第31話 規式の写しは、いつのものでしょう
紙を読むのは、夜が向いております。
昼は光が強すぎて、字の墨がかすれているところを見落とします。灯の下でございますと、かすれた字は影で読めます。父は帳面をつけるとき、必ず日の落ちてからにしておりました。
街道局の認可の紙を、四度目に読みます。
一度目は春に読みました。二度目はヴァレンヌ様がお見えになった日で、三度目は羊の朝でございます。四度目は、誰にも見られていない夜でございました。
紙のいちばん下に、細い字で一行ございます。
当該認可は、街道法の定めるところによる。
その次の行に、街道法が改まった年が書いてございました。今年からかぞえて、十一を引いた年でございます。
わたくしは、その数を指で押さえました。
規式帳の表紙の内側に刷ってあった年は、二十二を引いた年でございます。
二十二と十一。差は十一でございました。
十一年前と申しますと、わたくしが屋敷へ嫁ぐ、そのまた前でございます。父はまだ帳場におりました。
「まだ起きておいでで」
「はい」
油は、夏のうちに石橋で買い足しておきました。買い足したときの値は、まだ上がる前でございます。
「油が減りますよ」
「あと少しで済みます」
マノンが灯の脇に湯呑を置いて、そのまま向かいに座られました。座って、こちらの手元を見ておられます。読めないものを見るのは、この人の癖でございます。
湯呑からは、麦を煎った匂いがいたします。この人は、こちらが遅くなる晩に必ず煎りました。
「何を数えておいでです」
「年でございます」
「年、と申しますと」
「紙が作られた年でございます」
紙そのものに古いも新しいもございません。古いのは、そこに書いてある決まりのほうでございます。
「古い紙は、駄目なんですか」
わたくしは、湯呑に手を伸ばしませんでした。
「駄目ではございません。ただ、古い紙で新しい紙を上から押さえることは、できません」
街道法は王国の法でございます。規式は、巡行のたびに作られる取り決めでございます。作られる順が違います。
「押さえる、と申しますと」
「規式は、街道法の下にございます」
この人は、しばらく黙っておりました。黙ってから、湯呑をこちらの手元へ二寸だけ寄せられました。
寄せてから、指を離しません。飲むまで見ているつもりでございましょう。
「そのことを、あの方に申し上げるんですか」
「申し上げません」
「なぜです」
「申し上げますと、新しい版をお取り寄せになります」
新しい版を取り寄せて、そこに同じ条が入っておりましたら、こちらの分がなくなります。入っていなければ、そのときは向こうがお困りになります。
どちらであっても、今こちらから申し上げる必要はございません。
わたくしは、湯呑を持ち上げて一口いただきました。煎った麦の湯は、冷めても甘うございます。
「意地が悪うございますねえ」
「宿の主でございますので」
朝、石工の方が三人、坂を上がってこられました。
荷車はございません。道具袋を背負って、歩いておいででした。坂の下の二人は、この方々を止めませんでした。
三人とも、肩の高さが違います。石を担ぐ側の肩だけが上がるからでございます。
「銀の梯子亭かね」
「はい。いらっしゃいませ」
わたくしは前掛けの紐を結び直して、土間へ下りました。十一日ぶりの支度になります。
「三日ばかり、泊まりたい」
「うけたまわりました。二の間が空いております」
久しぶりの客でございます。
湯屋の釜は毎朝沸かしておりましたので、すぐにお使いいただけました。乾かし場の炭も熾してございます。使わない日に熾しておいたのは、この日のためでございました。
二の間 石工三名 三泊 薪ふつう
顔:親方、左の手のひらに石の粉が入って青い
匂い:石と、鉄
夕餉のあとで、親方の方が帳場へ来られました。
夕餉は、粥を厚めに炊いて、干した魚を焼いてお出ししました。石を扱う方は、塩を多めになさいます。
「支払いは、先にしておく」
「三日ぶんでございますね」
「うちは日雇いだ。あとから払えん日が来ることがある」
「では、頂戴いたします」
銀貨で三枚と十八。三名の三泊、湯と食事つきでございます。
銀貨は、受け取ってすぐに帳場の箱へ入れます。数え直すのは、客がお発ちになってからでございます。
「坂の肩を見に来られたのでございますか」
「よく知っておるな」
「道具袋に、石の墨壺が入っておりましたので」
親方は笑って、椅子に腰を下ろされました。
「春の雨で二か所落ちておるだろう。あれを直す見積もりだ」
春に落ちたのは、坂の中ほどと、川へ下りる手前の二か所でございます。どちらも縄が張ってございます。
「どなたのご依頼でございましょう」
「石橋の町だ。……ということになっておる」
わたくしは、麦湯を注ぎました。注いでから、卓の縁に置きました。
「なっておる、と申しますと」
「町の年寄が呼びに来たが、金の話をしたのは町の者じゃなかった」
「さようでございますか」
わたくしは、注いだ手をそのまま卓の上へ置きます。置いてから、布巾を取りました。
「地図を持った旦那だ。名は聞かんかったが、翼のある魚の紋がついておった」
厨の火が、一度小さくなりました。
ダンジュ家の紋でございます。
「見積もりは、いかほどになりそうでございましょう」
「坂の肩だけなら、銀貨で四百というところだ」
四百と申しますのは、うちの一年の入りのおよそ半分でございます。町が出せる額ではございません。
「峠の岩も、と伺っておりましたが」
「あれは無理だ」
親方は湯呑を置いて、両手を卓の上で組まれました。手の甲に、細かい傷が何十とついております。
「峠の岩を落とすなら、南斜面に足場を組む。あそこは三十年前に一度崩れとる。組めば、また崩れる」
足場を組むという言葉を、父の帳面で見たことがございます。三十年前の頁でございました。
「では、いかほどに」
「いくらでもかかる。いくらかかるかわからん、というのが正しい」
わたくしは、宿帳の頁を押さえました。
道を直す金がいくらかかるか。取る金がそれに見合うか。それだけだ、とユーグ様は申されました。
いくらかかるかわからない工事は、見合うとも見合わないとも判じられません。判じられないものは、役所では通りません。通らないことを、この親方はご存じでございます。
「そのことは、ご依頼の方にお伝えになりましたか」
「伝えた。書いて渡した」
「なんとおっしゃいましたか」
「坂の肩だけ書け、と」
夜、坂の下に馬車の灯が見えました。
上がってはまいりませんでした。坂の途中で止まって、しばらくして下りていきました。灯が二つでございましたので、荷車ではございません。
翌朝、ヴァレンヌ様がお見えになりました。
朝の坂は霧が出ておりました。細い車輪の音が、いつもより近くに聞こえます。
「巡行まで十日だ」
「うけたまわっております」
坂の下の二人が、朝のうちに三人へ増えておりました。数えたのはジャンでございます。
「石工が泊まっているな」
「はい。三泊いただいております」
「巡行の前三日は、客を入れるな。前に申した」
「うけたまわりました。石工の方々は、明日お発ちでございます」
この方は帳面を開いて、鉛で何かを書き足されました。
「宿の者」
「はい」
「巡行の前の日に、もう一度来る」
「お待ちしております」
馬車が坂を下りていきました。霧のせいで、車輪の音だけが長く残ります。
伺わずにおいたことが、一つございます。
その規式帳は、いつのものでございましょう。
伺わずに、宿帳を開いて、客のほうへ向けて置きました。開いた頁は、まだ白いままでございます。
石工の方々は、三日目の朝に発たれました。
宿帳の最後の行に、親方が一言だけ書き足していかれました。峠の岩は、落とせぬ。




