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白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


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23/29

第23話 今夜のお客様は、規式にございません

 坂の下で止まった車は、四半刻ほど動きませんでした。


 上がってくるか、引き返すか、御者が迷っている時間でございます。迷っている車に灯を振ってはいけません。振れば、値の高い宿だと思われます。


 わたくしは戸を開けたまま、土間の灯芯を一本だけ伸ばしました。


 やがて、車輪が回ります。


 灯芯は伸ばしすぎますと油を食います。半分だけ出して、油皿を戸口の内側へ寄せました。


 「三台ですねえ」


 「はい」


 マノンが鼻を上げて、坂の暗がりを嗅ぎました。


 この人の鼻は、荷より先に中身を当てます。宿帳より速いのは昔からでございます。


 「羊です。生きてる羊の匂いだ」


 「毛でございましょうか」


 「毛は油の匂いがします。これは糞ですよ」


 上がってきたのは荷車が三台と、その後ろを歩く羊が四十頭ばかりでございました。


 秋の毛刈りの前に、峠の向こうの牧へ移す群れでございます。羊は坂を嫌いますので、日のあるうちに越えさせるのが決まりでございました。


 先頭の荷車が土間の前で止まりました。轅を下ろす音が、疲れた音でございます。


 「石橋で、断られました」


 先頭の方が、帽子を取っておっしゃいました。


 「宿場の柵をぜんぶ押さえられておって、羊を入れる場所がない」


 囲いは父が羊のために作ったものではございません。冬に薪を積むための場所でございました。


 「うちの厩の裏に、囲いがございます」


 「何頭入る」


 「五十までは入れました。ただし、水は坂の下から汲み上げになります」


 わたくしはジャンを呼んで、桶と綱を持たせました。この子は羊を見ると、先に群れの後ろへ回ります。前から追うと散ると知っております。


 人は、九名でございました。


 一の間に六名を入れて、残りの三名は板間に藁を敷きました。二の間は板を外したままで、三の間は梁が湿っております。


 「板間で申し訳ございません」


 「軒の下より板間がいい」


 板間は厨の熱が回りますので、藁を敷けば一の間より暖こうございます。ただし朝が早うございます。


 「湯は四人ずつでございます。三度に分けさせていただきます」


 「かまわん」


  一の間 羊方六名 板間三名 囲いに羊四十二

  顔:先頭の方、右の眉に白いものが混じる

  匂い:藁と、獣


 羊は数え直しますと四十二頭でございました。四十と伺っておりましたが、途中で二頭生まれたそうでございます。


 夜半に一度、囲いを見に出ました。


 群れは端から寄って眠ります。真ん中が空くのは、そこが風の通り道だからでございます。父はこれを見て、囲いの北側に板を一枚立てました。板は今もございます。


 朝、粥を出し終えたころに、馬車の音がいたしました。


 細く、高い車輪の音でございます。


 粥の鍋を火から下ろして、蓋をずらしておきました。閉め切りますと水が落ちて味が薄くなります。


 「早うございますねえ」


 「はい」


 「石橋を夜明けに出たんでしょう。誰かが走ったんですよ」


 マノンが前掛けで手を拭いて、厨の奥へ引きました。この人は喧嘩の前になると、必ず火の側へ寄ります。


 ヴァレンヌ様は、馬車を降りるなり囲いをご覧になりました。


 わたくしは前掛けを外して、土間へ下ります。


 「あれは何だ」


 「羊でございます。四十二頭」


 「宿の羊か」


 「お客様の羊でございます」


 この方は帳面を出して、鉛を耳から取られました。


 鉛の先は、昨日より短くなっております。ずいぶん書かれたのでございましょう。


 「規式を読んだはずだ」


 「うけたまわりました」


 「巡行の三十日前より、宿は設営掛の指図に従う」


 「はい」


 わたくしは羊方の方々に朝の湯を運ぶよう、ジャンへ目で頼みました。


 「昨夜、指図はしていない」


 わたくしは帳場へ回って、宿帳を開きます。開いて、客のほうへ向けて置きました。


 「昨夜のお客様は、規式にございません」


