第68話 「甘えている」
「おお、こりゃいいな」
まるで霧の中にいるかのように、立ち上る湯気を眺めながら和希は言った。
まるで学校のプールのように広々とした大浴場。他にも人1人ぐらいが入れるお桶のような形をした風呂がいくつも存在している。サウナや水風呂もしっかりと完備。
外には温泉旅館を彷彿とさせるような美しい夜の絶景を目の当たりにできる露天風呂があった。
想像以上のクオリティだ。これで7000円は本気で安すぎる。
「しかも本当に誰もいないな」
「ああ、ほぼ貸切みたいなもんだなこりゃ」
いつ誰が入ってきてもおかしくない時間帯だというのに、まさに奇跡の時間だ。
こんなにも広大な空間を2人で使うというのも中々落ち着かないが、せっかくの温泉だし思い切り満喫しよう。
俺達は先に、海水でベタついた髪と体を入念に洗い、そして大浴場にゆっくりと浸かった。
『ふぅ〜〜アァ〜』
首から下までお湯に浸かると、2人揃って自分の意識に背いた変な声が漏れ出す。
これは気持ちよすぎるな。
まるで今日の疲れが全てお湯に溶けていくみたいだ。
遊んでいる時は疲労なんて感じなかったが、こうして温泉に浸かると自分が遊び疲れていたことがよく分かる。
俺のようなインドア人間がいきなり真夏の海ではしゃいだらそりゃ疲れるわな。
「やべぇ、このまま寝られるわぁ〜」
持ち込んでいた小さなタオルを頭に乗せて脱力する和希。
まあこれだけ気持ちよかったら思わず寝てしまいそうになる。
「言いたいことはわかるけど寝るなよ」
そう言う俺だが、いつの間にか頭にお湯で濡らしたタオルを乗せていた。
「お前もなぁ〜」
「アァ〜」
これはいかんな。2人してこんな所で寝たらまじで命が危うい。
しかしこの心地良さから抜け出せない。このまま本当に寝てしまいそうだ。
そう思っていた時だった。
「せんぱーい!」
男湯と女湯を隔てる分厚い壁の向こうから甲高い声が響いてきた。
「あ、彩乃?」
「そっちのお風呂はどうですかー?」
「凄いでっかいよ。てかまじで気持ちよすぎる」
とても単純な質問ではあったが、グッドタイミングだ。あのままだったら最悪意識が飛んでた。和希も今ので目が覚めたみたいだし、まじ彩乃様だな。
「せんぱーい!」
「ん、今度何だ?」
「こっち、私達以外誰もいませんよー!」
「こっちもだ」
そりゃさっきスタッフさんが言ってたからな。誰もいないのは当たり前だ。だったらなんでそんなことをわざわざ言ってくるんだ?
「覗きに来てもいいんですよー」
「はぁ!?!?」
いつにも増した彩乃のとんでもない発言に俺は思わず大声をあげてしまった。もし他のお客さんがいたら大迷惑だった。
「そ、そんなことしねーよ!」
そもそもどうやって覗けばいいんだよ。いや、覗きたいとかそういうのじゃないけど。
温泉に使って疲労が和らぐと思ったら、逆に驚きと動揺でため息が出る。
「はぁ……たく、あいつはどこにいても変わらないな」
彩乃には聞こえないようにぼそりと口篭る。それを聞いていた和希は細くえみながら言った。
「いいじゃねえか。ナオだって本当はこういう方が落ち着くんだろ」
「……まあ、ね」
和希には全部お見通しという訳か。
そうさ。俺は落ち着くんだ。ああやっていつも笑いながら冗談を言う彩乃に。
俺もその1人だが、それを真に受けて激しく動揺する沙耶香先輩と雅に。
傍らから面白半分に見物する和希に。
この5人が揃って初めて、俺は心の安寧を認識している。
この5人だから、俺は今が人生の中で最良の一時となっているのだろう。
それを和希はよく分かっている。
自分で言うのは甚だむず痒いが、やっぱり和希は俺の親友だ。
「俺……今が楽しいんだよなぁ」
温泉の温かさのせいか、俺はいつもより素直な言葉が漏れる。
「それは俺もだよ。ほんと、お前といると退屈しないぜ、はは」
いつもなら何かしらの形で小馬鹿にしてくる和希も俺と同じ現象に陥ってるみたいだ。
しかし次の瞬間、和希のおっとりとした表情はたちまち固くなる。
「どうしたんだ?和希」
「楽しいのは分かる。でもよお、ナオ……ずっとこのままって訳にもいかないんじゃないのか?」
「そ、それって……どういう意味だ?」
急だったため、和希の伝えたいことが理解出来ずに俺は小首を傾げる。
「まあ、ここじゃあなんだ。せっかくだし露天風呂で話そうや」
「え、ああ……」
確かに、風に当たりながらの方が冷静に物事を捉えることができる。正しい判断だと思い、俺達は外に出た。
夕日が沈みかけた、何とも妙な色合いの空の下に広がる露天風呂に浸かる。
