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白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


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第26話 規式帳と、宿帳

 二の間の板が載りました。


 新しい板は色が白く、古い桟のあいだで浮いて見えます。半年もいたしますと煙で色がつきますので、そのころには境目がわからなくなります。父の代に一度、三の間で同じことをいたしました。


 寝台を八つ戻して、藁を入れ替えて、窓を一日開けておきました。板の匂いは、風を通せば二日で抜けます。


 寝台は、脚の下に薄い板を挟んで水平を取ります。床が坂に沿って傾いておりますので、そのままでは寝ている方が朝に片側へ寄ります。


 「これで二十二ですね」


 「はい。二十二でございます」


 マノンが指を折って数えました。この人は数を口に出すとき、必ず指も動かします。字は読めませんが、数は間違えません。


 この人は、五十という数を口に出すとき、必ず一度、天井のほうを見ます。数えているのではなく、入るかどうかを見ているのでございましょう。


 「五十のうち、二十二」


 「厩の二階と合わせて、三十二でございます」


 厩の二階は、梯子が一本きりでございます。夜に十名が上り下りいたしますので、梯子の段を二か所、継ぎ直しました。


 「あとの十八は」


 「石橋でございましょう」


 石橋には宿場がございます。部屋の数はうちの三倍ほどで、値はこの夏から三割上がっております。上げたのは宿場の主ではなく、部屋を押さえた側でございました。


 朝のうちに、麦の袋の底を確かめました。


 残りは十日ぶんでございます。石橋の問屋からは、月の初めと半ばに荷が上がってまいります。半ばの荷が、今年はまだ届いておりません。


 麦は、粥にすれば一人で一合、焼けば二合いります。十日ぶんと申しますのは、客が毎晩六名として数えた十日でございます。


 「問屋へ、使いを出します」


 「ジャンをですか」


 「はい。返事だけもらってまいります」


 ジャンに麻の袋を持たせて、坂を下らせました。この子は荷がないと歩くのが速うございます。昼までには石橋に着きます。


 昼過ぎ、細い車輪の音がいたしました。


 ヴァレンヌ様は、今日は書役の方を連れておいでです。書役の方は馬車を降りて、帳場の脇に立たれました。


 書役の方は、今日は膝ではなく帳場の板の上で紙を広げられました。立ったまま書くほうが、字が乱れないそうでございます。


 「人数を知らせる」


 「うけたまわります」


 「随行、三十八」


 わたくしは筆を取って、数を書きました。書いてから、客のほうへ向けて置きました。


 筆で書きますと、乾くまでに間がございます。その間に、相手の方が数を読み直されます。


 「五十と伺っておりました」


 「減らした」


 「うけたまわりました」


 減らしたのは、湯と水と厠の数でございましょう。けれども、この方はその理由をおっしゃいません。おっしゃらないことを、こちらから申し上げる必要もございません。


 書役の方が、紙を一枚差し出されました。


 名と役目が並んでおります。三十八名ぶん、一行ずつ書いてございました。


 名の脇に、役目が細かく書いてございます。厨方、湯方、馬方、荷方。宿と同じ言葉が並んでおりました。


 「これは」


 「随行の名簿だ。宿へ渡す」


 「ありがとうございます。宿帳に写します」


 ヴァレンヌ様の手が、帳面の上で止まりました。


 名簿の紙は薄うございます。写しを取るためではなく、配って捨てるための紙でございました。


 「写す必要はない」


 「うけたまわりました。では、お一人ずつお書きいただきます」


 鉛を耳から取られましたが、今日はお書きになりませんでした。


 「第十一条だ」


 この方は、帳面を開いて、指で押さえられました。


 「巡行の随行は、宿帳への記名を免ず」


 わたくしは、宿帳を帳場の上に開きました。


 新しい頁でございます。父の書式には、名前と人数のほかに、顔と匂いの欄がございます。


