第33話 働き口を、お探しでしたか
歩いて坂を上がってくる方は、遠くからでもわかります。
荷車は音で来ます。馬は砂利の弾き方で来ました。人だけは、音がしないまま、坂の曲がりから急に現れます。
その方は日傘をお持ちでございませんでした。
秋の初めの日は、まだ強うございます。峠から下りる風が乾いておりますので、日陰へ入るまで汗が出ません。汗が出ないぶん、体の水が抜けているのに気づきません。
わたくしは水の入った椀を持って、土間の前まで出ました。
水は、朝に汲んだものを甕へ移してございます。移してから半日置きますと、坂の下の流れの匂いが抜けます。
「まず、こちらをどうぞ」
「……あの」
この方が何をおっしゃりたいかは、まだ存じません。存じませんが、日向で聞く話ではございませんでした。
「日陰へお入りください。お話は、そのあとで伺います」
ヴィオレット様でございました。
髪をひとつに束ねて、外套ではなく麻の上着をお召しでございます。靴は歩くための靴で、爪先に泥がついておりました。
椀を両手でお持ちになって、二口だけ飲まれました。
二口で止められたのは、遠慮ではございません。喉が渇きすぎますと、人は一度にたくさん飲めなくなります。
「たくさん召し上がってください。峠の風は乾いております」
「はい」
板の間の端にお座りいただきました。日の当たらないほうでございます。
マノンが厨から顔を出して、こちらを見て、また引っ込みました。引っ込むときに、鍋の蓋を置く音がいたしません。
板の間の日陰は、この時刻でしたら厨の側でございます。西日が回るのは、あと一刻ほど先でございます。
「石橋から、歩いておいででしたか」
「乗合が、朝の一便だけになりましたので」
「さようでございますか」
「荷が動いておりませんから」
わたくしは、椀にもう一度水を注ぎました。
乗合の馬車は荷のついでに人を乗せます。荷が止まりますと、人だけを乗せる便は割に合いません。町の暮らしから先に細くなってまいります。
わたくしは、屋敷の話をこちらから始めませんでした。始めますと、伺いたいことを伺う形になります。
「お屋敷は、いかがでいらっしゃいますか」
「回っておりません」
ヴィオレット様は、椀を膝の上へ置かれました。
「厨の者が三人出て、女中が四人出ました。残っておりますのは、年寄りの家令と、わたし一人です」
厨の者三人と女中四人。三年のあいだ、わたくしが人繰りをしていた屋敷でございます。名は、まだ全部言えます。
「ご主人様は」
「王都へ行っております。もう半月になります」
「さようでございますか」
わたくしは、それ以上お尋ねいたしませんでした。
半月屋敷を空けている方が何をしておいでかは、伺わなくても察しがつきます。金を借りに行く先がなくなった方は、遠くへ行きます。
水を注ぎ足して、椀を膝の高さで受け取っていただきました。板の間へ置きますと、日が回ったときに温まります。
「イレーヌさん」
「はい」
「こちらで、働かせていただけませんか」
厨で、鍋が煮立ちました。マノンが火から下ろす音がいたしました。
わたくしは、椀を持つ手を膝の上へ下ろしました。
働かせてほしいと言われて、なぜ、と伺うのは道理ではございません。何ができるか、が宿の伺い方でございます。
「何がおできになりますか」
ヴィオレット様は、そこで少しだけ顔を上げられました。伺われると思っておいでではなかったのでしょう。
「……縫い物は、いたします」
縫い物のできる方は、宿では毛布と外套を直します。年に何度かの仕事になります。
「はい」
「あとは、字が書けます。帳面もつけられます」
湯は沸かすだけではございません。何刻に落とすか、誰から入れるか、桶をいくつ出すかまでが湯でございます。
「湯は沸かせますか」
「沸かしたことは、ございません」
藁は替えるより、下の湿ったところを見分けるほうが難しゅうございます。ジャンは十五で見分けます。
「厩の藁は替えられますか」
「……いいえ」
「客が三十人まいりましたら、湯の順を決められますか」
この方は、答えられませんでした。
答えられないまま、椀の縁を親指でなぞっておいででした。ロラン様と同じ癖でございます。夫婦は、そういうところが似てまいります。
