第28話 峠の通行料
地図を広げる方は、まず卓を探されます。
その方が宿へお入りになって最初になさったのは、挨拶でも、部屋を尋ねることでもございませんでした。食堂の卓を見て、そこにあった塩壺と燭台を、ご自分の手で端へ寄せられたことでございます。
寄せてから、大きな紙を広げられました。
地図は、春にご覧になったものと同じ紙ではございません。線が細く、川の描き方が丁寧でございました。
「西街道、峠南口」
紙は四つ折りになっておりました。折り目のところで、線が少しずれております。写しを取るときに紙を伸ばしすぎたのでございましょう。
ギュスターヴ・ダンジュ男爵でございます。
春に一度、この食堂で同じように地図を広げられました。あのときは、峠に宿を建てるという紙でございました。
わたくしは厨から麦湯を運んで、卓の端で待ちました。地図の上に置ける場所がございません。
「湯をお持ちいたしましょうか」
この方は、人に説明なさるときも地図をご覧になります。相手の顔ではございません。
「ここが石橋。ここが峠の頂き。距離は一里と少し」
「はい」
峠の向こうの宿には、丸が打ってございました。こちらは四角でございます。
「この宿は、この点だな」
男爵様は、地図の一点を指で押さえられました。押さえた指の下に、名前は書いてございません。
「宿の名は、銀の梯子亭でございます」
まだ、というお言葉が、この方には自然に出ます。
「知っている。……主は、まだ女か」
「わたくしでございます」
男爵様は、地図から目を上げられませんでした。
わたくしは麦湯を注いで、地図に触れない位置に置きました。地図に湯呑の輪をつけますと、紙が波打ちます。
男爵様は、椅子を引かずにお立ちのままでございました。座らない方は、長居をなさいません。
「話は早いほうがよかろう」
「うけたまわります」
巡行の話は、この夏じゅう石橋で回っております。回っているうちに、いくつも別の話がくっついてまいります。
「秋の巡行だ。王都から人が来る」
「はい」
坂の肩は、春の雨で二か所落ちました。落ちたところは、いまも縄が張ってございます。
「巡行の道を整えねばならん。坂の肩を削り、川沿いの崩れを直し、峠の岩を落とす。金がいる」
男爵様は、地図の上に指を三本置かれました。三本とも、坂の途中でございます。
「その金を、道を通る者から取る」
わたくしは、その言葉を口に出しました。出しますと、相手の方は否まれません。
「通行料でございますね」
「荷車一台につき、銀貨で一枚。峠を一度越えるごとに」
わたくしは、卓の脇に立ったままでおりました。
銀貨一枚と申しますのは、麦方の荷車が石橋から峠を越えて得る手間賃の、およそ半分でございます。半分を取られれば、越える者はおりません。
うちの一泊の値と、ほぼ同じ額でございます。宿一晩ぶんを、道が取るということでございました。
「往復いたしますと、二枚でございますか」
「往復は一度と数える」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない」
男爵様は、地図の右上に書いてある数を指で叩かれました。数は三つ並んでおります。
四千二百という数は、石橋の町が荷札を数えた数でございます。町が数えたものを、町の外の方が使っておいででした。
「去年の峠の通行、荷車で年に四千二百。一台一枚で、四千二百枚だ」
わたくしは、その数を頭の中でもう一度置き直しました。一日にならしますと、荷車で十一台と少しでございます。
「多うございますね」
「多い。だから道が直る」
厨の戸の陰で、マノンが立っておりました。手に鍋の蓋を持ったままでございます。
マノンは、蓋を持ったまま動きません。この人は、話の中身がわからなくても、誰が困るかは先にわかります。
「取るのは、どちらでございましょう」
「町だ。石橋の町が数え、町が集める」
荷札を出すのは町の仕事でございます。仕事に値をつけるのは、仕事をしている者ではございません。
「町が、でございますか」
「荷札を出すのは町だ。札に値をつけるだけの話だ」
わたくしは、燭台を元の位置へ戻しました。
塩壺は、そのままにしておきました。戻しますと、地図に触れます。
燭台は、卓の真ん中に置くものではございません。端に寄せますと、灯が客の手元だけを照らします。
