第4話 峠は、あと十日で閉じます
三日目の朝、パン屋の女将さんが小麦の袋を担いで坂を上がってきました。
「イレーヌちゃん。ほんとに開けたんだねえ」
「おはようございます。お売りいただけますか」
「売るよ。でも先に言っとくけどね、うちはあんたのお父さんに二年ぶん借りがあるから、今日の分は勘定に入れないよ」
「入れてください」
「入れないよ」
「では、次からは入れてください」
女将さんは、ふん、と鼻を鳴らして袋を置いていきました。
この宿場では、こういうやり取りが三日で四回ありました。父はこの土地で四十年、宿をやっていました。四十年ぶんの貸し借りは、娘が思っているより深いところまで根が張っています。
昼過ぎ、厩の方からジャンが走ってきました。
厩番の子です。十五になります。喋りません。
ジャンは土間に入ってきて、わたくしの前に立って、右手を上げました。指を三本立てています。それから、その手を下に向けて、ゆっくり下ろしました。
「三日で下りてくる、ということですか」
うなずきました。
「雪ですね」
もう一度うなずいて、ジャンは厩へ戻っていきました。
わたくしは戸口から西の山を見ました。
稜線の白いところが、昨日より下がっています。峠の道は、あの白いところを横切って向こう側へ抜けます。
マノンが、洗い物の手を止めずに言いました。
「あと何日です」
「十日、と申し上げましたが」
「短くなりましたか」
「はい。八日か、九日かと」
この土地で「峠が閉じる」というのは、雪で通れなくなるという意味ではありません。通ろうと思えば通れます。ただ、通ると馬が死にます。
積もった雪の下で、道の縁が分からなくなります。西街道の峠道は南側が谷ですので、縁を踏み外した馬は荷ごと落ちます。落ちた馬は引き上げられません。だから馬方は、雪が来る前に越えるか、春まで待つかを選びます。
その「越えるか、待つか」を決めるのが、いまの十日です。
西街道は、王都と海の港を結ぶ道です。
港から上がってくるのは塩と干した魚と南の織物。王都から下りていくのは麦と鉄と税の書付。その全部がこの峠を一度越えます。
越える道は、一本しかありません。
北にもう一つ、古い山道があるにはあります。ただしあちらは荷車が通れません。人と背負子と、脚の強い馬だけです。荷を五台引いている商隊は、南のこの道を来るしかない。
そして峠を登り始める前の最後の平地が、石橋の宿場です。
登り口で一泊するのは、見栄でも贅沢でもありません。峠は朝の光で登るものだからです。昼を回ってから取りつくと、下りの半ばで日が落ちます。日が落ちた峠道で縁を探すのは、目の見えない者が縁を探すのと同じことです。
ですからこの宿場に着いた者は必ずどこかに泊まります。
そしてこの宿場で泊まれる場所は、馬具屋の二階とうちだけです。
父は生前それを一度も自慢しませんでした。自慢するようなことではない、と言っていました。道がそこを通っているから宿がここにあるのであって、こちらが選んだのではない、と。
わたくしはそれを三年前まで、ただの謙遜だと思っておりました。
「お嬢さん。今日は何人来ますかね」
「昨日が六人。今日は八人か、十人かと存じます」
「増えますか」
「増えます。峠が閉じると分かってから増えるのではありません。閉じるかもしれないと思い始めた頃がいちばん多いのです。皆さん、まだ間に合うと思っていますから」
その日の夕方から、坂を上がってくる人が続きました。
毛皮商が二人。粉挽きの荷が三台。それから、馬を一頭連れただけの薬売りが一人。
一の間はもう入りません。
わたくしは二の間を開けました。
天井板が二枚落ちているのは、部屋の北の隅です。そこから空が見えます。帆布を張るには梁に釘を打たねばなりませんが、梁は湿っていますので、打った釘は春までに緩みます。緩んだ釘は落ちます。落ちた釘は誰かの足に刺さります。
