第6話 雪の夜に泊まった男
雪は、六日目の夜に来ました。
風が三日続いたとおりです。ジャンが指を三本立てた日から数えて、ちょうど三日でした。
降り始めは細く、坂の石畳を濡らすだけでしたが、夜半に粒が変わりました。粒が変わると音が変わります。屋根を叩く音がやんで、綿を置くような音になる。そうなったら、朝には積もっています。
朝、二の間の帆布の上に、雪の重みで窪みができていました。
棒で下から突いて落とします。落とさずにおくと、水を含んで丸太ごと落ちます。突いているところへマノンが桶を持ってきて、落ちた雪を受けました。溶かせば水になりますので、井戸を汲む手間がそのぶん減ります。
「お嬢さん。今日から人が減りますよ」
「はい。峠は今日で締めでございます」
「締めですか」
「今朝の雪の量でしたら、今日いっぱいは越えられます。明日からは、越えようとした人が谷に落ちます」
その日、宿を出ていったのは七人でした。
入ってきたのは、一人です。
昼を少し過ぎた頃でした。
坂を上がってきたのは馬に乗った男の人で、外套に雪をつけたまま、宿の前で降りました。降りてすぐ、宿を見上げました。
看板を見たのではありません。屋根を見ていました。
「街道局の検分です」
男の人は、そう言いながら土間に入ってきました。
背が高く、髪が黒く、二十九か三十くらいに見えます。外套の肩の雪を払いもせずに、天井を見上げました。
「この宿は、あと一冬もちません。梁が笑っている」
「はい」
「はい、で済ませるのか」
「済ませてはおりません。承知しております、という意味でございます」
男の人は、わたくしの方を見ませんでした。梁の下まで歩いていって、手を伸ばして、下から指で押しました。押したところが、少し沈みます。
「二の間と三の間は使っているか」
「二の間は帆布を張って使っております。三の間は物置でございます」
「帆布」
「梁が湿っておりますので、釘は打っておりません。丸太を渡して巻きつけ、重しを載せております」
男の人の指が、止まりました。
初めてこちらを見ました。
「……誰の判断だ」
「わたくしでございます」
「主人は」
「わたくしが主人でございます」
男の人は、少しのあいだ黙っていました。
それから外套の内側から革の綴りを出して、帳場の台に置きました。
「街道局の検分官、ユーグ・ドルレアンだ。宿帳を見せてもらう」
「どうぞ」
わたくしは宿帳を出しました。父の書式のものです。ドルレアン様は開いて、日付の並びを目で追われました。
顔と匂いの欄のところで、指が止まりました。
「この二列は」
「父の書式でございます」
「何のために」
「名前は書き換えられますが、顔と匂いは書き換えられません。父はそう申しておりました」
ドルレアン様は答えず、頁を戻していかれました。
三年前の頁まで戻って、そこで止まりました。ずいぶん長いあいだ、その頁を見ておられました。
マノンが厨から出てきて、麦湯の椀を台に置きました。
「お客様。湯冷めなさいますよ」
「客ではない」
「じゃあ、そこの濡れた人。飲みなさい」
ドルレアン様が、椀を見ました。
それから、飲まれました。
「……検分の項目を読み上げる。屋根、梁、井戸、湯屋、厩、火の始末。それから、この宿場に泊まれる箇所と、その総数」
「総数でございますか」
「そうだ」
わたくしは帳場の端を握りました。
街道局が宿の数を数えるのは、二つのときだけです。宿を増やす許しを出すときと、街道の道筋を変えるときです。
「ドルレアン様」
「なんだ」
「数えたあと、街道局は何をなさいますか」
ドルレアン様は、綴りを閉じました。
「答える立場にない」
「さようでございますか」
「私は職務でここにいる。それ以上の意味はない」
その言い方が、あまりに平らでしたので、わたくしはかえって手を離しました。
嘘をつく人は、意味はない、とは言いません。意味はない、と言えるのは、意味を持たされたくない人です。