 わたくしは、筆を硯の縁に置きました。置くときに音を立てますと、話が急ぎます。


 「では、こういたしましょう」


 「何をする」


 「規式帳に、免ずとお書きになります。宿帳には、宿がお名前を頂戴いたします」


 書役の方が、こちらを見られました。


 「両方に、でございます。どちらの帳面も、書いたとおりに残ります」


 規式帳は、王都へ持って帰る帳面でございます。宿帳は、この帳場から出ない帳面でございます。持って帰る帳面に書けないことが、出ない帳面には書けます。


 「同じことを二度書くのか」


 「別のことでございます」


 わたくしは、宿帳の右の二列を指で示しました。


 「規式帳にお書きになるのは、免じたという記録でございます。宿帳に書くのは、お泊まりになったという記録でございます」


 ヴァレンヌ様は、しばらく何もおっしゃいませんでした。


 厨で、マノンが薪を組み直す音がいたしました。この人は、聞き耳を立てているとき、必ず手を動かします。


 厨の薪の音が、そこで止まりました。


 「宿帳は、何のためにある」


 「二度目にお越しになったときのためでございます」


 随行の方々は、巡行が済めばそれぞれの持ち場へ戻られます。戻る道は、たいていまた西街道でございます。


 「巡行は二度来ない」


 「お一人ずつは、また通られます」


 この方は、そこで顔をお上げになりました。上げて、わたくしを見ておられました。玄関の高さでも、梁でも、前掛けの結び目でもございません。


 見ておられた時間は、湯呑が一つ冷めるほどでございます。


 「……写せ」


 「うけたまわりました」


 「宿帳に写すのは、宿の勝手だ。私は免じた」


 「はい。規式帳には、そのようにお書きくださいませ」


 ヴァレンヌ様は帳面を開いて、鉛で一行お書きになりました。書くために表紙を裏へ折られたとき、内側が一瞬見えました。


 表紙の内側に、年号が刷ってございます。


 わたくしは、そこから目を戻しました。戻して、宿帳の頁を押さえておりました。


 書役の方が、名簿を帳場に置いてゆかれます。


 「湯を沸かしております。お茶なりと」


 「石橋へ戻る」


 「本日は、坂の下の風が変わっております。窓は閉めておいでください」


 この方は馬車へ向かって、三歩ばかり行ったところでお止まりになりました。


 馬車の扉には、宮内府の紋が小さく打ってございます。翼のある魚でも、鷲の脚でもございません。


 「一つ聞く」


 「はい」


 「そちらは、私が間違っていると思っているか」


 わたくしは、両手を前で揃えました。


 「思っておりません」


 この方は、こちらへ向き直られませんでした。声だけが、坂の風に乗って戻ってまいります。


 「なぜだ」


 「間違っていると思う方には、宿帳をお出しいたしません」


 馬車が坂を下りていきました。今日も窓は開きませんでした。


 夕方、ジャンが戻ってまいりました。


 息が上がっております。坂を走って上がったのでございましょう。麻の袋は、行きと同じように空でございました。


 ジャンは、走ったあとでも水を先に飲みません。馬にそうさせないからでございます。


 「麦は」


 「……ない」


 「問屋が、出さないと申しましたか」


 ジャンは首を振りました。振ってから、袋の口を開けて、中から紙を一枚出しました。


 問屋の主の字でございます。短く三行だけ書いてございました。


  このたび峠の荷につき、あらためて沙汰があるまで、こちらから上げる分は止めております。

  値のことではございません。

  銀の梯子亭様には、いずれこちらから伺います。


 わたくしは紙を二度読みました。


 値のことではない、とわざわざ書いてございます。書いたということは、値のことだと思われる心配があったからでございます。


 「マノン」


 「はい」


 「麦は、十日ぶんでございます」


 「十日、と申しますと」


 「巡行の日には、届きません」


 厨の火が、一度だけ音を立てて縮みました。

 問屋が荷を止めたのは、峠に値がつくという話が出たからでございます。


 値をつけるのは、宿ではございません。道でございます。

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