「町の方々は、承知しておいででしょうか」
「承知する」
「まだ、ではございませんか」
男爵様は、そこで初めて顔をお上げになりました。上げて、こちらを見られたわけではございません。厨の戸の陰のマノンをご覧になりました。
この方は、春も同じことをおっしゃいます。あのときは、厩のジャンに向かってでございました。
「婆さん。主を呼べ」
「主なら、目の前におりますが」
「そうか」
男爵様は地図へ目を戻されました。
「町は承知する。理由は二つある」
「うけたまわります」
三分の一と申しますのは、千四百枚でございます。町の一年の入りより多うございましょう。
「一つ。集めた金の三分の一は町に残る」
「もう一つは」
わたくしは、湯呑を持ったまま厨のほうへ二歩下がりました。下がりますと、話は続きます。
「石橋の問屋は、私に借りがある」
わたくしは、麦湯の湯呑を下げようとした手を止めました。
止めてから、そのまま下げました。止めたままにいたしますと、聞いていることが伝わります。
二十年前と申しますのは、問屋の倅が峠で足を折った年でございます。同じ年でございました。
「借り、と申しますと」
「証文だ。二十年前の貸付が銀貨で三百二十。利を入れて、いまはもう少し多い」
「その証文を、お持ちでいらっしゃいますか」
春に、と申されました。峠の宿が建てられないと決まった、そのあとでございます。
「春に買った」
男爵様は、地図を折り始められました。折り目は、開いたときと同じところで折られます。
「サンドラールが持っておった。あの家は現金がいる」
厨で、鍋の蓋が板に触れる音がいたしました。
サンドラール伯爵家が持っていた証文を、男爵様が買われた。二十年前に石橋の問屋へ貸したのは、サンドラールでございます。
父の借財を持っていたのも、サンドラールでございました。
同じ手でございます。二代で同じ手を使う家がある、というだけのことでございました。
紙を折る音は、二度いたしました。四つ折りにするのに、二度で足ります。
「宿には、どのようなご用でございましょう」
「用はない」
「さようでございますか」
「知らせに来た。道に値がつけば、宿の客も減る。知らずに困るより、知って困るほうがよかろう」
男爵様は地図を懐へ入れて、立ち上がられました。
「一つだけ、宿に頼みがある」
「うけたまわります」
この方は、宿を敵と思っておいでではございません。使える口だと思っておいででございます。
「巡行の夜、王都の方々に、この道は金がかかると申し上げてくれ」
「かかる、とだけでございますか」
「そうだ。事実だ」
わたくしは、両手を前で揃えました。
「宿は、客に道の話をいたします」
「ならばよい」
「ただし、宿がいたしますのは、越えられるか越えられないかの話でございます」
男爵様は、戸口で足をお止めになりました。
「金の話は、いたしません」
「なぜだ」
「金の話をいたしますと、客が宿を疑いますので」
この方は、そこで少しだけ笑われました。笑って、わたくしのほうを見られませんでした。
「主に伝えておけ」
「はい」
「悪い話ではないと」
男爵様は坂を下りていかれました。馬は二頭立てで、御者は石橋の者でございました。
夕方、麦を挽いて、粥の水を減らしました。
濃く炊いた粥は、腹に長く残ります。客の数が読めないときは、薄く多くではなく、濃く少なく炊きます。父のやり方でございます。
挽いた麦は、粗いところと細かいところに分かれました。粗いほうを粥に、細かいほうを焼き麦にいたします。
「取られるんですか」
「まだ決まっておりません」
「決まったら」
「馬方は、峠を越えません」
マノンが、蓋を鍋に戻しました。
石橋で荷を降ろして積み替えますと、荷が傷みます。傷んだ荷は、問屋が引き取ります。
「越えなければ、どうなります」
「石橋で荷を降ろして、向こう側の馬方に渡します」
「渡せますか」
「渡せます。手間賃が半分になるだけでございます」
その晩、客はお一人でございました。
巡礼の方で、荷を持たずに歩いておいででした。荷車ではございませんので、通行料の話はご存じありませんでした。
翌朝から、坂を上がる馬が減りました。
七日目に、宿の前を通った荷車は、一台もございませんでした。




