↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/28

第20話 銀の梯子亭、開いております

 峠が開いた朝は、音でわかります。


 軒の雪が一晩で落ちて、屋根の藁が鳴らなくなります。厩の裏の樋に水が通って、細い音がひとつ増えます。それから、坂の下の泥が緩んで、車輪の音が乾いた音から重い音に変わります。


 わたくしは戸を全部開けました。


 風を通さないと、冬のあいだ人が寝ていた部屋は匂いが残ります。客が最初に嗅ぐのは、飯でも湯でもなく、その部屋の匂いでございます。


 「一の間の毛布、ぜんぶ外に出しますよ」


 「お願いいたします。三の間の梁も、今日なら乾きます」


 「あそこはまだ使えませんね」


 「はい。夏までに直します」


 マノンが毛布を抱えて出ていきました。この人は毛布を六枚まで一度に持ちます。七枚目を渡すと、必ず一枚落とします。


 湯屋の灰をかき出して、厩の藁を入れ替えました。冬を越した藁は下の方が湿っていて、そこだけ色が濃くなっております。濡れた藁を敷いたままにいたしますと、馬の蹄が柔らかくなって、峠の岩で割れます。


 朝いちばんの客は、荷方でした。


 荷車が一台。馬が二頭。降りてきたのは痩せた男で、右の小指が短うございました。


 「……お久しぶりでございます」


 「三年前の分と、去年の秋の分だ」


 ジョスさんが、布の包みを帳場に置きました。開けますと、銀貨が並んでおりました。


 わたくしは宿帳に挟んでおいた証文を出して、二枚とも破りました。破った紙は炭にくべます。父はそうしておりました。払った客に、払った証拠を持たせない。次に来やすいようにするためだそうです。


 「サンドラールの荷方は、辞めました」


 「さようでございますか」


 「石橋の問屋に拾ってもらいましてね。あちらは西街道の指定から外れましたから、荷が動かんのですよ。動かない荷を守っても、飯は食えません」


 「峠を越えるのでしたら、塩を一つまみ多く入れておきます」


 「……前の主人も、そう言っていた」


 ジョスさんは麦湯を飲んで、荷車を出していきました。坂の下で一度止まって、こちらを振り返りました。振り返る客は、また来ます。


 昼前に、馬が一頭、上がってまいりました。


 ユーグ様でした。


 外套の裾に、泥がほとんどついておりません。川沿いを上がって、崩れた肩を避けて来た方のつき方です。この方は道をご存じです。


 ジャンが厩から出てきて、黙って手綱を受け取りました。この子は客に挨拶をいたしませんが、馬の前脚を必ず先に見ます。見てから、水を出すか、しばらく待たせるかを決めております。


