第2話 銀の梯子亭
西街道を半日、荷馬車の後ろに乗せてもらって、石橋の宿場に着きました。
馬方は代金を受け取りませんでした。ラフォンさんとこの娘さんから銭を取ったら、あの世で親父さんに笑われる、と言って、そのまま峠の方へ行ってしまいました。あの人の名前は思い出せませんでしたが、右の耳が半分欠けているのは覚えています。冬に凍らせた耳です。父が三日、うちの厨に置いていました。
宿場の通りは、思っていたより人が少なくありませんでした。
馬具屋が開いています。パン屋の窓から、湯気が出ています。石橋の宿場は峠の登り口ですから、この時季は、峠越えを急ぐ荷が集まります。人はいる。荷もある。
その通りのいちばん奥、道が右に折れて坂になるところに、宿があります。
銀の梯子亭。
三年ぶりでした。
看板は、出ていました。父が彫った梯子の絵です。梯子の段が七つあって、いちばん上の段だけが、少し太い。理由は聞いたことがありません。ただ、塗りが剥げて、木の目が出ていました。三年ぶんの雨です。
戸に手をかけたら、内側から開きました。
「三年も飼い殺しにされておいて、よくもまあ、そんな顔で帰ってこられましたね」
マノンでした。
父の代からの女中頭です。六十二になるはずですが、背筋だけは若い者より真っ直ぐで、この人が土間に立っていると、宿がまだ生きているように見えます。
「屋根は抜けました。薪はありません。井戸は使えます。歓迎いたします」
「……ただいま戻りました」
「お帰りなさい、イレーヌお嬢さん」
名前で呼ばれたのは、三年ぶりでした。
わたくしは頭を下げて、そのまま少し長く下げていました。マノンは何も言わずに待って、それから土間の隅の椅子を引いて、座れとも言わずに顎で示しました。
中に入りました。
厨は生きていました。竈の口が煤で黒いのは使っている証拠です。鍋が三つ、大きさ順に伏せてあります。伏せ方が父のやり方でした。
客間は、三つのうち二つが駄目でした。
二の間は天井の板が二枚落ちていて、床に雪解けの跡が残っています。三の間は梁が湿って、指で押すと少し沈みました。使えるのは一の間だけです。
「いつからですか」
「去年の秋です。伯爵様のところから人が来て、屋根を直す銭は出さんと言って帰りました。それきりです」
「人は」
「あたし一人。厩番の子が時々来ますけど、あれは馬を見に来るんで、宿を見に来るんじゃありません」
わたくしは帳場に立ちました。
帳場の台の上に、宿帳が置いてありました。埃を払った跡があります。誰かが定期的に払っています。
開きました。
父の書式です。日付、名前、人数、部屋、代金。そのあとにもう二列あって、そこには「顔」と「匂い」と書いてあります。
顔の欄には、たとえばこう書いてあります。左の眉が切れている。笑うと右だけ上がる。前歯が一本欠けた。
匂いの欄には、こう書いてあります。革と獣脂。乾いた麦。酒でなく薬。
父はこの二列を、宿屋のいちばん大事な帳面だと言っていました。名前は書き換えられるが、顔と匂いは書き換えられない、と。
最後の行の日付は、三年前でした。父の字です。
「マノン。この宿帳、あなたが払っていましたね」
「置き場所を変えると、あんたが帰ってきたときに探すでしょう」
言い方はそういう言い方でした。
わたくしは宿帳を閉じて、それから、天井を見ました。
梁が一本、他より黒い。煤ではなく、油です。油紙を巻いたものを長く上げておくと、あの黒み方になります。
マノンが、わたくしの視線を追いました。それから、追ったことを隠すように鍋を持ち上げて、竈の方へ行きました。
「お嬢さん。屋根です」
「はい」
「峠が閉じるまで、あと何日ですか」
わたくしは戸口から外を見ました。西の山の稜線が、もう半分白い。
「十日です」
「十日で屋根が葺けますか」
「葺けません」
「では、どうします」
「一の間だけで開けます」
マノンが振り返りました。
「開ける」
「はい。今夜から」
「客が来ますか。三年閉まっていた宿ですよ」
「来ます」