夕方までかかって、ドルレアン様は宿を見て回られました。
井戸の縄を引いて、上がってきた水の澄み方を見る。湯屋の床の傾きに水を垂らして、流れる先を確かめる。厩に入って、藁を掴んで匂いを嗅ぐ。厨の竈の口に手を入れて、煤の付き方を見る。
どれも、見る場所が正しい人の見方でした。宿を知らない役人は、まず客間の広さを測ります。この方は最後まで客間を測りませんでした。
厩では、ジャンがずっとついて回っていました。
ドルレアン様が馬の飼い葉桶の底を覗かれたとき、ジャンが横から手を出して、桶を少し傾けました。底の隅に、古い麦の粒が溜まっているところです。
「洗っていないな」
ジャンが首を横に振りました。それから、桶の縁を指で叩いて、その指を自分の鼻に当てました。
「……匂いを残してあるのか」
ジャンがうなずきました。
わたくしは横から申し上げました。
「新しい馬は、匂いのない桶から食べません。前の馬の匂いが残っているほうが、早く食べ始めます。父がそうしておりましたので、この子もそのままにしております」
ドルレアン様は桶を戻して、しばらくジャンを見ておられました。
ジャンは、見られていることに気づいていない顔をしていました。この子はいつもそうです。人を見ずに、馬だけを見ています。
湯屋の床では、水を垂らしたあとに屈んで、流れの先の排の口へ指を入れられました。
「詰まっていない」
「毎朝、灰を落としております」
「灰か」
「油が浮きますので、灰を撒いて掻き出します。湯屋の水は、油で詰まりますので」
「誰に習った」
「父でございます」
「そうか」
この方は、そうか、をよく使われます。感心したときも、そうかとしか言われません。声の高さも変わりません。ただ、そのあと必ず、次の場所へ歩き出されます。歩き出す速さだけが少し変わります。
「終わりだ」
日が落ちる前に、綴りを閉じられました。
「屋根は落ちる。ただし、落ちるまでに直せば宿としての格は落ちない。井戸と湯屋と厩は、この街道で上のほうだ」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋ではない。事実を書いただけだ」
ドルレアン様は外套を着て、戸口まで行かれました。
そこで、止まりました。
「……主人は、ラフォンの娘か」
「はい」
「そうか」
それだけでした。
馬に乗って、坂を下りていかれます。わたくしは戸口に立って、その背中を見ておりました。雪の上に蹄の跡が四つ並んで、そのうち二つがすぐに消えました。新しい雪です。
マノンが、隣に来ました。
「お嬢さん」
「はい」
「あの人、うちに泊まったことがありますよ」
わたくしは、マノンを見ました。
「宿帳にはございませんでしたが」
「宿帳には無いでしょうね。名乗らなかったんですから」
マノンが、鼻から息を吸いました。
「三年前の、いちばん雪の深かった晩です。峠から人が一人下りてきて、玄関先で膝から落ちました。親父さんが引きずり込んで、湯屋に入れて、朝まで火の番をしてました。朝には、いなくなってました」
「代金は」
「置いていきましたよ。銀貨で三枚。一泊の五倍です」
「……名前は」
「名乗らなかったって言ってるでしょう」
マノンが、坂の下を顎で示しました。
「でもね、お嬢さん。あたしは顔と匂いだけは忘れないんです」
その夜、宿の客は三人でした。
峠が閉じましたので、これから春まで、上がってくる人は減ります。減って、なくなるわけではありません。荷は動かなくなりますが、人は動きます。
わたくしは宿帳の新しい頁を開いて、日付を書きました。
それから、顔の欄に一行だけ書き足しました。
街道局・検分官。宿を見る順が、客間から始まらない。
次話「革も薪も、届きません」では、峠が閉じた翌日から、この宿に荷が届かなくなります。
止めているのは街道でも雪でもありません。名前のある一人の人です。




