第1話 白い結婚を、解消いたします
「白い結婚を、解消しようと思う」
夫がそう言ったとき、わたくしは暖炉の薪を数えておりました。
六本。昨日より二本多い。
この客間は西向きで午前の日が入りません。石の床は昼を過ぎてもぬるくならず、椅子に座っている人の足首から順に体温を抜いていきます。ですから朝のうちに厨へ寄って、この部屋の薪を二本増やすよう頼んでおきました。頼んだのはわたくしですので、六本あるのは当たり前のことです。
それでも数えてしまうのは、癖でした。
宿では、薪の数がその夜の客の数でした。三本なら夫婦者。六本なら商隊。十二本を割ったら誰かが凍えます。父は帳面をつける前に必ず薪置き場を見に行って、戻ってくると何も言わずに毛布の数を変えていました。
「聞いているか、イレーヌ」
「はい。伺っております」
ロラン・サンドラール。伯爵家の次男で、わたくしの夫です。三年になります。
その三年のあいだ、わたくしはこの方に一度も触れられたことがありません。指の先も、袖の端も。婚礼の夜にこの方は寝室の扉の前で足を止めて、済まないが君に触れるつもりはない、とおっしゃいました。わたくしは、わかりました、と答えました。
あの日から数えて、三年です。
代わりに、屋敷の帳面はすべてわたくしが見ました。
最初の月は誰もわたくしに何も渡してくれませんでしたので、厨の裏口に立って荷を数えるところから始めました。荷を数えれば仕入れが分かります。仕入れが分かれば人数が分かります。人数が分かれば、どの部屋が使われていて、どの部屋が三年も閉めきりなのかが分かります。
二月目には女中頭がわたくしに鍵の束を渡しにきました。四月目には、義父上の書斎の勘定を頼まれました。
誰も教えてくれませんでしたので、実家でやっていたようにやりました。
実家は、街道の宿でしたから。
「感謝している。君には、本当に」
ロラン様の隣で、若い娘さんが両手を膝の上で重ねていました。
ヴィオレット・ダンジュ様。男爵家のご令嬢で、この方がずっと想っていらした方です。屋敷の女中が三年前から噂しておりましたので、名前も、髪の色も、好きな菓子も存じております。
今朝その菓子を焼くよう厨に言いつけたのもわたくしですが、まさかご自分の話をされる席に出るとは思っていらっしゃらなかったのでしょう。菓子は皿の上で、一つも減っておりません。
ヴィオレット様が、わたくしを見て、少し身を乗り出しました。
「あの……三年も、ありがとうございました。あなたのおかげで、わたし——」
薪が、一本崩れました。
わたくしは立ち上がって、火箸でそれを直しました。
奥に押し込むと煙が回ります。手前に少し引いて、下の熾に空気の道を作ってやる。燃えている面を上に向けて、真下に灰を寄せる。父がそうしていたやり方です。直してから、椅子に戻りました。
「イレーヌ」
義父上が、初めて口を開かれました。
ベルナール・サンドラール伯爵。この屋敷の主で、三年前にわたくしの実家の証文を持っていらした方です。今日この席に、この方がいらっしゃる。それだけで、これが夫婦の話ではないことが分かります。夫婦の話なら、部屋は寝室の隣の小間で十分でした。
「白い結婚は、婚姻の実が無いということだ。教会に申し出れば、はじめから無かったことになる。おまえに落ち度は無い」
「はい」
「不足はあるまいな」
わたくしは、義父上の手元を見ました。
指を組んでおられます。爪が短く整えられていて、右の親指だけ、腹のところが少し黒い。書付をよく繰る方の指です。この三年でわたくしが覚えたのは、人は言葉より先に手で嘘をつけないということでした。宿でも同じです。財布の紐を触っている客は、朝までに一度は値切ります。
「わかりました」
三人が、同時にわたくしを見ました。
ロラン様の顔に浮かんだのは、安堵ではありませんでした。拍子抜けです。もっと何か言われると思っていらしたのでしょう。泣くとか、縋るとか、せめて理由を尋ねるとか。
わたくしは膝の上で両手を重ねて、この三年で一番はっきりした声を出しました。
「では、持参財の返還をお願いいたします」
義父上の指が、ほどけました。
