第65話 「ありがとう」
その頃、ちょうど雅も体を拭き終えた用で、「もう服着たから」という声が聞こえ、俺はようやく雅の方に体を向けられた。
「ど、どうだ?さっきよりかは楽になったか?」
「う、うん。凄く楽になった。ありがとう……」
それにしても、3択だったとは言えこうも積極的に来るとは思わなかった。
まあおかげで体調が良くなっているのならばそんなことは問題では無い。
心做しか、顔色も良くなっているように見える。
ま、俺が来た甲斐が少しはあったかな。
「まだ時間あるし、他にも何かあったら言ってくれ。何でもやるから」
「えっと、じゃあ、また……これを」
さっきの体を拭くという内容のカードを省き、新たに1枚カードを追加して俺に見せてきた。
もういっその事全部やってもいいとも思うが、これが雅のやり方だとわかっているので一切口出しはしない。
「お、おう。じゃあ」
俺は1枚カードを引いて寄せた。
───缶詰めのみかんを食べさせてもらう。
内容は、さっきよりは全然レベルが低いものでとりあえず一安心だ。
「い、いいかな……?」
「あ、うん全然いいよ。俺も缶詰めのみかんは大好きだ」
そうか、雅も好きなんだな。
小さい頃、俺が風の時とかはよく姉が食べさせてくれたっけ。
懐かしい思い出だ。今ではそんなこと絶対してくれないけど。
「お、お母さんに言えば、多分出してくれると、思う」
「分かった。じゃあまた行ってくる」
俺は再び立ち上がり、部屋の扉に向かった。
さっきは扉を開けた瞬間に雅の母親がいたからな。
まあ流石に二度続きでスタンバってることはないだろうけど。
俺はドアノブに手をかける。と、その直後。
俺が扉を開ける前に、勝手に扉が開いた。
……いや、勝手にじゃない。外側から開けたのだ。あの人が。
「あら直之くん、ちょうど良かった。これ、雅の好きなみかんの缶詰め。食べさせてあげて」
そう言いながら手に持っていた缶詰を俺に渡してくる。
……これは、流石におかしい。
あんまり気は進まないが、ここはちょっとはっきりさせておかないといけないな。
「あの、ちょっといいですか?」
「どうしたの?」
「間違ってたらすみません。でも……もしかして、ずっと扉の前にいたりします?」
そう。俺が懸念していたのは、この馬鹿げた行動力と判断力を持つ雅の母親についてだ。
確かに親子である以上、思考も同じ方向にあると考えられる。
さっきのも母親としての気配りからなし得たことだと思っていた。
が、これはあまりにも異常だ。
もしかして、この母親はずっと俺達の会話を扉越しに聞いていたんじゃないのか?
そして、俺の疑問は彼女の一言で全てはっきりした。
「そんなの当たり前じゃないのぉ。だって雅ちゃんが連れてきた男の子なんて、気になってしょうがないんだもん」
「お、お母さんっ!」
いい歳して「だもん」とか言っている母親に、ベッドで横になっていた雅が声を上げた。
「ごめんなさいね。もう次こそは下に降りるから。それじゃあごゆっくりー」
ゆっくりと扉を閉める雅の母親の表情は、なんだかイラッするにやけ顔だっ。
……あぁ本当、俺の姉によく似てるなぁ。
さっき思わず叫んだからか、雅は少し息を荒くしていた。
「お、おい大丈夫か?」
「え、うん。だ、大丈夫。ごめんね、なんかお母さん、いつもよりテンション高くて……」
まあ確かにテンションは高校の陽キャグループ並に高かったな。
「あ、いや別に気にしてないから。それより、みかん貰ったけど……食べる?」
「うん。た、食べさせて、欲しいな」
さっきと同じように赤く染った顔を布団に隠す雅。
何度も言いたくないけど、うん……可愛い。
俺は缶詰めの蓋を開け、一緒に渡されたスプーンで適当な数をすくい上げ、逆の手をスプーンの下に添えて雅の口に近づけた。
「ほら、えっと……あ、あーん」
くぅ、何言ってんだ俺は!男がこんな台詞言ったところで需要なんかないだろうに。
しかし、ここまで来て恥ずかしがっている場合じゃない。さっき雅の柔肌に触れたばかりだから、それ以下のことなら何でもできる気がする。