わたくしは帳場の下から灯を出して、油の残りを見ました。半分あります。マノンが継ぎ足しています。
「峠が閉じる前の十日は、街道でいちばん荷が動きます。閉じてしまう前に越えたい者が集まりますから。この十日に石橋で泊まれる場所が足りなくなるのは、毎年のことです」
「馬具屋の二階が宿をやってますよ」
「六人までです。それに、あそこは湯が出ません」
マノンが、鼻を鳴らしました。
「湯屋の火を落とさずにいたのは、あたしです」
「存じております」
「井戸も浚っておきました。桶も新しいのに替えました」
「ありがとうございます」
「……三年ですよ」
マノンが、鍋を置きました。
「三年、あたしはここで、いつ帰ってくるか分からない人のために湯屋の火を落とさずにいたんです。いい加減にしてください」
わたくしは、返す言葉を探しました。
三年のあいだ、屋敷でわたくしを待っていた人は一人もいませんでした。待たれるということが、こんなに背中に重いものだとは思っていませんでした。
「マノン」
「なんです」
「一の間の毛布は、何枚ありますか」
「……八枚」
「足りません。四枚、馬具屋から借りてきていただけますか。借りた分は、こちらに書いておきます」
わたくしが帳場の紙を引き寄せると、マノンが顔をそむけました。
「書いたって、あたしは見やしませんよ」
「では、口でも申し上げます。四枚、明日の朝にお返しします」
「……そうしてください」
マノンが、少しだけ笑いました。笑ったというより、口の端が動きました。
「あんた、そういう顔だけは親父さんそっくりですねえ」
日が落ちるまでに、一の間を整えました。
まず、窓です。この宿の窓は東と南にあって、南は峠から下りてくる風を、まともに受けます。板戸を閉めて、隙間に古布を詰めました。詰めすぎると、朝に煙が抜けません。ですから下の隅だけ、指一本ぶん空けておきます。
寝台は、四つ。藁を入れ替えるだけの藁がありませんでしたので、上下をひっくり返して、湿っている面を下にしました。返した藁からは、古い草の匂いがしました。悪くない匂いです。黴なら、もっと甘く濁ります。
毛布は、馬具屋から借りた四枚を合わせて、十二枚になりました。一人あたり、二枚。峠の風が入る夜は、上に着せるより、下に敷いたほうが暖かく寝られます。父はそれを、下から冷えるからだ、と言っていました。
湯屋を見に行きました。
石を積んだ小屋で、床の傾きだけは、父が三度も直させた場所です。湯は溜まっていませんでしたが、竈の灰が乾いて、白くなっていました。火が最近まで入っていた、灰の色です。
桶を持ち上げてみました。新しい。箍の締め方がこの土地の職人のもので、値段のわりに、長持ちする締め方です。
「マノン」
「なんです」
「この桶は、いつ替えましたか」
「去年です」
「銭は、どこから」
マノンは答えませんでした。答えないということは、自分の銭です。
わたくしは桶を下ろして、井戸の縄を引きました。縄は水を吸って重くなっていて、引き上げた水は澄んでいます。指を入れると、痛いほど冷たい。この冷たさなら、湯にしたときによく立ちます。
宿は、死んでいませんでした。骨だけが残っていたのではありません。誰かが毎日ここを撫でていたから、骨が形を保っていたのです。
その晩、看板の下に灯を吊りました。
三年ぶりに火の入った梯子の絵が、道の方へ薄く伸びます。坂の下から見上げれば、通りの奥に灯が一つ点いたのが見えるはずです。
風が出ていました。峠の方から下りてくる風で、この風が三日続いたら雪です。
戸を開けたまま、帳場に座りました。
宿帳の新しい頁を開いて、日付を書きました。それから、名前の欄の上に指を置いて、待ちました。
半刻ほどして、坂の下から車輪の音が聞こえてきました。
一台ではありません。四台か、五台。荷を積んだ音です。
わたくしは立ち上がって、土間の灯を明るくしました。
次話「今夜のお客様は、伯爵家の商隊です」では、坂を上がってきたその荷車が、誰のものだったかが分かります。
イレーヌは、湯を沸かして、飯を出して、寝かせます。宿帳を開くのは、朝です。




