第24話 湯は、四人ずつでございます
坂の下に人が立ちますと、道の音が変わります。
車輪の音が坂の途中で止まって、しばらくしてから遠ざかっていく。上がってこないのに、引き返しもしない。話をしている時間でございます。三日のあいだ、その音を四度聞きました。
四度のうち、上がってきたのは一台でございます。
立っているのは、石橋の宿場で荷を扱っている若い者でございました。顔は存じております。名は存じません。
「今日も駄目でしたね」
「はい」
マノンが鍋の灰汁を掬いながら、そう申しました。掬った灰汁は捨てずに、厩の裏の土へ流します。灰は土を締めますので、囲いの泥がぬかるみません。父のやり方でございます。
余った粥は、朝に焼いて客に出します。三日目になりますと、焼いても匂いが立ちません。
「粥が余りますよ」
「明日は、麦を三合減らしましょう」
麦は、三合減らしましたぶんだけ袋の底が浅くなります。浅くなった袋は、鼠が上がれませんので都合がよろしゅうございます。
「減らすんですか」
「はい。減らして、余ったぶんの薪を三の間に回します」
三の間は梁が湿っております。夏のうちに火を焚いて乾かしておきませんと、冬に黴が出ます。客が入らない日は、乾かす日でございます。
昼過ぎに、細い車輪の音がいたしました。
ヴァレンヌ様の馬車でございます。今日は御者のほかに、書役の方がお一人ついておいででした。書役の方は馬車から降りずに、膝の上に紙を広げておいででした。
馬車は、玄関の前に止まりません。坂の広くなったところで止めて、そこから歩いておいででした。
「人数のあたりがついた」
「うけたまわります」
「随行、五十」
わたくしは帳場の紙を一枚取って、鉛筆ではなく筆で数を書きました。筆のほうが遅うございますので、書いているあいだに数え直せます。
書いた字を、客のほうへ向けて置きます。数を隠しますと、あとで違うと言われますので。
「五十でございますね」
「そうだ」
わたくしは、筆の穂先を布で拭きました。拭かずに置きますと、明日固まります。
「そのうち、この宿にお泊まりになるのは何名でございましょう」
湯屋の桶は四つ、板の間は四人で一杯でございます。父が湯屋を建てたとき、宿の寝床は十二でございました。
「五十だ」
厨で、麦を量る音が止まりました。
わたくしは筆を置いて、帳場の脇の板を開けました。中には父の書いた紙が貼ってございます。部屋ごとの寝台の数と、湯の桶の数と、厠の数でございました。
父の書いた紙は、湿気で端が波打っております。字は、まだはっきり読めます。
「寝床は、二十二でございます」
増やせ、というお言葉は、寸法をご覧になった方のお言葉ではございません。
「増やせ」
「増やしますと、二十六まででございます。板間に藁を敷きまして、四名」
厩の二階は、藁と、冬の飼葉を置く場所でございます。夏のあいだは空いております。
「厩がある」
「厩の二階に、十名までお入りいただけます」
書役の方が、馬車の中で紙をめくられました。数を書き取っておいでのようでございます。
書役の方の紙は、膝の上で二枚に分かれておりました。片方が人で、片方が荷でございましょう。
「合わせて三十六だ。あと十四」
「はい」
「屋根を継ぎ足せ。三十日ある」
わたくしは、庭のほうへ二歩だけ出ました。
宿は坂の途中に建っております。北側は岩で、南側は落ちております。継ぎ足す先がないのは、見ればわかることでございました。
北の岩は、父が削ろうとして諦めた岩でございます。鑿の跡が、いまも三つ残っております。
「地面がございません」
「削れ」
下の道は、街道でございます。落ちたものを片づけるのは、宿ではなく街道局でございました。
「削りますと、雨のときに下の道へ落ちます」
「石で留めろ」
「石は、峠の石でございますか」
この方は、そこで口を閉じられました。峠の石を動かすには街道局の許しが要ります。それはこの方もご存じでございました。
この方は、庭のほうをご覧になりませんでした。ご覧にならないまま、次のことをお尋ねになります。
「湯はどうなっている」
「一度に四人ずつでございます」
「五十だ」