俺がスプーンを近づけていくと、雅はその小さな口をゆっくりと開けた。
本当、可愛いお口だこと。
できるだけスプーンを触れさせずに彼女の口の中へみかんを運んだ。
「ど、どう?うまいか?」
これは俺が言う台詞ではないと思うが、他に聞くことがなかった。
「お、美味しい。なんか、いつもより、美味しい……」
「そ、そうなのか?この缶詰め、高いやつなのかもな」
「そうじゃ、なくて…………たから」
「え、何?」
「な、直之くんが、食べさせてくれた、から……」
自分で言ったことに今更恥ずかしくなったのか、きゅうっと顔を真っ赤にする。
やめてくれよ。可愛すぎんだよ畜生が。
だめだ。この部屋にいると、俺はどうにかなってしまいそうだ。
女子の部屋というのは、男を悪い方向に惑わせる作用でもあるのだろうか。
食べ終わった空の缶を雅の母親の元に届けるために俺は今度こそ部屋を出た。
流石にもう部屋の前にはいなかったので、1階のリビングへ行くと、ソファーに座って昼ドラを視聴する雅の母親の姿があった。
「あの、食べ終わったゴミはどうしたらいいですか?」
「ああ、そこの机に置いておいてくれればいいよ」
「分かりました。それじゃあ俺は戻りますね」
彼女が指さすダイニングのテーブルの上に缶詰のごみをそっと置き、俺は音を立てないようにその場を去ろうとした。
その時。
「……直之くん」
「は、はい?」
ドラマに集中しているのかと思ったから、そっと帰ろうとしたのだが、彼女は俺を呼び止めた。
「な、なんですか?」
「……ありがとうね。本当に」
「え?」
彼女から放たれた意外な言葉。
まるで覚えのない感謝の言葉だった。
「雅ちゃんを……娘を助けてくれ」
決して視線はテレビ画面から離さないが、その声色から彼女の真剣な表情がはっきりと分かった。
「助けてくれてって……俺はただ体を拭いてみかんを食べさせただけですけど」
今日雅のお見舞いに来たことに関して感謝されたのかと勘違いした俺の返事を彼女は直ぐに否定した。
「それもあるけど、そうじゃないの。直之くん……あなたが娘を変えてくれたのでしょ?」
「変えた……?」
「あの子、昔からすごく人見知りでね。家族以外とはほとんど話さないし、ましてや他人のことなんて何も話してくれなかったの。直之くんも知っているでしょ?」
「え、ええ、まあ」
知っている。初めて会った時、彼女はまるで口を動かさなかった。震えていた。人見知りなんてレベルじゃなかった。
彼女は俺が小学生の頃に雅で出会っていることを知っているみたいだ。
「でも、最近になってあの子はすごく変わった。明るくなった。学校のこととか、友達のこととか……今まで全く話してくれなかったことを楽しそうに話すようになったの」
俺から見てもそうだと思う。家でのことは知らなかったが、少なくとも今この世に存在する雅は、以前の雅とはほぼ別人なのだ。
誰とも話さなかった彼女が、学校でもよく俺や彩乃達と話して、休みの日には遊んだりする。
小学生の時の俺では考え至らなかった予想外の光景が今は当たり前となっている。
「あの子の話の中で1番よく出てくる名前がある……それが直之くん、あなたなの」
「俺が……」
そうだったのか。俺の見えないところでも、俺の話をするのか、雅は……
「すぐに分かったわ。あなたが雅ちゃんを変えてくれた……助けてくれたんだって。だからどうしてもお礼がしたかった。今日家に来てくれて私もすごく嬉しかった」
彼女の事細かな説明を受け、俺に対する彼女の思いの根底は何となく理解出来た。
親としては心配だったのだろう。ずっとこのまま自分の娘が誰にも心を開かず、人を、環境を……ずっと避けて生きてくのではないのかと。
人間関係の構築が上手く出来ないというのは、当人に不利益はあっても利益には繋がらない。今はそうでなくても、後々必ずそれは露呈する。
他人との間に生まれた差を痛感する時が来る。
それを按じていたいたのだろう。
そんな時に、些細なきっかけから雅は自身のコンプレックスである人見知りを克服した。
