タイトル未定2024/12/30 21:16
サッカー選手のヨハン・クライフが老齢になり、肺がんと闘っているというニュースを何年か前に見た。クライフは「病との闘いは良好だ。前半を2-0で折り返した」と語っていた。
その後、クライフが亡くなったという報を聞いた。私は(前半はリードしていたけれど、後半に逆転されたのだな)と思った。
もっとも、実際のサッカーと違い、癌がクライフに対して逆転勝利して、死という栄光をもぎ取ったとしても、当のクライフは死んでしまっているので敗北を味わわなくて済む。死者は敗北を知らない。
同じような事を私は人類全体に当てはめて考えてみる。仮に明日、人類が絶滅するにしても、人類とかいう能天気な種は、最後の最後まで「希望」を持ち続けるだろう。
クライフが前半は2-0で折り返した、と言ったのは、クライフの本音だったのか、強がりだったのか。そのどちらかだったかは今になるとわからない。ただクライフは心の奥で希望を持ち続けていただろう。
人は希望を抱き続けて、そうしてある時、死んでしまう。生き残った人間は死体を眺めて人生の無常を噛みしめるかもしれないが、死者はもう死んでおり何も感じない。何も知る事はない。もしかしたら彼は幸福の相を顔に浮かべて死んでいるかもしれない。
ファウストは自身の墓穴を掘る音を、人々が労働をする音だと勘違いし、最後の瞬間まで希望を抱いていた。ファウストではない我々もファウストとたいして変わらず、最後の瞬間まで希望を抱き続けるだろう。
いずれは人類は滅亡するだろう、と私は思う。また、今起こっている世界の出来事がもしかしたら人類の絶滅を予兆しているのかもしれない。しかしそれでも絶望する事はない。
仮に一人ずつ、人間が謎の闇の中に飲み込まれていって、その数が減って最後には全滅するとしても、最後に残った一人は、やっぱり絶望する事なく、希望を持ち続けるだろう。
彼は山の向こうに、瓦礫の向こうに同胞がいる事を信じて死んでいく。あるいは死刑囚のように、死ぬ事が確定的だとしても、あの世で転生するとか来世は違う存在になるとか、勝手な希望を抱き続ける事ができる。
我々はもちろん絶望する事もできるが、絶望は何の答えももたらさない。ここに余命半年の患者がいるとする。…もちろん、私達は余命がこの患者よりも若干長いだけで、本質的にはこの人物と何ら変わりない。
この患者は自らの人生を振り返り、自暴自棄になり、苦悩し、人生の答えを求めようとする。絶望と実存の中、人生の、生の深淵の中にある最後の方程式を見つけようとする。しかし深淵に延々と落ち続けるだけで答えはない。
私達は答えを持たないままに死んでいく。この患者が、全てを理解し悟りを開いたとしても死を無効化する事はできない。絶望した人間も希望を持った人間も同じように死んでいく。
ならば絶望してもしかたないではないか、と考えてみてもいいだろう。我々はクライフやファウストのように、世界に希望を抱き続けながら死ぬ権利がある。というか、人間というのはそういうものだろう。
そういうわけで仮に人類が明日、絶滅するとしても心配はいらない。その日は、平凡な今日一日と何ら変わりないだろう。私達がいずれは死ななければならないのに、どうでもいい事に希望を抱き続けてくだらない事をし続けている、そんな日常とその日は何ら変わらない。
人間とは結局そんな風にしか生きられないだろう。だから明日人類が絶滅するとしても心配はいらない。死は我々の希望と絶望を共に闇の中に放り込む。
我々は実に幸運な事に、自分が消失した後の風景を見る必要はない。我々は最後の最後まで希望を抱き続ける事ができる。そしてその希望に終止符を打つ死神の姿を我々は、最後の最後まで見る事はできない。