↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/31

第29話 馬方が、来なくなりました

 客の来ない日でも、宿の朝は同じでございます。


 戸を開けて風を通し、湯屋の灰をかき出し、厩の藁を返します。乾かし場の炭は、朝のうちに一度熾します。熾さずにおきますと、湿気を吸って、いざというときに火がつきません。


 誰も使わない乾かし場の炭を熾すのは、無駄なようでございます。無駄ではございません。使わない日が続いた宿は、使う日が来ても使えません。


 一日目は、二台通りました。


 二日目は、一台。三日目は、一台。四日目からは、ございません。


 湯屋の釜は毎朝一度沸かします。沸かした湯は捨てます。捨てるのは惜しゅうございますが、釜は使わないと錆びます。


 「今日で七日ですねえ」


 「はい」


 マノンが宿帳を指で押さえました。この人は字が読めませんので、押さえるのは日付の位置ではなく、頁の空白のところでございます。


 この人の指は、日付の欄より少し右を押さえます。名前の書かれるところでございます。


 「白いままですよ」


 「はい」


 「白い頁を、あたしは久しぶりに見ました」


 冬のあいだ、この宿帳は毎日埋まっておりました。三年前に戻りますと、頁そのものがございません。宿は伯爵家のもので、帳場に人が座っておりませんでした。


 わたくしは、その日も宿帳を開いて置きました。


 開いておかないと、客が入ってきたときに手間取ります。手間取りますと、その方は最初の三十を数えるあいだ、立ったままになります。立たせてしまうと、二度目はございません。


 昼に、薪を割りました。


 冬のぶんは春から積んでございますが、割った薪は乾くのに半年かかります。今年割るぶんは、来年の冬に使います。客の来ない日は、来年のための日でございました。


 斧の柄は、握るところだけ黒くなっております。父の手の跡でございます。わたくしの手は、まだそこまで届きません。


 「お嬢さん」


 「はい」


 「昼を召し上がっておりません」


 「あとでいただきます」


 この人が本気で怒るのは、宿のことではございません。いつも、こちらの食事のことでございます。


 「そうやって、あとにしたものを召し上がった例がありません」


 マノンが薪割りの台の前に立ちました。斧を振り下ろす場所でございます。振れば当たりますので、振れません。


 「どいてくださいまし」


 「食べてからになさい」


 「マノン」


 この人は、退きませんでした。前掛けの紐を結び直して、両手を腰にあてておられます。


 「あたしは、二人分は働きません」


 わたくしは斧を置きました。


 厨へ入って、焼いた麦を二切れいただきました。マノンは向かいに座って、こちらが食べ終わるまで立ちませんでした。


 「粥にしましょうか」


 「麦で十分でございます」


 焼いた麦は、二切れで腹に溜まります。溜まりますが、力は出ません。力を出すには粥でございます。


 「客がいない日は、こちらが食べる日ですよ」


 「はい」


 「屋敷では、そうしていらしたんでしょう」


 わたくしは、麦を持ったまま手を止めました。


 屋敷では、女中と厨の者の分を先に決めて、余ったものをいただいておりました。余らない日は、いただきません。誰にも咎められませんでしたので、三年そういたしております。


