第29話 馬方が、来なくなりました
客の来ない日でも、宿の朝は同じでございます。
戸を開けて風を通し、湯屋の灰をかき出し、厩の藁を返します。乾かし場の炭は、朝のうちに一度熾します。熾さずにおきますと、湿気を吸って、いざというときに火がつきません。
誰も使わない乾かし場の炭を熾すのは、無駄なようでございます。無駄ではございません。使わない日が続いた宿は、使う日が来ても使えません。
一日目は、二台通りました。
二日目は、一台。三日目は、一台。四日目からは、ございません。
湯屋の釜は毎朝一度沸かします。沸かした湯は捨てます。捨てるのは惜しゅうございますが、釜は使わないと錆びます。
「今日で七日ですねえ」
「はい」
マノンが宿帳を指で押さえました。この人は字が読めませんので、押さえるのは日付の位置ではなく、頁の空白のところでございます。
この人の指は、日付の欄より少し右を押さえます。名前の書かれるところでございます。
「白いままですよ」
「はい」
「白い頁を、あたしは久しぶりに見ました」
冬のあいだ、この宿帳は毎日埋まっておりました。三年前に戻りますと、頁そのものがございません。宿は伯爵家のもので、帳場に人が座っておりませんでした。
わたくしは、その日も宿帳を開いて置きました。
開いておかないと、客が入ってきたときに手間取ります。手間取りますと、その方は最初の三十を数えるあいだ、立ったままになります。立たせてしまうと、二度目はございません。
昼に、薪を割りました。
冬のぶんは春から積んでございますが、割った薪は乾くのに半年かかります。今年割るぶんは、来年の冬に使います。客の来ない日は、来年のための日でございました。
斧の柄は、握るところだけ黒くなっております。父の手の跡でございます。わたくしの手は、まだそこまで届きません。
「お嬢さん」
「はい」
「昼を召し上がっておりません」
「あとでいただきます」
この人が本気で怒るのは、宿のことではございません。いつも、こちらの食事のことでございます。
「そうやって、あとにしたものを召し上がった例がありません」
マノンが薪割りの台の前に立ちました。斧を振り下ろす場所でございます。振れば当たりますので、振れません。
「どいてくださいまし」
「食べてからになさい」
「マノン」
この人は、退きませんでした。前掛けの紐を結び直して、両手を腰にあてておられます。
「あたしは、二人分は働きません」
わたくしは斧を置きました。
厨へ入って、焼いた麦を二切れいただきました。マノンは向かいに座って、こちらが食べ終わるまで立ちませんでした。
「粥にしましょうか」
「麦で十分でございます」
焼いた麦は、二切れで腹に溜まります。溜まりますが、力は出ません。力を出すには粥でございます。
「客がいない日は、こちらが食べる日ですよ」
「はい」
「屋敷では、そうしていらしたんでしょう」
わたくしは、麦を持ったまま手を止めました。
屋敷では、女中と厨の者の分を先に決めて、余ったものをいただいておりました。余らない日は、いただきません。誰にも咎められませんでしたので、三年そういたしております。
「そういたしておりました」
「ここは屋敷ではありません」
「はい」
午後、ジャンが厩の掃除をしておりました。
馬は一頭もおりません。うちの馬は父の代に手放しましたので、厩は客の馬のためだけにございます。空の厩を、この子は毎日掃きます。
厩の土間は、掃いても掃いても藁の屑が残ります。隅の一列だけ、この子はいつも二度掃きました。
「掃かなくてもよろしいのですよ」
「……」
「藁も、今日は替えなくて結構でございます」
ジャンは掃き続けました。止めずに、顎で厩の奥のほうを示します。それから、こちらを見ずに一言だけ申しました。
「匂いが」
「匂い、と申しますと」
「馬が、嫌がる」
空けたまま置いておくと、厩は湿った匂いになります。その匂いのする厩に、馬は入りたがりません。次に来る馬のために掃いている、ということでございました。