「……持参財だと」
「はい。婚姻に際してわたくしが持ってまいりましたものを、返していただきます」
「おまえが何を持ってきたというんだ」
わたくしは答えませんでした。答えなくてもご存じのはずです。ご自分で証文を持っていらしたのですから。
「そんなものは、もう」
「教会に申し出れば、はじめから無かったことになるのでしょう」
義父上が、口を閉じられました。
部屋が冷えているのは西向きだからで、暖炉の火はよく燃えています。それでもこういうとき、人は暖炉の方を見ません。義父上は卓の木目を見ていらっしゃいました。
「婚姻が無かったことになるのでしたら、婚姻のときに動いたものも、無かったことになります。わたくしは、そう伺いました」
「誰に伺った」
「書付に」
部屋の隅で、女中頭が息を吸う音がしました。三年ここで働いてきて、この屋敷でわたくしが誰かに二の句を継がせたのは、たぶんこれが初めてです。
「その書付を出せ」
「いいえ」
「出せと言っている」
「お屋敷のものではございませんので」
「屋敷の書斎にあったものだろう」
義父上が身を乗り出されました。そこで初めて、この方が今日のこの席をどういう順番で組み立てられたのかが分かりました。教会への申し出。落ち度は無いという言い方。不足はあるまいなという確認。全部、わたくしが何も言わずに出ていく段取りです。
「書斎にあったのは、綴りでございます」
「同じことだ」
「わたくしがお返しくださいと申し上げているのは、綴りではございません。婚姻のときに動いたもののことです。何が動いたかは、義父上がいちばんよくご存じかと存じます」
「……ロラン」
「父上」
「おまえの妻は、いつからこういう口をきくようになった」
ロラン様が、答えられませんでした。答えようがありません。この方はわたくしが屋敷でどんな口をきいていたかを、ご存じないのですから。
「イレーヌさん」
ヴィオレット様が、小さな声でおっしゃいました。
「あの、わたし、そんなつもりでは……お宿のことだったら、わたしからお父さまに——」
「ヴィオレット」
ロラン様が、名前で呼ばれました。
わたくしは、そちらを見ませんでした。見ないほうがいいことは、宿で覚えました。客同士が揉め始めたとき、宿の者が目を合わせると、揉め事は宿のものになります。
ロラン様が、椅子の背に手をかけました。
「イレーヌ。君は——」
君。
この方は三年のあいだ、わたくしを一度も名前で呼びませんでした。人前では「イレーヌ」とおっしゃいます。二人のときは「君」です。厨の女中はマリーと呼ばれ、庭番はジャンと呼ばれ、この方の馬はブランと呼ばれておりました。
わたくしだけが、君でした。
「君は、それで納得するのか。三年だぞ」
「三年でございました」
わたくしは立ち上がって、暖炉の前を通りました。薪は六本のままです。もう崩れません。
扉のところで一度だけ振り返って、頭を下げました。
「長らくお世話になりました。お発ちの日取りが決まりましたら、厨に人数をお伝えください。婚礼の折の仕入れは、いまの倍では足りません。塩漬けの肉は先月の分がもう無いはずですので、樽ごと頼まれるのがよろしいかと存じます」
自室に戻って、寝台の下から木の匣を出しました。
中に入っているのは、書付が一枚きりです。
三年前の冬、義父上の書斎の勘定を任された晩に、婚姻契約の綴りを見つけました。読むなとは言われておりませんでしたので、読みました。それから灯を細くして、裏紙に写しを取りました。写しには誰の署名もありません。ただの紙です。ただの紙ですが、そこに何が書いてあったかは、わたくしが覚えております。
紙は薄く、折り目のところが少し毛羽立っています。何度も開いたからです。
わたくしはそれを胸元に入れて、匣を閉めました。
窓の外は、もう暗い。西の空だけがまだ白く残っていて、その白いところに、街道の方角の山がひとつ、黒く座っています。
あの山の手前に、宿があります。
次話「銀の梯子亭」では、イレーヌが三年ぶりにその宿の戸を開けます。
開けた先で待っているのは、屋根の抜けた客間と、口の悪い女中頭がひとりです。