「ふぅ、やっぱ露天風呂はいいもんだなぁ」
湯船に体を沈めるやいなや、普通に堪能しだす和希。いや、そうじゃないだろ。気持ちいいけど。
「それで?話ってのは何だよ」
「ああ、そうだったな。まあ、なんだ……」
1度口を噤み勿体ぶる和希はその間に再び険しい顔をする。
「ナオ……そろそろちゃんと考えた方がいいんじゃないのか?」
「考えるって……」
「決まってるだろ。あの3人の事だよ」
「……」
俺の一瞬の動揺を表すかのように、湯船の湯がじわりと揺れた。
俺は一言も喋らずに口を渋るが、それは俺が和希に図星をつかれたことに他ならない。
「お前も分かってるんだろ」
「……わかっては、いるさ。そりゃあな」
俺は分かっていた。それもずっと前から。自分の置かれている状況に。そして、自分が真にやらなければいけないことに……。それを和希も見抜いていた。
「んで、結局お前はどうするつもりだよ」
「どうって……」
「この際だからはっきり言ってやるよ。ナオ……お前は誰の気持ちに答えるつもりだ?」
変に言い回すと伝わらないと判断した和希は思い切った発言をする。
が、そんなことを言われなくても俺は理解していた。
あれから随分と時間が経った。
あの3人とちゃんと向き合い、いずれは1人を選ぶと心に決めたあの時から。
そして、彼女達が提示した期限まではまだ残っている。まだ考える時間はある。
しかし、和希はそうは思っていなかった。
「お前はまだ時間があると思っているんだろうさ」
「……だ、だったらどうなんだよ」
「お前は……本当は逃げてるんじゃないのか?」
「な、何っ!?」
逃げている?俺が……あの時固く誓った俺が、逃げているだって?一体何を言い出すんだ、和希は。
「ナオはこの心地の良い今を壊したくないんだ。だから逃げてる。まだ多く残っている時間に甘えている。そうだろ?」
「……」
俺は何も言い返せなかった。視線を合わせず、温泉に映る自分を見つめていた。
和希の、言う通りなのかもしれない。俺は……逃げている。甘えている。
口では偉そうに言っておいて、それは本心ではなかったのかもしれない。
心に誓ったとは言っても、それは上辺だけのまやかしの決意だったのかもしれない。
和希の言葉で気付かされてしまった。
「なあナオ、お前はどうしたいんだよ」
「……どう、したらいいんだろうか」
本当の俺はどうしたらいいのか。何をすることが正しいのか、俺は分からなくなっていた。
そして俺はつい情けない言葉を口にしてしまう。
「この楽しい時間がずっと続けばって……本当はそう思ってる」
「そりゃさ、俺にも分かるぜ。でもそんな甘いこと言ってたらあの3人が不憫だ。3人のこと、ちゃんと考えろ」
この言葉を和希以外の他人に言われれば、俺は強く反発していただろう。なんでそこまで言われなきゃならないんだ。これは俺の問題だ、と。
しかし、真剣な顔をした和希の言葉は俺の心に深く、重くのしかかった。
そうだ。俺は考えなければならない。あの3人のことを。そして何より、今の甘ったれた自分の心の弱さを。重く受け止めなければならないんだ。
でもどうすれば……本当に分からない。最後までずるずると引きずって、結局何も出来ないなんていう最悪の結果で終わらせたくはない。だからといって、幸福感さえ覚えるこの心地良い場所を崩したいとも思えない。
俺が誰か1人の気持ちに答えれば、今のままでは絶対に居られなくなる。この環境に何らかの軋みを作りかねない。
だから俺は迷っていたんだ。こうして和希に弱音を吐いてしまったんだ。
「なあ和希……俺は、どうしたらいいと思う?」
「そりゃ答えられない質問だぜ。俺から言えることは一つだけだ……ナオ、逃げるな」
「……っ」
心を貫くようにして放たれたその言葉に俺は激しく動揺する。しかし、その動揺は不安や焦りから来たものではなかった。
「逃げるなよ、ナオ。先のことなんて想像するだけしかできない。なら今は考えるな。今は目の前の状況を、今お前がやらなきゃいけねえことをちゃんと考えろ」
───これが、今俺が誰かに1番言って欲しい台詞だったんだと、確かにそう思った。
「俺はお前がただの優柔不断なクズ野郎だとは思ってないぜ、ナオ」
「でも俺は、今まで情けなく逃げてた。とんだクソ野郎じゃないか」
「そういう時期があるのはラブコメの醍醐味ってもんだ。むしろお前はマシな方だ」
「ラブコメって……アニメの見すぎだぞ、和希」
そんな皮肉にもたそしりをする俺の表情は、さっきよりも確実に穏やかになり、口には小さな笑みが浮かんでいた。
