第5話 第九条
五日目の昼、坂を上がってきたのは荷車ではありませんでした。
馬車です。塗りのある箱馬車で、車輪の泥除けに鷲の脚が三本。
厩でジャンが顔を上げて、こちらを見ました。わたくしがうなずくと、ジャンは馬具屋の方へ走っていきました。馬車の馬は二頭でしたので、うちの厩には入りません。
馬車の轅の泥の跳ね方を見て、屋敷を今朝出たのだと分かりました。半日の道です。夜のうちに出れば昼前に着きますが、この方は朝に出ていらした。急いでいらしたわけではない、という顔をして来られたかったのでしょう。
降りてきたのは義父上でした。
それから、書記が一人。
書記の方は、革の鞄を胸に抱えていました。抱え方が浅い。中身が重くないということです。綴りを一冊か、二冊。全部は持っていらしていません。
「イレーヌ」
「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」
「ふざけるな」
「ふざけてはおりません。お泊まりでしたら一の間が空いております。お食事だけでしたら、厨は昼を過ぎておりますが、麦湯はお出しできます」
義父上は土間を見回されました。
昼の宿は、静かです。客は皆、朝のうちに峠へ出ていきます。残っているのは薬売りの方の荷と、洗い場に伏せた椀が十一。マノンが井戸で桶を洗う音がしています。
「この宿は、当家のものだ」
「いいえ」
「証文がある」
「ございました」
義父上が、書記の方を見ました。書記が革の鞄から綴りを出して、卓の上で開きます。
「三年前の九の月。ラフォン・エミール——おまえの父の名で、銀貨で四十二の借り入れ。担保は、この土地と建物」
「はい」
「返済がないまま当主が死亡。翌月、担保として当家が取得した」
「はい」
「その上でわしは、おまえを息子の嫁に迎えた。借財の帳消しと引き換えにな。おまえの父の名に傷がつかんように、当家が引き受けた話だ」
「はい」
「はい、ばかり言うな」
義父上が、卓を指で叩かれました。
「その話が終わったのだ。婚姻は無かったことになった。ならば、宿は当家のもののまま残る。それだけの話だろう」
わたくしは、胸元から書付を出しました。
三年前の冬に写しを取った、折り目の毛羽立った紙です。それを卓の上に置いて、義父上の方へ向けました。
「婚姻契約の第九条でございます」
書記の手が、止まりました。
「……なんだと」
「お読みください。義父上がお作りになった契約でございますので、ご記憶にもあるかと存じます」
義父上は紙を取りませんでした。書記が取って、読み上げました。
「——第九条。婚姻が成立せざる場合、または婚姻の実を欠くと認められたる場合、婚姻に際して妻より当家へ移されたる財は、これを妻へ返還するものとする」
土間が、動きませんでした。
わたくしは、待ちました。父はよく、客に理を説いたあとは黙るものだ、と言っていました。理は説いた側が押すと壊れるからです。
「……これは」
書記が、綴りを繰りました。
「伯爵様。婚姻契約の綴り、第九条——ございます。当家の様式です」
「そんな条は入れとらん」
「入っております。この様式は、先代からお使いのものでして」
書記が言葉を切りました。
言い切ってしまってから、言うべきでなかったと気づいた顔でした。
義父上が、椅子の背をつかまれました。
「イレーヌ。おまえ、いつからこれを」
「三年前の冬でございます」
「三年」
「はい。義父上の書斎の勘定を任されました晩に、綴りを見つけました。読むなとは言われておりませんでしたので、読みました」
あの晩のことは、よく覚えております。
書斎の灯は、油を絞ってありました。屋敷の灯は客間から順に良い油が回りますので、書斎の灯は最後です。芯を短くすると煙が出ますから、わたくしは芯を長く出して、皿の縁に寄せました。そうすると、明るいところが手元の一尺だけになります。
