第3話 今夜のお客様は、伯爵家の商隊です
荷車は、五台でした。
坂を上がりきったところで先頭が止まり、御者が灯の方へ首を伸ばしました。それから、後ろへ向かって何か叫びました。開いてるぞ、という声です。
馬が十一頭。人が九人。
わたくしは土間の灯をもう一つ点けて、戸口に立ちました。
「いらっしゃいませ。銀の梯子亭でございます」
「泊まれるか」
「一の間が空いております。九名様でしたら、少し詰めていただくことになりますが」
「構わん。馬は」
「厩は使えます。藁は今朝のものです」
男が荷車から降りて、こちらへ歩いてきました。背の低い、肩の厚い人です。冬用の外套の襟に、留め具が二つ付いています。一つは真鍮で、もう一つは銀でした。
銀の方に、彫りがあります。
鷲の脚が三本。サンドラール伯爵家の紋です。
「湯は出るか」
「沸いております」
「……ここは三年、閉まっていたはずだが」
「昨日から開けております」
男はわたくしの顔を見ました。それから、見たことを忘れたような顔をして、荷車の方へ戻っていきました。
わたくしのことを知らない人でした。それはそうです。伯爵家の商隊は屋敷には寄りません。荷は倉に入って、帳面だけが屋敷に上がってきます。その帳面を三年見ていたのがわたくしだということも、この人たちは知らないでしょう。
マノンが厨から顔を出しました。
「お嬢さん」
「はい」
「先頭の御者の隣にいる、痩せた方」
「はい」
マノンが、鼻から息を吸いました。長く吸って、それから、目を細めました。
「……あの匂いだ」
「どちらの」
「三年前です。秋の終わりに、七人で泊まって、朝に払わずに出ていった連中の一人ですよ。革と、獣脂と、あとは——安い蜜蝋です。荷の封に使う蝋だ。あの匂いは落ちません」
わたくしは帳場に戻って、古い宿帳を出しました。
三年前の秋の頁。父の字があります。
九の月の二十二日 サンドラール家 荷方 七名 一の間 掛け
顔:先頭の御者、左の頬に古い火傷。痩せた男、右の小指が短い。
匂い:革、獣脂、蜜蝋(安)
掛け、と書いてありました。
その下に、父の字でもう一行ありました。
※ 証文の件、当家より申し出。返答なし。
わたくしは、そこを二度読みました。
それから宿帳を閉じて、厨へ行きました。
「マノン。今夜は、何も言いません」
「は?」
「湯を出して、飯を出して、寝かせます。九人ぶんです」
「あんた、聞いてました? あれは払わずに出ていった連中ですよ」
「存じております」
「じゃあ——」
「宿は、泊まった人からしか代金を取れません。追い返したら、取れるものも取れなくなります」
マノンが、わたくしをしばらく見ていました。
それから、鍋を火にかけました。
その夜、わたくしは九人に湯を使わせました。
湯屋は四人ずつ、二回に分けて入れました。一度に九人入れると湯が濁って、二度目の人が薄い湯を使うことになります。父はそれを、湯は分けたぶんだけ足りる、と言っていました。
入る順は、こちらで決めました。荷を積み下ろした者を先に、御者を後にします。御者はまだ馬の脚を見なければなりませんし、湯に入ったあとで外へ出ると、かえって冷えるからです。誰も文句を言いませんでした。順番に理由があるとき、人は黙って従います。
飯は、麦の粥に塩漬けの肉を落としたものです。肉はマノンが自分の樽から出しました。この人は、いつか客が来ると思って、三年ぶん樽を切らさずにいたのです。
粥の塩は、少し強めにしました。峠を越える者は汗をかきます。汗をかいて、風に当たって、それから寝ます。翌朝に足がつるのは、たいてい塩が足りない人です。父の帳面には、峠越えの客には塩を一つまみ多く、と書いてありました。
馬の方も見に行きました。
十一頭のうち、二頭の蹄の縁が欠けています。荷の重い側についていた馬です。厩の隅に父の油壺が残っていましたので、欠けたところに塗って、藁を厚めに敷きました。塗っても治りはしませんが、峠の岩で割れる時期を何日か遅らせます。
