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白い結婚を解消したら、旦那様の泊まる宿が無くなりました  作者: 一之瀬すみれ


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第30話 検分官の、異動

 街道局の触れは、宿場の板に貼られてから、三日ほどで坂を上がってまいります。


 運んでくるのは荷方でございますが、この夏は荷が動いておりません。今度の触れは、石橋の問屋の主が、麦の荷にくくりつけて上げてくださいました。夜のうちに置かれて、朝に見つけました。


 紙は薄く、字は書役の手でございます。


 街道局の秋の配置替えについて、と書いてございました。名が四つ並んでおります。どなたがどこへ移るか、それだけの紙でございます。


 三つ目の名を、二度読みました。


 ユーグ・ドルレアン。その隣に、北の街道局とございます。


 わたくしは紙を畳んで、帳場の抽斗へ入れました。入れてから、もう一度出して、日付を確かめました。触れの日付は、七日前でございます。


 紙の端が、麦の袋の紐で二か所折れております。折れたところの字が読めなくなっておりました。


 「何が書いてありました」


 「配置替えでございます」


 わたくしは抽斗を閉めて、鍵はかけませんでした。この宿に鍵のかかる抽斗はございません。


 「誰の」


 「街道局の方々の」


 マノンは、それ以上お尋ねになりませんでした。尋ねずに、朝の湯屋の灰をかき出しに出ていかれました。


 この人は、こちらが答えを短くしたときに、必ず一度は引きます。引いてから、日暮れに戻ってまいります。


 昼前に、馬が一頭、坂を上がってまいりました。


 ジャンが厩から出て、手綱を受け取りました。この子は前脚を見て、それから水の桶を出します。汗の引き方が早い馬でございました。


 ユーグ様でございます。


 外套は職務のときのものでございます。肩に街道局の紐が縫いつけてございました。夏のあいだお越しになったときは、この紐がついておりませんでした。


 紐は、肩から胸へ斜めに一本。局の色は濃い青でございます。遠くからでも街道の者にはわかります。


 「街道局です」


 「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」


 夏に一度、この方は客としてお泊まりになりました。あのときの名乗りは、客だ、のひと言でございました。


 「検分だ」


 「どうぞ。宿帳をご覧になりますか」


 「見る」


 わたくしは宿帳を開いて、客のほうへ向けて置きました。


 この方は頁を繰って、七日ぶんの空白をご覧になりました。ご覧になって、指を止められました。


 空の頁は、繰る音が違います。字のある頁より軽うございます。


 「客が来ていないな」


 「はい」


 わたくしは日を数えませんでした。数えなくても出る数でございます。


 「いつからだ」


 「十一日でございます」


 この方は、鉛ではなく筆で書かれます。局へ出す紙には筆と決まっているそうでございます。書きながら、こちらをご覧になりませんでした。


 筆で書きますと、書いた字が乾くまで頁を閉じられません。局の紙は、そういう作りでございます。


 「値の話は聞いたか」


 「うかがっております」


 「誰から」


 「石橋の問屋の主と、ダンジュ男爵様から」


 筆が、そこで一度止まりました。止まって、また動きました。


 男爵様のことは、伺われる前に申し上げました。伺われてから申し上げますと、隠していたことになります。


 「男爵が、ここへ来たか」


 「はい。地図を広げて、お帰りになりました」


 「泊まらずにか」


 「泊まらずに」


 わたくしは麦湯を注いで、帳場の端に置きました。


 この方は湯呑をご覧になりましたが、手を伸ばされませんでした。職務の日は、召し上がりません。父の代からそうだったそうでございます。


 冷めましたら、下げて注ぎ直します。それだけのことでございます。


 「通行料の願いは、局に出ている」


 「さようでございますか」


 「石橋の町から出ている。町の判が押してある」


 町の判は、木の判でございます。押すのは町の年寄で、代々同じ判を使っております。


 「町の方々は、承知なさったのでございますね」


 「判は押してある」


 押してある、と二度おっしゃいました。承知した、とはおっしゃいませんでした。


 この方は、調べるとおっしゃったあと、いつも何を調べるかまでは先におっしゃいません。


 「局は、どうなさいますか」


 「調べる」


 「何を、でございましょう」


 見合うか見合わないかで決まるのでしたら、そこに宿の言い分は入りません。入らないほうが、この方らしゅうございます。