 ヴァレンヌ様の鉛が、止まりました。


 「何と言った」


 「規式の帳面に、羊のことは書いてございません。人のことも、日付のことも、昨夜については書いてございません」


 この方の声は、大きくなりません。大きくならない方のほうが、たいてい退きません。


 「書いていないものは、するなという意味だ」


 「宿では、逆でございます」


 わたくしは抽斗から、街道局の紙を出しました。折り目が四つ、封蝋が押してございます。


 紙を広げて、下から三行目を指で押さえました。


 紙の折り目の山は、字がかすれております。読めなくなる前に写しを取らねばなりません。


 「一等宿は、街道を通る者の求めに応じ、これを宿すべし」


 「知っている」


 「昨夜、坂の下で車が止まっておりました。求めがございましたので、応じました」


 わたくしは紙を畳んで、抽斗へ戻しました。広げたままにしておく紙ではございません。


 「巡行の規式が上だ」


 「規式は、いつのものでございましょう」


 この方は、そこで初めてわたくしの顔をご覧になりました。ご覧になった時間は、息を一つ吐くほどでございます。


 先例、というお言葉を、この方は二度お使いになりました。


 「先例に従っている」


 「さようでございますか」


 わたくしは、それ以上お尋ねいたしませんでした。


 尋ねますと、この方はお調べになります。お調べになれば、こちらの分が悪くなるか、よくなるかのどちらかでございますが、どちらであっても今日の羊は峠を越えます。


 羊方の先頭の方が、囲いのほうから出てこられました。


 囲いの水は坂の下から汲み上げます。桶で四つ運べば、羊四十二頭の朝の分でございます。


 「主、水をもう一桶もらえるか」


 「ただいまお持ちします」


 「主」


 ヴァレンヌ様が、その言葉を繰り返されました。


 羊方の方は手を止めて、こちらとあちらを順に見比べておいでです。


 「宿の者だ」


 「宿の者は、あそこの婆さんと小僧でしょう」


 羊方の方は、帽子の縁を持ち上げました。


 「主ってのは、断れる人のことだ」


 厨の奥で、鍋の蓋が鳴りました。マノンが笑ったのだと思います。


 ヴァレンヌ様は帳面に何かを書き足して、閉じられました。


 書き足す音が長うございました。一行では済まない量でございます。


 「巡行の七日は、石橋から人を出す」


 「人と、申しますと」


 「柵の番だ。坂の下に立たせる」


 「坂は街道でございます」


 「街道局の許しは取る」


 馬車が坂を下りていきました。窓は、今日も開きませんでした。


 群れが動き出すまでに、半刻ほどかかりました。羊は、先頭の一頭が坂へ足をかけるまで動きません。


 昼までに羊は峠へ向かいました。囲いの藁を掻き出して、板を洗って、水を汲み直しました。


 銀貨で二枚と八。九名と、羊四十二頭の一泊でございます。羊は一頭につき銅貨で二つ、父の代からの値でございました。


 銅貨は数が多くなりますので、麻の袋に分けて数えます。数え終えるまで客はお待ちになります。


 「値を上げなさらないんですか」


 「上げません」


 「石橋は三割上げましたよ」


 「石橋は、部屋の数が多うございます」


 マノンが桶を抱えて、囲いの水を捨てにいきました。捨てながら、こちらを見ずに申しました。


 水は坂の下の流れへ戻します。囲いの水を厩の側へ捨てますと、馬が飲みたがりますので。


 「あの方、坂に人を立てるとおっしゃいましたね」


 「はい」


 「立てられたら、客はどうします」


 灯は、高いところに置きますと遠くから見えます。低いところに置きますと、近づいた者にだけ見えます。父は雪の晩だけ、灯を軒の梁まで上げておりました。


 わたくしは、乾かし場の鉤を数えました。


 六つございます。冬に足そうと思いながら、まだ足しておりません。足せば、掛けられる外套が二着増えます。


 「坂の下で止まる車が、また出ますでしょう」


 「止まった車は、上がってきますか」


 「わかりません」


 「わからないものを、どうなさるおつもりで」


 「灯を、少し高いところへ移します」

 坂の下に、石橋から来た者が二人立ちました。


 その日から三日、宿の前の道を、荷車が一台も上がってまいりません。

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