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白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


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第25話 天井板の裏

 板を外す日は、朝のうちに宿の戸を全部開けます。


 埃は下へ落ちるものだと思われがちでございますが、実際は横へ流れます。厨の戸を閉めて、廊下の戸を開けて、風の道を一本だけ作ってやりますと、埃はそこを通って外へ出ます。父はこれを、埃にも街道を作る、と申しておりました。


 マノンには手拭いを二枚渡しました。一枚は口を覆うためで、もう一枚は途中で取り替えるためでございます。


 「あたしは息を止めていられますよ」


 「四半刻はご無理でございます」


 「昔は止められました」


 「昔のお話は、埃が済んでから伺います」


 親方が梯子を掛けて、いちばん端の板から外し始めました。板は桟に載せてあるだけでございますので、端から順に持ち上げれば落ちません。順を間違えますと、まとめて落ちます。


 一枚目が外れました。


 三年ぶんの埃が、帯のようになって下りてまいります。帯は床に着く前に横へ折れて、廊下のほうへ流れていきました。風の道は、うまく通っております。


 二枚目のあたりで、親方の手が止まりました。


 埃を吸いますと、その日の夕餉の味がわからなくなります。厨に立つ者は、口を覆っておくにこしたことはございません。


 「これだ」


 「はい」


 「桟の上に載っておる。紙だな」


 わたくしは梯子の下から見上げました。


 桟と桟のあいだに、平たいものが挟まっております。埃をかぶって、板と同じ色になっておりました。板を叩いて音が変わったのは、そのぶんだけ重かったからでございます。


 親方が手を伸ばして、それを引き出されました。


 油紙の束でございます。


 親方は板を膝で受けて、片手だけで束を抜き取られました。慣れた手つきでございます。


 「重いもんじゃない」


 「うけたまわりました。こちらへ」


 受け取りますと、思ったより重うございました。


 油紙は三枚重ねてございます。外側の一枚は油が抜けて、指で押すと粉のように崩れました。内側の二枚は、まだしっとりしております。


 紐が三重に掛かっておりました。


 わたくしは、それを見て手を止めます。


 結び目が二つございます。一つは普通の固結びで、もう一つは、その脇に小さく作ってございます。父は荷を縛るとき、必ず脇に小さい結びを一つ足しました。


 解くときに、どちらが上か迷わないためだそうでございます。


 紐は麻でございます。三重に掛けてありますのに、締めた跡が紙に残っておりません。強く縛れば紙が切れますので、父は締め加減を必ず加減しておりました。


 「どうしました」


 マノンが手拭いを下げて、こちらへ来ました。


 「父の結び方でございます」


 「……ああ」


 この人は、それだけでございます。申してから、埃の帯のほうを見ておりました。


 わたくしは束を帳場へ運んで、卓の上に置きました。置いてから、手を洗いに参りました。


 埃のついた手で紙を触りますと、油紙の中まで埃が入ります。父は帳面を触る前に必ず手を洗いました。手を拭くだけで触ってはいけない、というのが父の言い分でございます。


 戻りますと、マノンが卓の脇に立っておりました。


 卓の上には、朝の麦湯の輪が残っております。布巾で拭いて、乾くまで待ちました。


 「開けないんですか」


 「開けます」


 「顔が、開けない顔ですよ」


 紐を解きました。脇の小さい結びから先に解きますと、固結びのほうが自然に緩みます。父の結びは、そういう作りでございました。


 油紙を三枚めくりました。


 中から出てまいりましたのは、帳面が二冊でございます。表紙は板でも革でもなく、麻の布を糊で貼ったものでございました。父が自分で作ったものだとわかります。


 一冊目を開きました。


 日付が並んでおります。ひと月ぶんで一頁、その横に数が二つずつ書いてございます。数の下に、短い言葉が添えてございました。


 頁の端が、指の脂で黒くなっております。同じところを何度も繰った跡でございます。


 「何が書いてあります」


 「日付と、数でございます」


 「勘定ですか」


 「いいえ」


 勘定であれば、銀貨の印がございます。この帳面には、その印がどこにもございません。


 わたくしは頁を三枚めくって、また戻しました。


 字は父のものでございます。若いころのものは太く、あとになるほど細くなっております。細くなったのは、筆を短く持つようになったからでございましょう。指が痛むと、そういう持ち方になります。