わたくしは、そこで一度、間を置きました。置いてから申し上げました。
「うちでは、お雇いできません」
「……はい」
「宿は、部屋が三つでございます。人は三人でございます。三人で足りているうちは、四人目をお雇いいたしません」
「わかりました」
人を増やして回る宿は、客が減ったときに人を減らします。減らされる方は、たいてい後から来た方でございます。
「巡行の三十八名がまいりましても、三人でいたします」
ヴィオレット様は、椀を板の間へ置かれます。置いた椀が、少し傾いて水がこぼれました。
こぼれた水を、この方はご自分の袖で拭かれました。
こぼれた水は、板の目に沿って走ります。走った先に、寝台の脚がございます。
「拭くものをお持ちいたします」
「いいえ。……いいえ、大丈夫です」
「そのままにしておきますと、板が白くなります」
わたくしは布巾を取って、板の間を拭きました。拭きながら、そのまま申し上げました。
問屋の主は、荷札の出ない夏を越そうとしておられます。帳面を見る人が要るはずでございました。
「石橋の問屋へ、お行きなさいませ」
「問屋、でございますか」
「主に、わたくしから文を書きます。あちらは字の書ける方をお探しでございます」
文は、頼み事ではございません。あちらの入用と、こちらの知っていることを並べて書くだけでございます。
「なぜ、そこまで」
「うちの麦を、荷札なしで上げてくださっている方でございますので」
この方は、しばらく黙っておいででした。
黙ってから、膝の上で手を組まれました。組んだ手の指に、指輪がございません。跡だけが残っております。
指輪の跡は、指の付け根に白く残っておりました。外してから、まだ日が浅うございます。
「わたし、宿でなければならないと思っておりました」
「なぜでございましょう」
「あなたが、宿で立ち直られたからです」
わたくしは、布巾を絞りました。
「わたくしは、立ち直っておりません」
「……え」
「戻っただけでございます。ここは、わたくしが十のころから知っている場所でございます」
「はい」
「あなた様のその場所は、ここではございません」
厨から、マノンが麦湯を二つ持って出てまいりました。
置いて、何も言わずに戻っていかれました。この人が客に何も言わないのは、言うことがないときではございません。言うと長くなるときでございます。
麦湯は、客の前に置くときだけ両手で置きます。マノンは、客が誰であってもそういたします。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
この方がご存じかどうかは、伺わなければわかりません。伺えば、伺ったことが向こうへ伝わります。
「峠の値の話は、ご存じでいらっしゃいますか」
ヴィオレット様は、湯呑に手を伸ばして、止められました。
「父が、揉めております」
「揉めて、と申しますと」
「石工の見積もりが、坂の肩の分しか出てこないそうです。峠の岩の分を出せと言っても、書けないと言われたと」
「さようでございますか」
石工の親方は、三日泊まって、宿帳に一行だけ書き残していかれました。峠の岩は、落とせぬ。
「父は、書けないのではなく書かないのだと申しております」
わたくしは、湯呑を両手で包みました。
書けない見積もりと、書かない見積もりは違います。石工の親方は、書けないほうだとおっしゃいました。
「もう一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
わたくしは、湯呑を卓へ戻しました。戻す音を立てませんでした。
「巡行の人数を、お聞きになっておいでですか」
「三十八と伺っております」
「父は、四十を超えると申しておりました」
厨のほうで、麦を量る音が止まりました。
三十八と四十では、二つ違います。二つ違いますと、寝床の割りが変わります。
日の傾く前に、ヴィオレット様は坂を下りていかれました。
文は、その場で書いてお渡ししました。封はいたしませんでした。読んでから届けるほうが、この方の気が楽でございましょう。
坂の途中で、一度こちらを振り返られました。
その晩、宮内府から紙が一枚届きました。
届いたのは夜のうちで、置いていったのが誰かは存じません。