寝台は四つしかありませんので、五人には床に藁を敷いて、毛布を三枚ずつ渡しました。床に寝る側のほうが毛布が多いのは、床の方が冷えるからです。それを説明したら、痩せた男が少し驚いた顔をしました。
「よく気が回るな」
「宿でございますので」
「……前の主人も、そんなことを言っていた気がする」
「さようでございますか」
わたくしは灯を細くして、戸を閉めました。
夜のうちに雪が降りました。積もるほどではありません。朝には道の轍だけが白く残る程度の、峠が近いことを知らせる雪です。
朝、九人が起きてきました。
厨で温めた麦湯を出して、それから、帳場の台に宿帳を開きました。
肩の厚い男が、外套の襟を留めながら近づいてきました。
「世話になった。いくらだ」
「九名様、一泊、湯と食事つき。締めて銀貨で一枚と、二十四でございます」
男が財布を出しました。
わたくしは、宿帳の前の頁を開きました。三年前の秋の頁です。
「それと、こちらを」
「……なんだ」
「三年前の九の月、こちらのお家の荷方の方が七名、掛けでお泊まりになっております。以来、お支払いをいただいておりません。銀貨で一枚と、十八。三年ぶんの利は、いただきません」
厨の方で、マノンが鍋を置く音がしました。
男は宿帳を見ました。それから、痩せた男の方を振り返りました。痩せた男は麦湯の椀を持ったまま、こちらを見ていません。
「……ジョス」
「……」
「ジョス。この宿か」
「……覚えてません」
「右の小指を出しなさい」
わたくしがそう言うと、痩せた男の手が止まりました。
「宿帳に書いてございます。右の小指が短い方、と。父の字です。父はもう亡くなりましたが、字は残っております」
しばらく、誰も動きませんでした。
肩の厚い男が、財布の中を見ました。それから、閉じました。
「持ち合わせが無い」
「存じております。荷を五台お引きになっていて、峠を越えるまでの路銀しかお持ちでないはずです。ここで銀貨二枚を置いていかれたら、峠の向こうで馬を潰します」
「……では、どうしろと」
「書いていただきます」
わたくしは、帳場の下から紙と、父の使っていた木の筆入れを出しました。
「掛けの証文でございます。お家の名でお書きください。お支払いは、春の荷が動いてからで結構です」
「そんなものを書いて、俺が屋敷に何と言われるか」
「三年前の分を、いま払わずに済んだ、とおっしゃってください。それは本当のことでございます」
男は、しばらくわたくしの顔を見ていました。
それから、筆を取りました。
書き終えて、男が顔を上げました。
「あんた、名は」
「イレーヌと申します」
「イレーヌ。……姓は」
「ラフォンでございます」
男の手が、紙の上で止まりました。
サンドラールではない、と言ったのと同じことでした。この人がそれに気づくのに、少しかかりました。気づいたあとの顔を、わたくしは見ないようにして、証文を受け取りました。
「またのお越しをお待ちしております」
荷車が五台、坂を下りていきました。
雪はもう止んでいて、轍の白いところに、車輪の跡が新しく重なっています。積んだ荷の重さで、後ろの二台だけ跡が深い。峠までは登りですので、あの二台は途中で荷を分けることになります。
わたくしは坂の下まで見送ってから、厩へ回りました。
油壺を戻して、藁を掻き寄せて、蹄鉄の欠片が落ちていないか土を撫でます。落ちた欠片は次の馬の脚を切ります。父はこれを、朝の掃除ではなく夜の掃除だと言っていました。次に来る客のためにする掃除だからです。
マノンが、わたくしの隣に立ちました。
「あの人たち、屋敷に帰りますね」
「帰ります」
「帰って、何と言いますかね」
「銀の梯子亭が開いていた、と言うと思います」
わたくしは証文を畳んで、宿帳に挟みました。
「それから、主人が誰だったか、も」
次話「峠は、あと十日で閉じます」では、この宿がなぜ「西街道で泊まれる最後の一軒」なのかが分かります。
地図の話ではありません。雪と、馬の脚の話です。