わたくしは、桶を一つ運びました。
「水は、わたくしが汲みます」
「……いい」
「では、こちらでいたします」
ジャンは首を横に振って、桶を受け取りました。この子は、人に仕事を渡しません。
夕方、坂の下に灯が見えました。
二つでございます。荷車の前灯でございました。灯は坂の途中まで上がって、そこで止まりました。
止まったまま、四半刻ほど動きません。
わたくしは戸を開けて、土間の灯芯を伸ばしました。灯芯を伸ばしましても、坂の途中からは見えません。見えませんが、伸ばしました。
やがて、灯が下りていきました。
灯は二つとも、坂の同じ高さで止まっておりました。御者が話し合う場所は、いつもあのあたりでございます。
「下りましたねえ」
「はい」
わたくしは戸を閉めませんでした。閉めますと、上がってきたときに一手遅れます。
「あれは、越えるつもりだったんでしょう」
「越えるつもりの荷は、坂の途中で止まりません」
「では、なんです」
「値が決まるのを待っている荷でございます」
決まる前に越えれば、あとから取られるかもしれません。決まってから越えれば、いくら取られるかがわかります。わかるほうを選ぶのが、荷を扱う方の常でございます。
戸を閉める前に、一の間を見に参りました。
窓は閉めてございます。朝に開けて、昼に閉めました。誰も入っておりません。
冬から、この部屋にお通ししたのは一度きりでございます。夏に、お名前をもう一度お書きになった方でございました。
桟に指を置きますと、埃がついてまいりません。朝に拭いたからでございます。
その晩、粥は炊きませんでした。
厨の火を落として、帳場の灯だけを残しました。宿帳は開いたままにしてございます。
抽斗から、油紙の束を出しました。
紐を解いて、帳面を一冊、卓に置きました。手は、洗ってから触りました。
日付が並んでおります。ひと月ぶんで一頁、その横に数が二つずつ。数の下に、短い言葉がございます。
閉、と書いてある日がございました。開、と書いてある日もございます。
わたくしは、指で頁を追いました。
閉と書いてある日が続いて、そのあとに開が来ます。閉の日を数えますと、その年の分が出ます。数が二つ並んでいるのは、そのうちの一つが日数だったからでございました。
もう一つの数が、何であるかはわかりません。
帳面の紙は、宿帳より薄うございます。安い紙でございました。父は自分のものには金をかけません。
「まだ読んでおいでで」
「はい」
「油が減りますよ」
「あと一頁だけ」
マノンが、こちらの手元を覗きました。覗いても読めないことは、この人がいちばんよくご存じでございます。
数の下の言葉は、一字か二字でございます。閉。開。風。雪。それだけでございました。
「何の数です」
「日でございます」
「何の日で」
「峠が、閉じていた日でございます」
この人は、しばらく黙っておりました。黙ってから、灯の芯を少しだけ伸ばしました。
灯の芯が伸びますと、字の影が濃くなります。濃いほうが、古い字は読みやすうございます。
「旦那様は、なぜそれを隠したんでしょうね」
「わかりません」
「隠すほどのものですか」
「閉じている日が多い道は、道として弱うございます」
わたくしは、帳面を閉じました。
弱い道と役所に思われますと、直す順が後ろになります。後ろになれば、崩れたまま冬が来ます。父はそれを恐れたのかもしれません。
けれども、それでは天井に上げる理由になりません。抽斗にしまっておけば済むことでございます。天井へ上げるのは、家探しをされても出てこない場所へ置くということでございます。
父は、誰かに探されると思っていた。そう考えますと、隠した先が天井であることに理屈が通ります。
通りますが、誰に、というところがわかりません。わからないまま、油紙を畳んで抽斗へ戻しました。
翌日、街道局から触れが回りました。
役人の異動を報せる紙でございます。宿には関わりのない紙でございました。