 「道を直すのにいくらかかるか。取る金がそれに見合うか。それだけだ」


 わたくしは、両手を前で揃えました。


 「見合いましたら」


 「通る」


 外で、風が回りました。厩の戸が一度鳴って、ジャンがそれを押さえる音がいたしました。


 厩の戸の音が止まりました。ジャンが心張り棒を入れたのでございましょう。


 「もう一つ、伝えることがある」


 「はい」


 「巡行の経路が、正式に決まった。峠の手前の一泊は、この宿だ」


 「うけたまわっております」


 わたくしは、麦湯を注ぎ足そうとして、まだ減っていないことに気づきました。


 「決まった理由を、あんたは知らんだろう」


 「存じません」


 この方は筆を置いて、はじめて湯呑に手を伸ばされました。伸ばして、持ち上げずに縁だけを指で触られました。


 「王都の会議で、あんたの父上の帳面の写しが読まれた」


 「うかがっております」


 宮内府の方は、この宿の梁と寸法だけを書き取っていかれました。帳面の話は、一度もお出しになりませんでした。


 「読んだのは宮内府だ。街道局ではない」


 わたくしは、宿帳の頁を押さえておりました。


 「宮内府が、なぜ」


 「巡行の経路を決めるのは宮内府だからだ。局は道を出すだけで、どこへ泊まるかは決めん」


 局と宮内府は、別の役所でございます。その別の役所が、同じ紙を読んでおります。


 「では、あの帳面が」


 「峠の手前に一等宿が要る、と局が判じた根拠が、そのまま経路の根拠になった」


 厨のほうで、水を汲む音が止まりました。


 父の帳面は、三十年ぶんの道の記録でございます。父はそれを、宿のために書いたのではございません。通る人のために書きました。


 通る人の中に、王室が入るとは思っていなかったでしょう。


 わたくしは、宿帳の頁から手を離しました。離した紙が、ゆっくり戻ります。


 「ありがとうございます」


 「礼を言われる話ではない」


 「はい」


 「私は運んだだけだ」


 この方は湯呑から指を離して、筆を片づけられました。紙を折る手が、いつもより速うございます。


 わたくしは、そこで一度だけ息を吸いました。


 言わずにおくこともできました。言わずにおきますと、この方は言わずにお発ちになります。


 「触れを、拝見いたしました」


 筆を入れる筒の蓋が、閉まりませんでした。


 この方は蓋を持ち直して、閉めてから、外套の内側へ入れられます。


 この方の声は、いつもと変わりませんでした。変わらないのが、この方の答え方でございます。


 「そうか」


 「北の街道局と、書いてございました」


 「秋の終わりだ」


 「うけたまわりました」


 それだけ申しました。


 この方は立ち上がって、戸口のほうへ二歩お進みになります。進んで、そこでお止まりになりました。


 外套の裾に、坂の泥がついておりません。今日も川沿いを上がってこられました。


 「聞かんのか」


 「何を、でございましょう」


 「なぜ北へ行くか、だ」


 「うかがっても、変わりませんので」


 「……そうだな」


 引き止めるのは、宿の仕事ではございません。宿の仕事は、また泊まれる場所として残っていることでございます。


 「宿は、お発ちになる方を引き止めません」


 この方は、こちらを振り返られませんでした。


 「良い宿だ」


 「ありがとうございます」


 「人が通るように出来ている」


 馬が坂を下りていきました。ジャンが厩の前に立って、見えなくなるまで動きませんでした。


 夕方、マノンが厨から出てまいりました。灰の匂いがいたします。


 灰は、湯屋の裏へ捨てます。捨てた灰は、冬の凍った坂に撒きました。滑り止めになりますので、捨てずに溜めております。


 「あの方、秋にいなくなるんですね」


 「はい」


 「触れに書いてあったのは、そういうことですか」


 「はい」


 この人は、聞き方でこちらを追い詰めます。追い詰めているつもりはございません。


 「引き止めなかったんですか」


 「引き止めておりません」


 マノンは前掛けで手を拭いて、こちらの前に立たれました。


 わたくしは、乾かし場の鉤を数えました。今日も六つでございます。


 「なぜです」


 「引き止めれば、あの方は職務を曲げた方になります」


 「曲げたっていいじゃありませんか」


 「曲げる方でしたら、春に街道は付け替えられておりました」


 この人は、口を開けて、また閉じました。


 閉じてから、鍋の蓋を持って厨へ戻っていかれました。戻りながら、こちらに背を向けたまま申されました。


 「……あたしは、引き止めてほしかった」

 その晩、灯を近くへ寄せました。


 昼に読んだ紙を、もう一度はじめから読むためでございます。

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