 「そういたしておりました」


 「ここは屋敷ではありません」


 「はい」


 午後、ジャンが厩の掃除をしておりました。


 馬は一頭もおりません。うちの馬は父の代に手放しましたので、厩は客の馬のためだけにございます。空の厩を、この子は毎日掃きます。


 厩の土間は、掃いても掃いても藁の屑が残ります。隅の一列だけ、この子はいつも二度掃きました。


 「掃かなくてもよろしいのですよ」


 「……」


 「藁も、今日は替えなくて結構でございます」


 ジャンは掃き続けました。止めずに、顎で厩の奥のほうを示します。それから、こちらを見ずに一言だけ申しました。


 「匂いが」


 「匂い、と申しますと」


 「馬が、嫌がる」


 空けたまま置いておくと、厩は湿った匂いになります。その匂いのする厩に、馬は入りたがりません。次に来る馬のために掃いている、ということでございました。


 わたくしは、桶を一つ運びました。


 「水は、わたくしが汲みます」


 「……いい」


 「では、こちらでいたします」


 ジャンは首を横に振って、桶を受け取りました。この子は、人に仕事を渡しません。


 夕方、坂の下に灯が見えました。


 二つでございます。荷車の前灯でございました。灯は坂の途中まで上がって、そこで止まりました。


 止まったまま、四半刻ほど動きません。


 わたくしは戸を開けて、土間の灯芯を伸ばしました。灯芯を伸ばしましても、坂の途中からは見えません。見えませんが、伸ばしました。


 やがて、灯が下りていきました。


 灯は二つとも、坂の同じ高さで止まっておりました。御者が話し合う場所は、いつもあのあたりでございます。


 「下りましたねえ」


 「はい」


 わたくしは戸を閉めませんでした。閉めますと、上がってきたときに一手遅れます。


 「あれは、越えるつもりだったんでしょう」


 「越えるつもりの荷は、坂の途中で止まりません」


 「では、なんです」


 「値が決まるのを待っている荷でございます」


 決まる前に越えれば、あとから取られるかもしれません。決まってから越えれば、いくら取られるかがわかります。わかるほうを選ぶのが、荷を扱う方の常でございます。


 戸を閉める前に、一の間を見に参りました。


 窓は閉めてございます。朝に開けて、昼に閉めました。誰も入っておりません。


 冬から、この部屋にお通ししたのは一度きりでございます。夏に、お名前をもう一度お書きになった方でございました。


 桟に指を置きますと、埃がついてまいりません。朝に拭いたからでございます。


 その晩、粥は炊きませんでした。


 厨の火を落として、帳場の灯だけを残しました。宿帳は開いたままにしてございます。


 抽斗から、油紙の束を出しました。


 紐を解いて、帳面を一冊、卓に置きました。手は、洗ってから触りました。


 日付が並んでおります。ひと月ぶんで一頁、その横に数が二つずつ。数の下に、短い言葉がございます。


 閉、と書いてある日がございました。開、と書いてある日もございます。


 わたくしは、指で頁を追いました。


 閉と書いてある日が続いて、そのあとに開が来ます。閉の日を数えますと、その年の分が出ます。数が二つ並んでいるのは、そのうちの一つが日数だったからでございました。


 もう一つの数が、何であるかはわかりません。


 帳面の紙は、宿帳より薄うございます。安い紙でございました。父は自分のものには金をかけません。


 「まだ読んでおいでで」


 「はい」


 「油が減りますよ」


 「あと一頁だけ」


 マノンが、こちらの手元を覗きました。覗いても読めないことは、この人がいちばんよくご存じでございます。


 数の下の言葉は、一字か二字でございます。閉。開。風。雪。それだけでございました。


 「何の数です」


 「日でございます」


 「何の日で」


 「峠が、閉じていた日でございます」


 この人は、しばらく黙っておりました。黙ってから、灯の芯を少しだけ伸ばしました。


 灯の芯が伸びますと、字の影が濃くなります。濃いほうが、古い字は読みやすうございます。


 「旦那様は、なぜそれを隠したんでしょうね」


 「わかりません」


 「隠すほどのものですか」


 「閉じている日が多い道は、道として弱うございます」


 わたくしは、帳面を閉じました。


 弱い道と役所に思われますと、直す順が後ろになります。後ろになれば、崩れたまま冬が来ます。父はそれを恐れたのかもしれません。


 けれども、それでは天井に上げる理由になりません。抽斗にしまっておけば済むことでございます。天井へ上げるのは、家探しをされても出てこない場所へ置くということでございます。


 父は、誰かに探されると思っていた。そう考えますと、隠した先が天井であることに理屈が通ります。


 通りますが、誰に、というところがわかりません。わからないまま、油紙を畳んで抽斗へ戻しました。

 翌日、街道局から触れが回りました。


 役人の異動を報せる紙でございます。宿には関わりのない紙でございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。