第23話 今夜のお客様は、規式にございません
坂の下で止まった車は、四半刻ほど動きませんでした。
上がってくるか、引き返すか、御者が迷っている時間でございます。迷っている車に灯を振ってはいけません。振れば、値の高い宿だと思われます。
わたくしは戸を開けたまま、土間の灯芯を一本だけ伸ばしました。
やがて、車輪が回ります。
灯芯は伸ばしすぎますと油を食います。半分だけ出して、油皿を戸口の内側へ寄せました。
「三台ですねえ」
「はい」
マノンが鼻を上げて、坂の暗がりを嗅ぎました。
この人の鼻は、荷より先に中身を当てます。宿帳より速いのは昔からでございます。
「羊です。生きてる羊の匂いだ」
「毛でございましょうか」
「毛は油の匂いがします。これは糞ですよ」
上がってきたのは荷車が三台と、その後ろを歩く羊が四十頭ばかりでございました。
秋の毛刈りの前に、峠の向こうの牧へ移す群れでございます。羊は坂を嫌いますので、日のあるうちに越えさせるのが決まりでございました。
先頭の荷車が土間の前で止まりました。轅を下ろす音が、疲れた音でございます。
「石橋で、断られました」
先頭の方が、帽子を取っておっしゃいました。
「宿場の柵をぜんぶ押さえられておって、羊を入れる場所がない」
囲いは父が羊のために作ったものではございません。冬に薪を積むための場所でございました。
「うちの厩の裏に、囲いがございます」
「何頭入る」
「五十までは入れました。ただし、水は坂の下から汲み上げになります」
わたくしはジャンを呼んで、桶と綱を持たせました。この子は羊を見ると、先に群れの後ろへ回ります。前から追うと散ると知っております。
人は、九名でございました。
一の間に六名を入れて、残りの三名は板間に藁を敷きました。二の間は板を外したままで、三の間は梁が湿っております。
「板間で申し訳ございません」
「軒の下より板間がいい」
板間は厨の熱が回りますので、藁を敷けば一の間より暖こうございます。ただし朝が早うございます。
「湯は四人ずつでございます。三度に分けさせていただきます」
「かまわん」
一の間 羊方六名 板間三名 囲いに羊四十二
顔:先頭の方、右の眉に白いものが混じる
匂い:藁と、獣
羊は数え直しますと四十二頭でございました。四十と伺っておりましたが、途中で二頭生まれたそうでございます。
夜半に一度、囲いを見に出ました。
群れは端から寄って眠ります。真ん中が空くのは、そこが風の通り道だからでございます。父はこれを見て、囲いの北側に板を一枚立てました。板は今もございます。
朝、粥を出し終えたころに、馬車の音がいたしました。
細く、高い車輪の音でございます。
粥の鍋を火から下ろして、蓋をずらしておきました。閉め切りますと水が落ちて味が薄くなります。
「早うございますねえ」
「はい」
「石橋を夜明けに出たんでしょう。誰かが走ったんですよ」
マノンが前掛けで手を拭いて、厨の奥へ引きました。この人は喧嘩の前になると、必ず火の側へ寄ります。
ヴァレンヌ様は、馬車を降りるなり囲いをご覧になりました。
わたくしは前掛けを外して、土間へ下ります。
「あれは何だ」
「羊でございます。四十二頭」
「宿の羊か」
「お客様の羊でございます」
この方は帳面を出して、鉛を耳から取られました。
鉛の先は、昨日より短くなっております。ずいぶん書かれたのでございましょう。
「規式を読んだはずだ」
「うけたまわりました」
「巡行の三十日前より、宿は設営掛の指図に従う」
「はい」
わたくしは羊方の方々に朝の湯を運ぶよう、ジャンへ目で頼みました。
「昨夜、指図はしていない」
わたくしは帳場へ回って、宿帳を開きます。開いて、客のほうへ向けて置きました。
「昨夜のお客様は、規式にございません」
ヴァレンヌ様の鉛が、止まりました。
「何と言った」
「規式の帳面に、羊のことは書いてございません。人のことも、日付のことも、昨夜については書いてございません」