綴りは、婚姻の年ごとに紐で括ってありました。わたくしの年の紐だけが新しく、結び目が二重でした。二重に結ぶのは、あとで解いた人がいるという意味です。
裏紙に写しを取るのに、半刻かかりました。
書いているあいだ、廊下の足音を三度数えました。三度とも女中で、三度とも通り過ぎました。写し終えて紐を元の二重に戻し、灯の芯を短く切り直して、部屋に戻りました。
その晩から三年、この紙のことは誰にも申し上げておりません。
「読んで、黙っていたのか」
「黙っておりました」
「なぜだ」
わたくしは、少し考えました。
考えるふりではありません。三年、自分でも何度か考えたことです。
「あの頃のわたくしが宿を返せと申し上げても、義父上は返してくださらなかったと存じます。婚姻が続いておりましたので、第九条は動きません」
「……」
「第九条が動くのは、婚姻が無かったことになる日だけでございます。ですから、その日を待っておりました」
「三年もか」
「三年でございました」
義父上は、しばらく卓を見ておられました。
それから、初めてわたくしの顔をまともにご覧になりました。この方がわたくしの顔をご覧になったのは、三年でこれが二度目です。一度目は婚礼の日で、そのときは目が合いませんでした。
「白い結婚を言い出したのは、息子だ」
「存じております」
「おまえが仕向けたのではないな」
「わたくしは、仕向けておりません」
仕向けてはおりません。
ただ、あの方が三年のあいだ一度も部屋に来られないことは、初めの月から分かっておりました。分かっていて、何も申し上げませんでした。申し上げなかったことを仕向けたと呼ぶのなら、そう呼ばれても仕方がないと思います。
「銀貨で四十二だ」
義父上がおっしゃいました。
「その額で買い戻せ。それなら文句はあるまい」
「お断りいたします」
「四十二だぞ。この宿にそれだけの値がつくと思うか」
「つきません」
「ならば」
「値がつかないものを返していただくのに、値をお払いする理由がございません」
義父上の右手が、卓の縁を撫でました。
この方は、金額を口にされたあとに必ず手を動かされます。屋敷で三年、勘定を持っていくたびに見ておりました。額が通ると指を組まれ、通らないと縁を撫でられる。今日は撫でておられます。
四十二という額も、たぶん、来る道の途中で決めたものです。父の借財と同じ額を並べておけば、道理が立って見えます。道理が立って見えるものを人は疑いません。三年前のわたくしなら、疑いませんでした。
マノンが井戸から戻ってきて、桶を土間に置きました。置いた音が大きかったのは、わざとです。
義父上は書記に何か言いかけて、やめられました。
立ち上がって、外套の裾を直されます。
「イレーヌ。おまえは間違えている」
「さようでございますか」
「宿というのは、建物のことではない。荷と、人と、銭が回って初めて宿になる。この街道の革も、薪も、塩も、うちが握っておるのだ」
「存じております」
「三年、うちの帳面を見ていたのだからな」
「はい。ですから、存じております」
義父上が、扉のところで止まられました。
わたくしは頭を下げました。
「またのお越しをお待ちしております。次はお泊まりくださいませ。一の間をお取りしておきます」
馬車が坂を下りていきました。
マノンが、その音が消えるまで待ってから言いました。
「お嬢さん。あれ、脅しですよ」
「はい」
「革も薪も止められたら、うちは冬を越せません」
「越せません」
「分かっていて、あんな言い方を」
「マノン」
わたくしは書付を畳んで、宿帳に挟みました。伯爵家の荷方からいただいた掛けの証文の隣です。紙が二枚になりました。
「宿が返ってまいりました。今日はそれだけで十分でございます」
その夜、峠から風が下りてきました。
三日続いたら雪です。今日で二日目でした。
次話「雪の夜に泊まった男」では、宿場に見慣れない役人が入ります。
街道局の検分官です。この人は三年前の冬、この宿に一度だけ泊まったことがあります。名乗らずに出ていきました。




