第21話 一の間を、空けてお待ちしておりました
夏の朝は、屋根の上から音がしてまいります。
大工が三人、二の間の真上に乗っております。藁を葺き直したのは春でございました。その下の天井板は落ちたままで、冬のあいだは帆布を張って過ごしました。
帆布は雨をしのぎますが、埃を落とします。落ちた埃は寝台に積もりますので、二の間には客をお通ししておりません。
厨の戸口から声が飛んでまいりました。
「イレーヌお嬢さん、毛布はどうします」
「六枚だけ、日に当ててください」
「七枚ありますよ」
「六枚で」
マノンは毛布を六枚まで一度に持ちます。七枚目は持てません。渡しますと、必ず一枚落とします。
落ちた一枚は土間に触れます。土間の土は厩から靴で運ばれてまいりますので、洗い直しになります。洗えば一日、乾くのに半日。夏でも、それだけの手間でございます。
この人は落としたことを認めません。ですから枚数のほうを直します。
「あたしを年寄り扱いなさるんですか」
「勘定でございます」
「勘定ならしかたありませんね」
マノンは六枚を抱えて出ていきました。厩の南側の柵に掛けますと、昼までに乾きます。北側は日が回りませんので、掛けても匂いが抜けません。
親方が梯子を下りてきて、土間の甕で手を洗いました。手を拭く布は、大工の方には麻の古いものをお出しします。松脂がつきますと、洗っても落ちませんので。
親方は布を返して、指の腹で桟の乾き具合を確かめました。
「天井板な、二枚だけ替えるってわけにはいかん」
「と、申しますと」
「あの部屋は板を桟に載せてあるだけだ。一枚外すと、隣も落ちる。全部外して、載せ直しだ」
板を全部外すとなりますと、埃は二の間だけでは済みません。
「そうしますと、部屋は何日使えませんか」
「四日、いや五日は見てくれ」
わたくしは帳場へ戻って、宿帳の先を繰りました。
二の間が使えない五日のあいだに、峠を越える荷がどれだけ通るかを数えます。数えるのは去年の同じ頃の頁でございます。麦の刈り入れの前は荷が少なく、五日で八組。一の間と三の間だけで足ります。
「では、明後日からお願いいたします」
「早いな」
「刈り入れが始まりますと、五日はいただけませんので」
親方が笑って、梯子を担ぎ直しました。
外へ出ますと、看板が日に灼けておりました。
梯子の絵でございます。段は七つ。いちばん上の段だけが、他より太く描いてあります。父がそう描かせました。太い段は、そこから先は自分の足で登れという意味だと申しておりましたが、本当かどうかは存じません。
夏の日は絵の具を早く乾かします。秋になりますと、二日は触れません。
「塗り直すなら、いまのうちですよ」
マノンが柵の向こうから声を寄越しました。
「石橋の絵描きが、段を足したらどうかと言っておりましたねえ。一等宿になったんだから、八つに」
わたくしは看板の下まで行って、いちばん上の段を指でなぞります。塗りの薄いところが、爪に引っかかります。
「七つのままにいたします」
「なぜです」
「父が七つにいたしましたので」
絵の具だけ買って、線をなぞることにいたしました。
段を足しますと、看板を見上げた客が段を数えます。数えているあいだ、その方は宿に入りません。坂の上で足を止めさせるものは、少ないほどよろしゅうございます。
昼前に、馬が一頭、坂を上がってまいりました。
ジャンが厩から出てきて、黙って手綱を受け取りました。この子は先に馬の前脚を見ます。見てから、水を出すか、しばらく待たせるかを決めます。
外套に泥がついておりません。川沿いを上がって、崩れた肩を避けて来た方のつき方です。この道を知っている方は、街道の者か、街道を測った者のどちらかでございます。
わたくしは土間へ下りて、戸を大きく開けました。
「銀の梯子亭でございます」
「客だ」
「はい。うけたまわりました」
ユーグ様は帳場の前に立って、それきり何もおっしゃいませんでした。
わたくしは宿帳を開いて、新しい頁のいちばん上を指しました。父の書式には、名前と人数のほかに、顔と匂いの欄がございます。
筆と硯を、客のほうへ向けて置きます。父から、そう教わりました。
「お名前を、頂戴いたします」
「この前、書いた」
「あれは、三年前の分でございます」
筆を取って、お書きになりました。ユーグ・ドルレアン。字は小さく、右が上がっております。