ですから釘は打たずに、梁の上に丸太を渡して、帆布を巻きつけて重しを載せました。手間はかかりますが、外すのも同じだけ簡単です。
床の雪解けの染みには、藁を厚く敷きました。染みているところは、乾いていても冷たい。父はそれを、石は覚えている、と言っていました。
そちらに寝ていただく方には、毛布を四枚渡して、代金を三割引きました。
「屋根が抜けているところに三割で泊まれるのか」
毛皮商が、天井を見上げて笑いました。
「抜けているところの下では寝かせません。抜けているのは向こう側の隅で、そちらは物置に使います。お客様の寝床は帆布の下でございます」
「三割は安すぎるだろう。石橋で今晩、部屋が空いてる宿はあるか」
「馬具屋の二階が六人まで。あとはございません」
「じゃあ、言い値で取れるじゃないか」
「取れます」
わたくしは帳場から顔を上げました。
「取りますと、来年の秋に、あなたは馬具屋の二階に泊まります」
毛皮商が、口を閉じました。
「峠が閉じる前の十日は、どこも取ろうと思えば取れます。ですから、取らない宿が一軒あると、皆さんそこを覚えて帰られます。父はそれで四十年やりました」
「……三割引きのままでいいのか」
「はい。屋根は事実でございますので」
その夜、宿は十一人になりました。
厨で粥を炊きながら、マノンが小さな声で言いました。
「お嬢さん。三割は、痛いですよ」
「はい」
「屋根の銭が要るんです。いま取っておかないと」
「取ったら、屋根が直ったあとに誰も来ません」
マノンが、杓子を止めました。
「宿は、通る人のためにあるので、泊まる人のためにあるのではありません」
「……親父さんの口癖ですね」
「はい」
「あたしはあれ、意味が分かったことが一度もありません」
「わたくしも、三年前までは分かりませんでした」
鍋の湯気で、窓の内側が白く曇っています。わたくしは指の腹でそこを拭いて、外を見ました。
坂の下に、まだ灯が動いています。
「屋敷におりましたとき、わたくしは、屋敷に泊まっている人でした」
「……」
「泊まっている人は、いつか出ていきます。出ていったあとに何も残りません。三年おりましたが、あの屋敷にわたくしがいた跡は、帳面の字だけです」
わたくしは布巾で手を拭いて、帳場へ戻りました。
「通る人のための場所は、通る人が覚えて帰ります。覚えて帰れば、また通ります。父が言っていたのは、たぶんそういうことでございます」
その晩、最後に上がってきたのは、薬売りの人でした。
馬の脚を引きずらせていましたので、厩でジャンに見させました。ジャンは馬の左の前脚を持ち上げて、しばらく蹄の裏を見て、それから首を横に振りました。
「峠は越えられませんか」
ジャンがうなずきました。
わたくしは薬売りの方へ行って、頭を下げました。
「申し訳ございません。お馬の左前が、峠までもちません。今日お発ちになると、下りで潰します」
「……春まで待てというのか。俺は薬を運んでいるんだぞ」
「馬をお預かりします。代わりの馬を、明日の朝までに探します」
「そんなことができるのか」
「できるかどうかは、明日の朝に分かります。今夜は湯に入って、お休みください」
薬売りの人が湯屋へ行ったあと、マノンが帳場に来ました。
「明日の朝までに馬なんて、どこから」
「馬具屋さんが、先月一頭買っておられます。まだ慣らしていないはずです」
「貸しますかね」
「貸していただけるかどうかは分かりません。ですが、貸してくださらなかったら、あの方は春までここにいることになります。春までここにいる人が一人増えると、この宿場でいちばん困るのは馬具屋さんです」
マノンが、しばらくわたくしを見ていました。
「……お嬢さん」
「はい」
「あんた、屋敷で三年、なにを考えて暮らしてたんです」
わたくしは宿帳を閉じました。
「薪を、数えておりました」
次話「第九条」では、この宿が誰のものかを確かめに、屋敷から人が来ます。
イレーヌが持参財として求めた「書付が一枚」の中身が、ここで分かります。