 「街道局です」


 「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」


 「検分ではない」


 ユーグ様は懐から紙を出して、帳場の台に置きました。折り目が四つ。局の封蝋が押してあります。


 「読む」


 「はい」


 「西街道、峠南口。銀の梯子亭。一等宿として認可する」


 紙の上を、指がゆっくり動きました。


 「主、イレーヌ・ラフォン」


 厨で、何かが落ちました。マノンが拾う音がして、それから、拾ったものを置く音がしました。


 三年のあいだ、わたくしの名前を声に出す方は、屋敷におりませんでした。おまえ、あれ、そこの者。名前は書付の隅にだけございました。


 紙の上のそれは、書付の隅ではございませんでした。いちばん上でございます。


 「……ありがとうございます」


 「私が決めたのではない。地形が決めた」


 「はい」


 「峠の南斜面は三十年前に一度崩れている。付け替えは認可できない。道が今のままなら、峠の手前に一等宿が要る。局はそう判断した」


 「父の帳面は」


 「写しを取って、局に置いた。原本は返す。これは宿の物だ」


 油紙の包みを受け取りました。表紙の角が擦れて、丸くなっております。父はこれを帳場の下の抽斗に入れて、客が帰るたびに一行ずつ書き足しておりました。


 わたくしが十のころ、父に一度だけ尋ねたことがございます。うちは客が少ないのに、どうして道の話ばかり書くのですか、と。


 父はこう申しました。宿は、通る人のためにあるので、泊まる人のためにあるのではない。


 当時は意味がわかりませんでした。今朝の紙には、それが役所の言葉で書いてございました。通行の便に供すること、と。


 「もう一つある」


 「はい」


 「王都から使者が来ている。街道局にではなく、街道そのものに」


 「……街道に、でございますか」


 「秋に、王室の巡行が西街道を通る。峠を越える。越える前に一泊する」


 マノンが厨から顔を出しました。手が濡れております。


 「一泊、と申しますと」


 「一等宿に泊まる。西街道の峠の手前で一等宿はここだけだ」


 「何人でございましょう」


 「まだわからん。数十では済まん」


 厩の二階に藁を上げれば、供の方々は寝られます。湯は一度に四人ずつ、三度に分けます。麦は秋までに石橋の問屋へ言っておかねばなりません。塩は樽ごとです。頭の中で数えたのはそこまでで、あとは紙に書かないと間違えます。


 わたくしは、帳場の柱に手を置きました。この柱は父が三度直しております。三度目に直したとき、父は釘を使わず、木を差し替えました。釘は錆びて、いつか抜けるからだそうです。


 「二の間の天井板と、三の間の梁を、夏までに」


 「間に合うか」


 「間に合わせます」


 ユーグ様が、少しだけ口の端を動かしました。笑ったのだと気づいたのは、あとになってからです。


 「良い宿だ。人が通るように出来ている」


 この方は宿を褒めるとき、飯の話も、部屋の話もなさいません。道の話をなさいます。屋敷で三年、わたくしが言われたのは、助かる、という言葉だけでございました。


 ユーグ様が、銀貨を二枚、台に置かれました。


 「宿代だ」


 「本日はまだ、何もお出ししておりませんが」


 「三年前の分だ。名乗らずに出た。払っていない」


 わたくしは宿帳を開きました。新しい頁の、いちばん上です。父の書式には、名前と人数のほかに、顔と匂いの欄がございます。


 「お名前を伺ってもよろしいですか」


 「知っているだろう」


 「宿帳でございますので」


 ユーグ様が筆を取って、お書きになりました。ユーグ・ドルレアン。字は小さく、右が上がっております。


 「顔の欄は、なんと書けばいい」


 「そちらは、わたくしどもが書きます」


 マノンが、鼻を鳴らしました。


 「今夜のは、雪解けと、麦の匂いですねえ。……三年前と同じだ」


 「覚えているのか」


 「顔は忘れました。匂いは忘れません」


 わたくしは顔の欄に、右の口の端だけで笑う方、と書きました。匂いの欄には、雪解けと麦、と。


 「次に来るときは、検分ではない」


 「はい」


 「客だ」


 「一の間を、空けてお待ちしております」


 冬のあいだ、あの部屋は満室でした。満室でしたので、お泊めできなかった方がございます。あの晩に断った戸口と、今立っている戸口は、同じ場所でございます。


 ユーグ様は馬を引いて、坂を下りていかれました。


 帳場に戻って、抽斗を開けました。


 いちばん奥に、折り目の毛羽立った紙が一枚入っております。婚姻契約の第九条の写しでございます。もう使いません。使いませんが、捨てません。その隣に、局の紙を置きました。


 棚の上には、油紙の束が並んでおります。三年分の手紙です。マノンが梁に上げていたものを、下ろして、日付の順に並べました。読めない人が三年守ったものを、読める人が捨てるわけにはまいりません。


 暖炉の薪が、一本崩れました。


 わたくしは立ち上がって、火箸で直しました。手前に少し引いて、下の熾に空気の道を作って、燃えている面を上に向ける。父のやり方です。直して、椅子に戻りました。


 「何本でした」


 マノンが厨から声をかけてきました。


 わたくしは暖炉を見ました。それから、しばらく考えました。


 「……数えておりませんでした」


 「そうですか」


 それだけでございました。マノンは鍋に蓋をして、明日の粥のために麦を量り始めました。


 外で、車輪の音がしました。


 乾いた音ではありません。荷を積んだまま峠を越えてきた車の音です。坂の下で御者が首を伸ばして、灯の方を見ております。


 馬が四頭。人は、見えるところで六人。荷の覆いが濡れておりますから、峠の上でひと降り来たのでしょう。乾かし場の炭は、朝から熾してございます。


 わたくしは土間へ下りて、戸を大きく開けました。


 「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます。開いております」

 秋に、西街道を王室の馬車が通るそうです。

 その前に、二の間の天井板を直さなければなりません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。