒らげた者は、翌日から帳面を外されます。外されたら、婚姻契約の綴りは読めません。読めなければ、第九条は写せません。写せなければ、この宿は今ごろ、どなたか存じ上げない方のものでございます」
マノンが、鍋の蓋を置きました。
「怒らなかったから、宿が残りました。それだけのことでございます」
「……三年、そのために黙っていらしたんですか」
「そのためだけではございません。ただ、順番はその通りでございました」
馬方の三名が、荷を積みながら話しておりました。
「石橋の役人な。ありゃ街道局じゃないぞ」
「王都の紋の馬車が二台、昨日の朝に入ったそうで」
わたくしは厩へ行って、荷を縛る紐を渡しました。
「そのお役人様は、どちらにお泊まりでございますか」
「宿場の一番奥だ。街道局の検分官殿が、昨日から一度も外へ出ておられん」
乾かし場の炭は、まだ熾っておりました。新しい炭を足して、鉤の数を見ました。
六つあります。
峠は、明日にも開きます。開けば、石橋からここまでは半日でございます。
次話「銀の梯子亭、開いております」では、街道局の検分官が坂を上がってきます。
手には、この宿の名の書かれた紙が一枚。