「四人ずつ、十三度に分けます。一度に半刻でございますので、六刻半かかります」
書役の方が、はじめて顔を上げられました。
「日が暮れてから朝までが、およそ六刻でございます」
わたくしは指を折らずに申し上げました。折りますと、この方は数えている姿のほうをご覧になります。
書役の方の鉛が、紙の上で止まっております。止まったまま、動きません。
「湯屋は増やせるか」
「湯を沸かす釜は一つでございます。釜を増やしますと、水が足りません」
釜を二つにいたしますと、薪も倍いります。薪は、冬のぶんを夏に積みます。
「水は」
「坂の下の流れから汲み上げます。一日に運べるのは、桶で四十でございます」
坂の途中の土は、掘ると三尺で岩に当たります。父の代に二度、掘りました。
「井戸を掘れ」
「掘りましたが、出ませんでした。父の代に二度」
ヴァレンヌ様は帳面を開いて、鉛を耳から取られました。取ってから、書かずにお持ちになったままでございます。
鉛を持ったまま書かない方は、書くことが決まっていない方でございます。
「ならば石橋から運ぶ」
「桶を積んだ車が坂を上がりますと、一度に八つでございます。四十運ぶには五度。往復で一日でございます」
坂の道は、荷車が二台すれ違えません。上りが五度あれば、下りは五度待ちます。
「毎日運ばせる」
「毎日、荷車が五度上がってまいります」
わたくしは、坂のほうへ目を向けました。
「そのあいだ、街道は塞がります」
馬車の中で、書役の方が咳をなさいました。咳のあとで、紙をめくる音がいたしません。
咳は、二度いたしました。二度目は、短うございました。
「厠は」
「三つでございます」
朝は、皆さまが同じ時刻に起きられます。厠の数は、寝床の数では決まりません。
「五十で三つか」
「朝の四半刻に、皆さまが並ばれます」
この方は帳面を閉じられました。閉じてから、はじめてわたくしの立っているあたりをご覧になりました。顔ではございません。前掛けの結び目のあたりでございます。
わたくしは、両手を前で揃えました。前掛けの結び目が、少し緩んでおります。
「そちらは、何が言いたい」
「何も申しておりません」
「数を並べている」
「数は、宿の言葉でございます」
厩のほうから、ジャンが出てまいりました。手に蹄鉄を一つ持っております。持ったまま、馬車のほうへ寄ってゆきます。
この子は馬車の馬に近づいて、先に前脚を見ました。見てから、御者の方の顔を見上げます。
ジャンは馬の脚を見るとき、必ず自分の膝を先に地面につけます。父の代の厩番がそうしていたそうでございます。
「どうかしたか」
「……右の前」
ジャンは、それだけ申しました。
御者の方が降りて、脚を持ち上げられました。持ち上げた蹄の裏に、小石が挟まっております。取り除いて、御者の方が息を吐かれました。
小石は、豆ほどの大きさでございました。蹄の叉に食い込んで、色が黒くなっております。
「気づかんかった」
「石橋まで下りましたら、割れておりました」
わたくしがそう申しますと、御者の方は帽子を取られました。
ヴァレンヌ様は、その様子をご覧になっておいででした。ご覧になって、馬車へ戻られます。
「人数は、追って知らせる」
「うけたまわりました」
馬車が坂を下りていきました。坂の下に立っている二人が、通してから、また道の脇へ戻ったのが見えました。
夕方、大工の親方が下りてこられました。手のひらに、細かい木屑がついております。
「明日から二の間の板を全部外す。埃が出るぞ」
「うけたまわりました。厨の戸を閉めておきます」
親方の手のひらは、木屑よりも埃で白くなっておりました。二の間の埃は、三年ぶんでございます。
「上に何か載っておるな」
「何か、と申しますと」
「桟の上だ。板を叩くと、二枚目のあたりで音が変わる」
わたくしは、天井を見上げました。
二の間の天井板は、わたくしが屋敷におりました三年のあいだ、落ちたままでございました。この冬は、その上に帆布を張って過ごしました。
「明日、外してみましょう」
「重いもんじゃない。だが、あるな」
板を外しますと、桟の上から油紙の束が落ちてまいりました。
紐が三重に掛かっております。父の結び方でございました。