 数は二つずつ並んでおります。左のほうが大きく、右のほうが小さい。ひと月ぶんで一頁ということは、数えているのは日でございましょう。


 「読めますか」


 「読めます。意味は、まだわかりません」


 わたくしは、そこで一度手を止めました。


 「意味のわからないものを、旦那様は天井に上げたんですか」


 わたくしは、二冊目のほうへ手を伸ばします。


 伸ばして、そのまま引きました。


 「マノン」


 「はい」


 「父は、街道局に帳面を出しておりました」


 「出しておりましたね。役人が取りに来ておりました」


 「これは、出しておりません」


 この人は前掛けの端を握って、しばらく黙っておりました。黙ってから、卓の反対側へ回ってこられました。


 この人の言い方は、いつも決めつけの形をしております。決めつけたあとで、たいてい当たっております。


 「それは、旦那様が局にも出さなかったものです」


 「ご存じでしたか」


 「知りません。今わかりました」


 「なぜ、わかりました」


 「天井に上げるのは、隠すためでしょう」


 「隠したものを、娘に見つけさせる人ですか」


 「見つけさせるつもりなら、抽斗に入れます」


 「では、なんです」


 「置いたのだと思います。見つかるまで、そこに」


 「……旦那様らしゅうございますねえ」


 厨のほうで、湯が沸きかけている音がいたしました。


 わたくしは油紙を畳み直して、帳面を二冊とも中へ戻しました。戻してから、紐を掛けました。掛けるときは、脇の小さい結びを先に作ります。父と同じ順でございます。


 油紙は、内側の二枚だけ使い回せます。外側の一枚は、崩れましたので捨てました。


 「しまうんですか」


 「はい」


 「読まないんですか」


 「読みます。今日ではございません」


 急いで読んで意味を取り違えますと、取り違えたほうを覚えます。覚えたものは、あとで直りません。


 「なぜ、今日ではないので」


 「今日、意味がわからないまま読みますと、わかったつもりになります」


 束を抽斗へ入れました。婚姻契約の第九条の写しの隣でございます。もう使いませんが、捨てない紙の隣でございました。


 夕方までに、板は全部外れております。


 桟の上を拭いて、埃を落として、乾かすために板を厩の壁へ立てかけました。載せ直すのは明後日でございます。


 ジャンが厩から出てまいりました。手に紐を持っております。


 「どうしました」


 「……結び方」


 この子は、油紙に掛かっていた紐を見ていたようでございます。手の中で、脇に小さい結びを作ろうとして、うまくいかずにほどいておりました。


 わたくしは膝を折って、隣で同じ紐を持ちました。


 ジャンの指は、馬の口を扱う指でございます。細かいものを結ぶには、力が強すぎます。


 「先に、こちらを作ります」


 「……はい」


 「作ってから、上を締めます。順が逆ですと、解くときに迷います」


 ジャンは三度やり直して、四度目にできました。できたあと、こちらを見ずに厩へ戻っていきました。


 その晩、客はございませんでした。


 坂の下に立っている二人は、日が暮れると石橋へ下ります。下りたあとに上がってくる車があれば泊まれますが、その時刻に峠の手前まで来る荷はございません。


 粥を三人ぶんだけ炊いて、火を落としました。


 帳場の灯を残して、抽斗を開けます。開けて、油紙の束の角だけを指で触りました。


 触って、閉めました。

 石橋の問屋から、麦の荷が上がってまいりません。


 三日待っても、五日待っても、坂の下の車は増えないままでございます。

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