書き終わるまで、こちらからは何も申しません。
「一の間へどうぞ。空けてございます」
「今日でなくてもよかっただろう」
「一の間は、いつも空けてございます」
マノンが厨から顔だけ出しました。手が濡れております。
「冬から空いておりますよ。誰にも使わせやしません」
「マノン」
「あたしは事実しか申しません」
ユーグ様が、荷を肩から下ろされました。荷は小さく、外套と、紙の束と、それだけでございます。
夕方までのあいだ、この方は宿の中を見て回りませんでした。梁も見ませんし、桟も見ません。一の間の窓を開けて、坂の下を眺めておいででした。
検分にいらしたときは、まず天井をご覧になりました。次に床の傾きを、そのあとで人の顔を。順が変わったことに気づいたのは、湯を沸かしているときでございます。
湯屋の戸を開けて、湯気を一度外へ逃がしました。こもったままですと、最初に入る方が息を詰めます。
「湯が沸きました。今日はお一人でございますから、いつでもどうぞ」
「順は」
「ございません」
「……そうか」
この方は湯の順を必ずお尋ねになります。検分のときの癖でございましょう。順を答えなくてよい日が、ご自分でも落ち着かないようでした。
夕餉は、麦の粥と、川魚を焼いたものと、豆を煮たものにいたしました。塩は峠を越える方には多めにいたしますが、今夜は控えました。明日、坂を下るだけの方に塩を利かせますと、喉が渇いて眠りが浅くなります。
膳を下げようとしたところで、呼び止められました。
「一つ、伝えることがある」
「はい」
「あんたの父上の帳面な。写しを局に置いた、と春に言った」
「うかがいました」
「あれが王都へ回った。街道の会議で読まれている」
わたくしは、箸を置きました。
「父の字が、でございますか」
「写しだ。字は書記のものだ。だが中身はそのままだ」
「……さようでございますか」
父は帳場の下の抽斗に帳面を入れておりました。客が帰るたびに、一行ずつ書き足します。
わたくしが十のころ、うちは客が少ないのに、どうして道の話ばかり書くのですかと尋ねたことがございます。父はこう申しました。宿は、通る人のためにあるので、泊まる人のためにあるのではない。
当時は意味がわかりませんでした。その帳面が、いま王都で読まれているそうでございます。
麦湯を注ぎ足しました。注ぎ足すあいだ、この方は待っておいででした。
「もう一つある」
「はい」
「秋の巡行の日取りが決まった。西街道を通る。峠を越える前に、一泊する」
「うけたまわっております」
「先触れが王都を出た。宮内府の設営掛だ」
マノンが、鍋の蓋を置きました。
蓋を置く音が、厨の板の上でひとつ鳴りました。
「設営掛と申しますと」
「巡行の宿と道を整える役だ。三十日ばかり前に入って、あれこれ指図していく」
「うちは、宿でございますが」
「そうだ」
ユーグ様が、湯呑を置かれました。置き方が、少しだけ強うございました。
「そこを間違えん者ばかりではない」
「と、おっしゃいますと」
「宿の話を、宿にしない者がいる。寸法と数だけ書いて帰る」
わたくしは、卓の上の皿を数えました。
五枚。今夜のお客様はお一人でございますから、二枚は明日の朝に使います。あとの三枚は、明後日から大工の方々にお出しします。数えなくてもわかる数を数えるのは、父に似た癖でございます。
皿を重ねて、布巾を掛けました。
「その方は、どちらにお泊まりでございましょう」
「石橋だ。ここには泊まらん」
「なぜでございますか」
「泊まる者は、宿の言うことを聞くからだ」
夜のあいだ、一の間の灯は早く落ちました。この方は長く起きている方ではございません。
朝、ユーグ様は宿代を置いて、坂を下りていかれました。
銀貨で一枚と十二。一泊、湯と食事つきの値でございます。まけてくれとも、掛けにしてくれともおっしゃいませんでした。
坂の下で一度お止まりになって、こちらを振り返られました。振り返る客は、また来ます。
土間に戻りますと、マノンが毛布を畳んでおりました。七枚目が、板間の隅に落ちておりました。
拾い上げますと、端が土間の土で薄く汚れております。
「六枚と申し上げました」
「一枚は、一の間の分ですよ。使ったんですから、洗います」
三日後、石橋に宮内府の馬車が入ります。
降りてきた方は、宿の梁も、湯も、飯もご覧になりません。