この方の声は、大きくなりません。大きくならない方のほうが、たいてい退きません。
「書いていないものは、するなという意味だ」
「宿では、逆でございます」
わたくしは抽斗から、街道局の紙を出しました。折り目が四つ、封蝋が押してございます。
紙を広げて、下から三行目を指で押さえました。
紙の折り目の山は、字がかすれております。読めなくなる前に写しを取らねばなりません。
「一等宿は、街道を通る者の求めに応じ、これを宿すべし」
「知っている」
「昨夜、坂の下で車が止まっておりました。求めがございましたので、応じました」
わたくしは紙を畳んで、抽斗へ戻しました。広げたままにしておく紙ではございません。
「巡行の規式が上だ」
「規式は、いつのものでございましょう」
この方は、そこで初めてわたくしの顔をご覧になりました。ご覧になった時間は、息を一つ吐くほどでございます。
先例、というお言葉を、この方は二度お使いになりました。
「先例に従っている」
「さようでございますか」
わたくしは、それ以上お尋ねいたしませんでした。
尋ねますと、この方はお調べになります。お調べになれば、こちらの分が悪くなるか、よくなるかのどちらかでございますが、どちらであっても今日の羊は峠を越えます。
羊方の先頭の方が、囲いのほうから出てこられました。
囲いの水は坂の下から汲み上げます。桶で四つ運べば、羊四十二頭の朝の分でございます。
「主、水をもう一桶もらえるか」
「ただいまお持ちします」
「主」
ヴァレンヌ様が、その言葉を繰り返されました。
羊方の方は手を止めて、こちらとあちらを順に見比べておいでです。
「宿の者だ」
「宿の者は、あそこの婆さんと小僧でしょう」
羊方の方は、帽子の縁を持ち上げました。
「主ってのは、断れる人のことだ」
厨の奥で、鍋の蓋が鳴りました。マノンが笑ったのだと思います。
ヴァレンヌ様は帳面に何かを書き足して、閉じられました。
書き足す音が長うございました。一行では済まない量でございます。
「巡行の七日は、石橋から人を出す」
「人と、申しますと」
「柵の番だ。坂の下に立たせる」
「坂は街道でございます」
「街道局の許しは取る」
馬車が坂を下りていきました。窓は、今日も開きませんでした。
群れが動き出すまでに、半刻ほどかかりました。羊は、先頭の一頭が坂へ足をかけるまで動きません。
昼までに羊は峠へ向かいました。囲いの藁を掻き出して、板を洗って、水を汲み直しました。
銀貨で二枚と八。九名と、羊四十二頭の一泊でございます。羊は一頭につき銅貨で二つ、父の代からの値でございました。
銅貨は数が多くなりますので、麻の袋に分けて数えます。数え終えるまで客はお待ちになります。
「値を上げなさらないんですか」
「上げません」
「石橋は三割上げましたよ」
「石橋は、部屋の数が多うございます」
マノンが桶を抱えて、囲いの水を捨てにいきました。捨てながら、こちらを見ずに申しました。
水は坂の下の流れへ戻します。囲いの水を厩の側へ捨てますと、馬が飲みたがりますので。
「あの方、坂に人を立てるとおっしゃいましたね」
「はい」
「立てられたら、客はどうします」
灯は、高いところに置きますと遠くから見えます。低いところに置きますと、近づいた者にだけ見えます。父は雪の晩だけ、灯を軒の梁まで上げておりました。
わたくしは、乾かし場の鉤を数えました。
六つございます。冬に足そうと思いながら、まだ足しておりません。足せば、掛けられる外套が二着増えます。
「坂の下で止まる車が、また出ますでしょう」
「止まった車は、上がってきますか」
「わかりません」
「わからないものを、どうなさるおつもりで」
「灯を、少し高いところへ移します」
坂の下に、石橋から来た者が二人立ちました。
その日から三日、宿の前の道を、荷車が一台も上がってまいりません。