「いいだろ別に。俺から見たらな、この状況は俺とお前と、あの3人の物語だ。そしてこの物語の主人公はお前だ、ナオ」
主人公……か。俺には似合わない言葉。俺には勿体ない言葉。
だが和希は俺をそう呼んでくれた。俺の親友がそう信じてくれた。
それをただ否定するのは薄情というものだ。
「……そう、か。和希にとっての俺は、そういう風なのか」
「ああ、お前は俺にとって最高の主人公だよ。だからナオ、俺に見せてくれよ。お前の物語の結末を……お前の選んだ道を、さ」
俯いたままの視線をようやく上げた俺の視界にいたのは、穏やかに微笑む親友の姿だった。
「……ああ、頑張ってみるよ」
俺はここにいる親友にとっての主人公らしいからな。それに応えるのが筋ってものだ。
もう、上辺だけの言葉なんて使わない。もう目を背けたりしない。もう……逃げない。
気がつけば日は沈みきり、辺りは暗闇とそこに彩る無数の小さな光に包まれていた。美しい夜空だ。
「だあくそ!よく考えたら俺、今相痛いこと言ってたな。くぅっ、急に恥ずくなってきた!」
さっきまで堂々と痛々しい発言をしていたことに顔を隠す和希に俺はくすりと笑った。
「お、おいナオ!今笑ったな!」
「ああ悪い。いや、俺も中々やばいこと言ってたからお互い様だ」
「そうだ!お前も相当痛かった!」
さっきまで俺の事を主人公とか言ってくれていた和希は一体どこに行ってしまったのやら。
「ああ、そうだな」
これから先も今日のことを思い出しては笑ってしまうだろうな。でも、今日のことは絶対に忘れないでおこう。
親友の大切さと、自分の不甲斐のなさ思い知ったこの日を───。
「こ、この話はもう終わりにしよう!」
「ははっ、そうだな」
「よっしゃ、じゃあまだ時間もあるし、サウナ行ってみようぜ!ナオ!」
サウナが好きだからという理由で提案した訳ではないだろうけど、何か別の話でこの何とも言えない状況を抜け出したいのは俺も同じだ。
「じゃあベタだけど、どっちが長くいられるか勝負しようじゃないか」
「お、いいねぇ。運動部舐めんなよ?」
いつもの俺達のように馬鹿らしく稚拙なやり取りをしながらサウナの扉を開いた。
────ほんの少し前の女湯ゾーン。
2つの温泉を隔てる壁に張り付く1人の少女がいた。
「むぅ……せんぱい達何を話してるんでしょう」
さっきまで自分の発言に動揺の叫びを上げていた直之の声がぴたりと聞こえなくなった。
「ちょ、ちょっとはしたないわよ彩乃さん!」
「だってぇ、この壁の向こうに全裸のせんぱいがいるんですよ?なんならこっちが覗きたいぐらいですもん」
またしても清らかな女子高生に有るまじき発言をする彩乃に沙耶香はため息をつく。
「はぁ、もう少しおしとやかになれないのかしら。そんなんじゃかえって彼に嫌われてしまうわよ?」
「いやいや、分かってないですねぇ。せんぱいは奥手なんですから私達の方からどんどんアタックしていかないとー」
呆れ果ててもはや何も言えなくなった沙耶香だが、実際に彼女の言うことは正しかった。
彼……直之はこっちから動かないと振り向いてくれないことは沙耶香にも分かっていたことだ。
しかし例の1件以来、沙耶香は思い切ったことに多少の抵抗を残していた。
彩乃のように、感情の赴くままにというのは出来ないのだ。
「……私には、彩乃さんのようには出来ないわ」
「わ、私も、ちょっと……」
「もー、2人ともだらしないですねぇ。恋のライバルとしてはちょっと張り合いないですよ?そんなんじゃ私がせんぱいをとっちゃいますからね」
『……』
無意識に煽りの含んだ発言をしてくる彩乃に2人は渋い顔をする。
現時点では、彩乃が遥かに直之の心を揺らがせているのは自明の理だと理解していた。故に彼女達は何も言い返せない。
「はぁ、沙耶香先輩の卒業までとは言いましたけど、やっぱり早く選んで欲しいですよねぇ」
湯船に戻ってきた彩乃がぼそりとそんなことを言った。
雅はどうしてか恥ずかしそうにモジモジしながら顔を伏せる。対して沙耶香は……。
「そう、ね……」
「あれ、どうしたんですか?なんか暗い顔してますけど」
「あ、いや、なんでもないわ」
湯船に映った自分の顔の翳りをかき消そうと、お湯を手ですくい顔にかけた。
「ふむ……まあいいです。まだ時間はありますし、もう少し温泉を堪能しましょう!」
「ええ」
「う、うん」
この時、3人の……特に沙耶香の中に生まれた小さな懸念はたちまち温泉の中に溶けて消えていった。




