第32話 マノンの手
巡行まで八日となりました。
客を入れられませんのは前三日でございますので、まだ五日は開いております。開いておりますが、坂を上がってくる荷はございません。
することは、いくらでもございました。
寝台を二十二、全部出して脚を拭きました。藁を入れ替え、毛布を日に当て、湯屋の桶の箍を締め直します。厩の二階へ上がる梯子の段を、もう一か所継ぎました。
毛布は日に当てると藁の匂いが抜けます。抜けた毛布は、初めての客がよく眠れます。
「毛布は、七枚出しますよ」
「六枚で結構でございます」
七枚目は、いつも一の間の分でございます。
「七枚要るでしょう。人が来るんですから」
「では、六枚と、あとで一枚」
マノンは六枚を抱えて出ていかれました。七枚目は、板の間に置いたままでございます。
置いたままにしておきますと、この人は昼を過ぎたころに、一枚だけ持って出ます。落とさずに済む数を、ご自分で決めておいでなのだと思います。
昼過ぎ、麦を挽きました。
石臼は重うございますので、二人で回します。ジャンが片方を持って、わたくしがもう片方を持ちます。回すあいだ、この子は何も申しません。
石臼は時計と逆に回します。逆に回すと粉が粗くなりますので、粥にするときだけそちらへ回します。
「巡行の日は、厩をお願いいたします」
「……はい」
十六頭と申しますのは、厩に入るのが十二頭、あとの四頭は囲いにつなぐという数でございます。
「馬が十六頭でございます」
「二階に、藁を上げます」
この子は足りるか足りないかを聞かれたとき、いつも先に厩のほうを見ます。見てから答えます。
「お一人で足りますか」
ジャンは、うなずきました。
うなずいてから、臼の把手を持ち直します。持ち直したときに、手の甲に黒いものがついているのが見えました。
墨でございます。
わたくしは、そのことを申しませんでした。厩の仕事で墨がつくことはございませんが、申しますと、この子は手を洗いに行ってしまいます。
夕方、二の間の窓を閉めに参りました。
閉めながら、庭のほうを見下ろしました。厩の窓に、灯が入っております。
この時刻に厩で灯を使うのは馬がいるときだけでございます。今夜は一頭もおりません。
わたくしは、階を下りました。
下りて、土間で足を止めました。厨に、マノンがおりません。鍋は火から下ろしてあって、蓋がずらしてございます。この人が長く出るときの置き方でございます。
厩の戸は、半分だけ開いておりました。
中で、声がいたします。
板は指物の残りでございます。親方が置いていかれたものでございました。
「……こっちが先だ」
「先に、こっち」
「だから、そう言っておりますでしょう」
「ちがう」
わたくしは、戸の外で立ち止まりました。
板の上に、灯が一つ置いてございます。灯のまわりに、平たい木の板が三枚。マノンが片方に座って、ジャンがその隣に膝を立てて座っております。
板には、炭で字が書いてございました。
炭は厨の熾から拾ったものでございます。細く割れているものだけが選んでございました。
「イ、と書いてあります」
「……イ」
字を教える声は、ふだんのこの子の声より高うございます。
「その次が」
「レ」
板の上の字は大きく書いてございます。目の遠い方でも見えるようにでございましょう。
「レ。その次は」
マノンの指が、板の上を左から右へ動きました。動きが遅うございます。指の先が震えているのは、寒いからではございません。
「……ヌ」
「イ、レー、ヌ」
ジャンが、板の下のほうを指しました。
線は三本でひとつの字になります。三本のうち、いちばん短いものが揃いません。
「これで、ひとつ」
「ひとつ、と申しますと」
「名前」
マノンは、しばらく板を見ておりました。見てから、炭を持って、同じところをなぞりました。
なぞった線は、ジャンの書いた線から外れます。外れたところで手を止めて、また戻して、もう一度なぞられました。
三度目に、線が重なりました。
重なったところだけ、炭が濃くなっております。
「……書けましたよ」
「はい」
読める、と書ける、は違います。この人は、いま書いたほうを先に覚えられました。
「これが、あたしの読める字ですか」
「まだ、ひとつ」
「ひとつで十分です」
わたくしは、戸から二歩下がりました。
下がった拍子に、厩の壁に立てかけてあった板が倒れました。二の間から外した古い天井板でございます。
中の灯が動きました。
板は土間の石の上で乾いた音を立てました。厩の中まで届く音でございます。
「……お嬢さん」
「ごめんなさい」
わたくしは戸を開けました。開けてから、何を申すか決めておりませんでした。
マノンは炭を持ったまま、板の前に座っておいでです。ジャンは立ち上がって、灯を吹き消そうとして、思い直したように手を下ろしました。
灯の油は厩のものではございません。厨の棚から持ち出されたものでございます。
「見ておいででしたか」
「はい」
「いつからです」
「イ、のところから」
マノンは、板を膝の上へ寄せられました。寄せてから、こちらへ向けられませんでした。
「笑ってくださって結構ですよ」
「笑いません」
六十二で始めた方を、わたくしは存じません。存じませんが、遅いという道理もございません。
「六十二です。今さらでしょう」
「今さらではございません」
わたくしは、板の間に膝を折りました。折って、灯のこちら側に座りました。
厩の板の間は、藁の屑が落ちております。膝を折りますと、前掛けにつきます。
「なぜ、お始めになりました」
マノンは、答えられませんでした。答えずに、炭を板の縁に置かれました。
置いてから、厩の奥のほうをご覧になりました。奥には何もございません。
この人は答えにくいことを尋ねられると、必ず別のものの話から始められます。
「棚の上に、束がありますでしょう」
「はい」
「あんたが、三年書いたやつです」
油紙に包んだ手紙の束でございます。冬に梁から下ろして、日付の順に並べ直しました。読めない人が三年守ったものを、読める人が捨てるわけにはまいりません。
束は三十一でございます。ひと月に一通なら三年で三十六のはずですが、五通は届かなかったのでございましょう。
「あれをね、あたしは一通も読んでおりません」
「存じております」
「三年、匂いだけで持っておりました」
マノンは、前掛けの端で炭の粉を払われました。
わたくしは膝の上で手を重ねました。重ねた手を動かしません。
「読みたいんですよ」
「……はい」
書いたのは、薪の話と、人の話でございます。しんどいとは、一度も書いておりません。書けば、届いた先の人が困りますので。
「あんたが何を書いてよこしたのか、あたしは知らんのです。薪の話か、人の話か。それとも、しんどいと書いてあったのか」
厩の梁の上で、風が鳴りました。
三十一通を、一日に一通ずつ読むといたしますと、ひと月でございます。字を覚えるほうに、その何十倍かかかります。
「読めるようになるまでに、何年かかりましょうね」
「束は、逃げません」
「そうですねえ」
ジャンが、板をもう一枚出してまいりました。出して、灯の脇へ置きます。
置いてから、こちらを見ずに炭を差し出しました。
わたくしは受け取って、板に一文字だけ書きます。
マ、と書きました。
わたくしの書く字は父に似て右が下がります。ジャンの字のほうが、よほど読みやすうございました。
「これは」
「マノンの、マでございます」
この人は、板を両手で持たれました。持って、しばらく持っておいででした。
「……名前が、先でしたねえ」
「はい」
「あたしのほうが、あとでよかったのに」
「先でございます」
その晩、宿帳を開いたままにして、帳場の灯を落としました。
厩の灯は、しばらく点いておりました。
翌日の昼、坂を上がってくる人影がございました。
荷はございません。歩きでございます。日傘も持たずに、日の高いうちから登っておいででした。