誰かの手により、克服させてくれた。
母親からすればその人は、結果的に自分の娘を助けてくれた恩人であると解釈するのは決して的はずれなことではない。
本当に感謝しているのだ。その人……つまり、俺に。
彼女が俺に感謝しているということは本当なのだろう。そう言われれば、俺だって多少は誇れるものがあると感じる。しかし、一つだけ間違っていることがある。それは……
「……確かに、俺も少しは彼女の助けに慣れたと思っています。でも……彼女を助けたのは俺じゃないですよ」
「え……?」
「俺はただ、きっかけを作っただけですから」
そう。彼女は一つだけ大きな勘違いをしている。
実際に彼女を救ったのは俺ではない。
「最初は、俺の親友の妹でした。次は俺の後輩の女の子、次に俺の先輩……彼女達が雅さんを助けたんです」
俺はあくまでも土台を構築しただけに過ぎない。
その土台から手を差し伸べてくれたのは彼女達だ。そして何より……
「そして何より、雅さん自身の努力です。だから、本当に感謝する相手は俺じゃないんですよ」
俺なんて、感謝をされるまでのことを雅にしてやれたとは思えない。もっと何か力になれることがあったのかもしれない。が、俺はそれに気づけなかった。俺は特に何も出来なかった。そして、
「……むしろ、感謝するのは俺の方です」
「え、それってどういう……」
「雅さんが……雅さん達が俺を変えてくれたんです」
そうだ。確かに雅は大きく変わった。とてもいい方向に変わることが出来た。だが、それ以上に変わることが出来たのは、多分俺だ。
あの時雅が、彩乃が、沙耶香先輩が俺に声をかけてなかったら、今の俺は絶対に生まれなかった。
1人でいることが当たり前で、誰かと馴れ合うことに何の意義も感じない、何も知らないまま人生を送るつまらない俺を変えてくれたのは確実に彼女達だ。
和希もそうだが、誰かと他愛もないことを長々と話したり、色んなところに行って遊んだり、触れ合ったりすることが、こんなにも気持ちのいいものだったのだと気づかせてくれたのは彼女達なんだ。
「自分の作った土台に引き上げてくれたのは彼女達です。俺はそれを心から感謝しています。雅さんに、とても感謝しているんです」
「そう、だったのね」
彼女はいつの間にかテレビの電源を落とし、俺の方に顔を向けていた。
俺の話をちゃんと理解してくれたみたいだ。感謝する相手が俺じゃないことを。
と、思っていたのだが。
「それなら尚更感謝しないとね」
「え、何でそうなるんですか!?」
「あなたがきっかけを作らなかったら、あの子はその子達と出会わなかった。だからやっぱり感謝する相手は直之くんだわ」
完全に言いくるめられたと思ったのだが、どうにも俺の説得力が弱かったようだ。
理にかなったことを言われると、俺もそれ以上の言葉は出てこなかった。
「結果的にはその女の子達なのだろうけど、私と雅ちゃんが1番感謝しているのがあなたということに変わりはないわ」
俺は言葉に詰まり俯いていると、ゆったりとした足音と共に彼女は近づいてきた。
そして、俺の肩の上に両手を添えるように置き、俺は彼女の方に顔を上げた。
「だから直之くん、本当にありがとう。これからもあの子のことをよろしくね」
「え、あ……はい」
言葉の意味をよく理解出来ないまま俺は小さく頷いてしまった。
「よろしく」……彼女がこの言葉に込めた意味が、俺の想像よりも遥かに深いものだったということも知らずに。
それから俺は雅の部屋に戻り、彼女と談笑した。主に今度の旅行についてだ。
話しているうちに、彼女の体調も少し良くなっているように感じた。
これなら旅行には普通に間に合いそうだ。
5人全員で行かないと意味が無い。
1時間ほどにも及んだ会話もキリのいいところで終わらせ、俺は雅とその母親に軽く挨拶だけして逢坂家を後にした。
たった数日ぶりに会っただけなのに、こうも嬉しくなるんだ。
雅が……皆が俺の中でどれほど大きな存在になっているのかを、改めて感じた。




