第22話 規式
馬車が坂を上がってくる音は、荷車と違います。
車輪が細く、輪の縁に鉄を巻いてありますので、砂利を弾く音が高くなります。荷を積んでおりませんから、坂でも速さが落ちません。
わたくしは大工に声をかけて、梯子を厩の陰へ寄せていただきました。玄関の前に梯子が立っておりますと、客は入りにくうございます。
マノンが柵の毛布を取り込みながら坂を見ております。
「二頭立てですねえ」
「はい」
この人は馬の話になると数を間違えません。字は読めませんが日数は数えます。
「石橋の宿場からここまで、荷なしで半日。急いでおいでだ」
マノンが前掛けで手を拭いて、鼻を鳴らしました。
「……匂いがしません」
「と、申しますと」
「馬の汗の匂いはします。人のほうがしません」
馬車が、坂の上で止まりました。扉が開きます。
降りてきたのは背の高い方でございます。外套は旅の埃で灰色になっておりましたが、襟だけが黒く、そこだけ新しいものに見えました。
名乗りが先で、挨拶は、ございませんでした。
「宮内府、巡行設営掛。アンリ・ヴァレンヌ」
「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」
わたくしは前掛けを外して、両手を前で揃えました。
「主は」
「わたくしでございます」
ヴァレンヌ様は、わたくしの顔をご覧になりませんでした。ご覧になったのは玄関の高さと、その上の梁でございます。
主は、と問われて答えたのに、そのお言葉が返ってまいりました。
「宿の者、中を見る」
「どうぞ。お履物はそのままで結構でございます」
この方は土間に立ったまま、懐から帳面を出されました。表紙が厚く、角に金の縁が入っております。開くと、紙が重うございました。
先に立って廊下を進みます。戸は全部開けておきました。
「一の間」
「こちらでございます」
「間口九尺。天井、七尺二寸。窓一。寝台六」
書き取る音が続きます。筆ではなく、鉛でございました。鉛は湿った紙にも書けますので、旅の役人がよく使います。
鉛の先が紙をこする音は、筆より速うございます。
「二の間」
「ただいま普請中でございます。天井板を載せ直しております」
板は厩の壁に立てかけてございます。乾かしてから載せ直す段取りでございました。
「使えぬということか」
「明後日には使えます」
「間口九尺。寝台八。……普請、と」
三の間もご覧になって、梁の湿りを指で確かめられました。確かめたあと、指を拭かずに帳面を持ち直されました。
湯屋と厨と厩をご覧になって、それから帳場へ戻ってこられます。
帳場の高さは父が決めました。立った客の胸のあたりで、書くのに丁度よい高さでございます。
「宿帳を」
「どうぞ」
わたくしは宿帳を開いて、客のほうへ向けて置きました。
ヴァレンヌ様は、頁を三枚めくって、止まりました。止まった先は、名前と人数の右にある二つの欄でございます。
指が、欄の枠をなぞりました。爪が短く切ってございます。
「これは何だ」
「顔と、匂いの欄でございます」
「宿帳に書く欄ではない」
「父が定めた書式でございます」
「何のために書く」
「二度目にお越しになったとき、お名前より先に思い出せますので」
この方は、そこで初めて顔を上げられました。上げて、すぐに帳面へ戻られました。
帳面の頁が、湿った音を立ててめくれました。
「規式を読む」
「はい」
「巡行の三十日前より、宿は設営掛の指図に従う。第三条」
「うけたまわりました」
書き取る手は止まりません。読み上げながら、同じ字を書き足しておいでです。
「巡行の前後三日、宿は一般の客を入れぬこと。第七条」
わたくしは、帳場の柱に手を置きました。
柱は父が三度直しております。三度目に直したとき、父は釘を使わず、木を差し替えました。釘は錆びて、いつか抜けるからだそうです。
柱の木目は、差し替えたところだけ色が違います。父の手の跡でございます。
