第27話 荷が、上がってまいりません
石橋へ下りるのは、春の峠開け以来でございます。
坂は下りのほうが時間がかかります。荷を背負っておりますと、膝で受けながら歩くことになりますので、上りと同じか、それより長うございます。今日は空の袋を二枚だけ持ちました。
坂の下に立っている二人は、下りる者には何も申しません。上がる車にだけ声をかけます。
坂の広くなったところで、二人が並んで立っておりました。日陰に椅子を出して、片方は座っております。
「主が下りるのは珍しい」
「麦を分けていただきに参ります」
止めているのは自分たちではない、と先に言う方は、止めていることをご存じでございます。
「うちらは止めておりませんよ」
「存じております」
この方々は石橋の宿場に雇われた若い者でございます。日に銅貨で八つと聞きました。立っているだけで八つでございますから、断る理由がございません。
石橋の宿場は、以前より静かでございました。
通りに荷車が並んでおりません。並んでいないのに、宿の窓には灯が入っております。人はいるのに、荷が動いていない町でございました。
問屋は通りの奥にございます。表に麻袋を積み上げて、その上で猫が寝ておりました。
猫は、こちらが近づいても動きませんでした。麻袋が動いていない証でございます。
「これは、銀の梯子亭様」
主の方が出てこられました。この方は父の代からの付き合いで、わたくしが子どものころから同じ帽子をかぶっておられます。
この方の帽子は、鍔の右だけがすり切れております。荷を担ぐときに、そこへ肩が当たるからでございます。
「使いに、無駄足をさせました」
「いえ。書付をいただきました」
「あれしか書けんのですよ」
奥の板間へ通されました。
板間には麦の袋が積んでございます。積んであるのに、出せないということでございました。袋の口には、荷札が結んでございません。
袋は、天井の梁に届くほど積んでございます。積んだのは、出す気があったからでございましょう。
「荷札が、ございません」
「よく見ておられる」
「荷札がなければ、峠を越えられません」
板間の柱に、去年の荷札が一枚だけ残っておりました。紙が焼けて、字が茶色くなっております。
「そういうことです」
主の方は、湯呑を二つ置かれました。置いてから、こちらの分だけ先に注がれました。
ご自分の湯呑には、しばらく口をつけられません。
「峠に、値がつくという話が出ております」
「値、と申しますと」
「通行料でございます。荷車一台につき、峠を一度越えるごとに」
わたくしは湯呑を持ったまま、しばらく持っておりました。
通行料という言葉を、わたくしは父の帳面で見たことがございません。父の代には、なかったものでございます。
「どなたが、お決めになるのでございましょう」
「まだ決まっておりません。決まっておらんから、荷札が出せんのです」
荷札は、麻の紐に木の札を通したものでございます。札には町の焼き印が入っております。
「荷札は、どちらが出しておいででしたか」
「石橋の町でございます。町が出して、町が数えて、町が街道局へ報せる。三十年、そうしてまいりました」
主の方は帽子を取って、膝の上に置かれました。禿げた頭に、日焼けの境目がはっきり出ております。
「その荷札に、値をつけるという話でございます」
三十年と申しますのは、父が帳面を書き始めた年とほぼ同じでございます。
「町が、でございますか」
「いいえ」
湯呑の湯気が、二つとも真っ直ぐ上がっております。板間に風が入っておりません。
「町ではないとしますと、どちらでございましょう」
「銀の梯子亭様」
「はい」
板間の奥から、麦の匂いがしておりました。新しい麦の匂いでございます。
「その話が出たのは、峠の宿の話が流れたあとでございます」
わたくしは、湯呑を置きました。
峠の宿の話が流れたのは、春でございます。街道の付け替えが認可されず、峠に新しい宿は建たないことになりました。
建てられないなら、道そのものから取る。そういう筋道でございます。
春に流れた話を、この夏のうちに別の形へ組み直した方がおいでになります。早うございました。
「お名前は、お聞きになりましたか」
「聞いております。聞いておりますが、こちらからは申し上げられません」
「うけたまわりました」
「申し上げますと、うちの荷札が、二度と出なくなります」
主の方は、そこで一度、表のほうをご覧になりました。表では猫がまだ寝ております。
主の方は、膝の帽子を両手で押さえておいででした。押さえる手に、力が入っております。
「麦は、お分けできます。ただし、荷札なしでございます」
「荷札なしで峠は越えられません」
「越えなくてよろしい。うちからそちらまでは、峠の手前でございますので」
わたくしは、頭を下げました。
「ありがたく存じます」
日が暮れれば、坂の下の二人は石橋へ戻ります。戻る道と、上がる荷は行き違いになります。
「三十日ぶんを、夜のうちに上げさせます。坂の下は、日が暮れれば誰もおりません」
「そのようなことを、していただくわけには」
父は、宿代を取らなかった話をわたくしにいたしませんでした。取った話は、よくいたしました。
「うちは、旦那様に貸しがございます」
主の方は、そこで初めて笑われます。
「二十年前に、うちの倅が峠で足を折りました。旦那様が三日、宿に置いてくださいました。銭は取られませんでした」
「存じませんでした」
「言うものではない、と言われましたのでね」
外へ出ますと、通りの向こうから男の方が二人歩いてこられました。
一人は荷方の身なりで、右の小指が短うございます。
連れの方は宿場の者ではございません。外套の裾に、峠の泥がついておりました。
「ジョスさん」
「……主」
ジョスさんは足を止めて、連れの方に先へ行くよう手で示されます。連れの方は宿場のほうへ曲がっていかれました。
「石橋で働いておられると伺っておりました」
「働いておった。今は荷が動かん」
「さようでございますか」
「主。一つだけ、耳に入れておく」
この方は通りの端へ寄って、声を落とされました。
この方は、こちらの顔をご覧になりませんでした。通りの先を見たままでございます。
「サンドラールの屋敷が、人を減らしておる」
「……はい」
「先月、厨の者が三人出た。今月は、女中が」
わたくしは、袋の紐を持ち直しました。
屋敷の人繰りは、三年のあいだわたくしが見ておりました。厨に三人、女中に六人。それが要る屋敷でございます。
「なぜ、わたくしにお話しになりますか」
「いずれ、そちらに来る者が出るからだ」
ジョスさんは、それだけ申されて歩いていかれました。振り返られませんでした。
坂を上がって戻りましたのは、日の暮れる少し前でございます。
厨で、マノンが鍋の底を擦っておりました。擦る音がするのは、粥が薄いときでございます。厚く炊けば、底は擦れません。
麦は、今朝で八日ぶんになりました。数えなくてもわかりますが、袋の底を一度だけ持ち上げて確かめました。
「麦は」
「今夜、上がってまいります」
「荷札は」
「ございません」
この人は手を止めて、こちらを見ました。
「峠を越えん荷なら、荷札はいりません」
「はい」
峠を越える荷が止まりますと、まず馬方が来なくなります。馬方が来なくなりますと、その次に旅の方が来なくなります。
「越える荷は、どうなります」
わたくしは、帳場の柱に手を置きました。
「越える荷が止まりますと、越える人も止まります」
「客が来ないということですか」
「はい」
夜、荷車が二台、灯を消して上がってまいります。
御者の方は名乗られませんでした。麦を厨の裏へ下ろして、水を一杯だけ飲んで、そのまま坂を下りていかれました。
宿帳には、書きませんでした。
三日後、地図を持った方が坂を上がってまいります。
その方は、この宿の主の名を、いまだにご存じありません。