「三日と申しますと」
「前三日、当日、後三日。合わせて七日だ」
「七日、戸を閉めるということでございますか」
「戸は開けておけ。客を上げるな」
厨で、マノンが何かを置きました。置いた音は小そうございましたが、置いてから動く音がしばらくいたしませんでした。
鉛を耳の上に挟んで、帳面を両手で持ち直されました。
「もう一つある。第十一条」
「はい」
「巡行の随行は、宿帳への記名を免ず」
ヴァレンヌ様は、そこで帳面を閉じられました。
「以上だ。人数は追って知らせる」
湯は朝から落としてございません。設営の方が長くおいでになると思ったからでございます。
「湯を沸かしております。お茶なりと」
「石橋へ戻る」
「峠の風が回りますと、坂の下は冷えます」
「馬車だ」
この方は馬車へ戻って、扉を閉められました。窓は開けられませんでした。
坂を下る音が遠くなってから、マノンが厨から出てまいりました。手に麦の袋を持ったままでございます。
麦の袋の口が開いたままでございます。この人が慌てている印でございます。
「七日、閉めるんですか」
「閉めよ、とは言われておりません」
「客を上げるなと言われたら、同じでしょう」
閉めよと言われれば閉めます。客を上げるなと言われたのなら、そこには誰の名も要りません。
「同じではございません」
わたくしは宿帳を戻して、抽斗から街道局の紙を出しました。春にユーグ様が置いていかれたものでございます。折り目が四つ、局の封蝋が押してございます。
一等宿として認可する、と書いてございます。その下には、細かい字で条が並んでおりました。
紙は厚く、折り目の山だけ字がかすれております。
「何をお読みで」
「認可の紙でございます」
「読んで、どうなります」
「わかりません。ですから読みます」
夕方、荷が三組上がってまいりました。
麦の刈り入れの前でございますので、上るのは空の荷車が多うございます。空の荷車は坂で速く、峠の手前で馬が汗をかきます。
一の間に六名。三の間は梁が湿っておりますので、使いません。二の間は板を外したままでございます。
一の間 馬方六名 薪ふつう 外套は乾かし場へ
顔:先頭の方、左の親指に古い切り傷
匂い:麦藁と、油
乾かし場の炭を熾して、外套を六着掛けました。鉤の間は拳ひとつぶん空けます。
「石橋はどうでした」
わたくしは薪を足しながら、そう伺いました。
「宿場が騒がしいのよ。役人が部屋を端から押さえておる」
「またでございますか」
「またよ。去年の春の役人とは違う紋だがな」
「どちらの紋でございましょう」
「知らん。おれたちは紋を見ん。値を見る」
馬方の方が笑って、湯呑を置かれました。
わたくしは粥をよそう手を止めませんでした。止めますと、聞いた話が客に伝わります。
「値が上がったのよ。石橋の宿代が、先月から三割」
三割と申しますと、一泊で銀貨の十ばかりでございます。峠を越える馬方には重い額でございました。
「うちは上げておりません」
「だから来た」
馬方の方々は、粥を二杯ずつ召し上がって、早くに横になられました。峠を越える前の晩は、皆さま早うございます。
夜、皆が寝ましてから、帳場の灯を一つだけ残しました。
認可の紙を、もう一度はじめから読みました。読んでも、七日のことは書いてございません。書いてあるのは宿の側の義務ばかりでございます。
一等宿は、街道を通る者の求めに応じ、これを宿すべし。
求めに応じ、と書いてございます。断ってはならぬ、とは書いてございません。けれども、応じよと命じる紙は、応じるなと命じる帳面より一枚だけ古うございました。
その一行を、指で押さえました。
押さえたところで、外から音がいたしました。乾いた音ではありません。荷を積んだ車が、坂の下で止まる音でございます。
こんな時刻に上がってくる荷は、石橋で断られた荷でございます。
規式の帳面には、今夜の客のことが書いてございません。
書いていないものは、宿が決めます。




