第58話 「不穏」
次の日の朝────。
とある停車駅で学校へ向かう電車に、一人の少女が勢いよく乗り込んだ。
「せーんぱい!おはようございます!!」
早朝から大声を上げるその少女に、いつもなら一人の男が声をかけてくる。
(おい、いつも言ってるだろ。車内では静かにしろって)
また今日もため息をつかれながらそう言われ、少女は謝りながら隣の席に座る。
そんないつもの日常が今日もそこにある。そう思っていたのに……。
「せん、ぱい……?」
いつまで経ってもそんな叱りの言葉はかえってこない。
辺りを見回すと、いつも右後ろの窓際に座っているその男はいなかった。
いつも登校時間ギリギリになってしまうこの電車に乗っている男子生徒が、いなかったのだ。
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その頃、俺は学校の廊下を歩いていた。
「あれ?ナオじゃん」
背後から聞こえてきたのは友人の男子生徒の声だった。
彼はそのまま俺の隣まで駆け寄ってくる。
「……ああ、和希。おはよう」
「え、ああ。てかどうしたんだよナオ。いつもギリギリのくせに、今日はやけに早いな」
「まあ、ちょっとな。和希はまた朝練?」
「おう、もうすぐ期末試験で部活出来なくなるからな。でもこんな朝にナオと鉢合わせるなんて初めてだな」
「そう、だっけ」
「そうだよ」
「そっか……」
作り笑いを浮かべる俺を見て何か違和感を感じたのか、和希は怪訝そうな目をしながら聞いてくる。
「本当にどうしたんだ?なんかあったのか?」
「……別に何もないけど」
「そうか?ならいいんだけどよ」
そんな会話をしながら、俺達は教室へと入っていった。
────昼休み。
「せんぱい!今日もお昼食べましょー!」
そう言いながら2年の教室の扉を勢いよく開けたのは彩乃だ。
そして、その後ろから2人の女子生徒も顔をのぞかせた。
逢坂雅と工藤沙耶香だ。手には持参の弁当を持っている。
この教室の生徒達はこの異様な光景に見慣れてしまったのか、まるで反応を示さなくなっていた。
そして、彼女達は目的の男子生徒がいるであろう席に視線を向ける。が、そこには誰も座っていなかった。
その手前に座る和希に視線をずらす。彼もそれに気づき、どこか複雑な笑みを浮かべ、方を軽く竦める。
いつも昼食を共にする中庭にて───
「用事?」
「そう。ナオのやつ、なんか用事があるってすぐに教室飛び出しちまったんスよ」
「それにしてもおかしいですよ!私休み時間にも行ったのにせんぱいいなかったじゃないですか」
「ああ、休み時間になる度にトイレに行くんだよあいつ」
「それって……」
直之を除くこの4人で、今日の彼の不穏な行動について橋を動かしながら議論する。
今日の直之はどこかおかしい。そう、それはまるで……。
「俺ともあんま話してくれないし……なーんか、おかしいんだよなぁ」
「そうよね……まるで私達を、避けてるみたい」
彼は自分達を避けている。同時に、彼は何かに悩んでいる。ここにいる全員が同じように思ったのだ。
「昨日、何かあったのかしら」
「そうだ、確か昨日は逢坂さんと帰るって言ってたじゃん」
昨日の放課後、教室を尋ねてきたのは逢坂雅だけだったことを思い出した和希は彼女に視線を向ける。
「……昨日は、遅くなるから先に帰っててって言われて……」
雅は下を向いたままぼそりと呟く。
彼女もまた、昨日の直之から届いたメールに関して多少の懸念はあった。
「……何かあったとするならそこだな」
誰も知らないその空白の時間。そこに、彼が今の状態に至った原因があると推測を立てた。
────昼休みも終わりに差し掛かり、各々自分の教室へ戻って行った。
そして、昼休みが終わる予鈴と共に、俺は教室に戻った。
和希は俺の姿を見るとすぐに駆け寄り、肩を掴んできた。
「なあナオ、用事って何だったんだよ。休み時間もすぐいなくなるし……みんな心配してたぞ」
「……別に、大した用じゃないよ。ちょっと進路について先生と話してただけだ」
「そっ、か……じゃあ休み時間にすぐトイレに行くのはなんだよ」
「それは……今日はちょっと腹の調子が悪くて、さ」
そう言いながら、朝の時のような作り笑いを浮かべる俺を見て、和希はそれ以上問いただそうとはしなかった。
和希や他の皆も、俺の様子がおかしい事には薄々気づき始めている。
でも、仕方ないんだ。
今の俺には……こうすることしか出来ない。
───5限目が終わった後の休み時間、俺はまたすぐに教室を出てトイレに向かった。
が、教室の扉を開ける前に、背後から肩を掴まれる。
「待てよナオ。俺もトイレだ。一緒に行こうぜ」
「え、ああ……うん」
同じ手はいつまでも通用しないか。
まあ、和希と一緒に歩く分には彼の目に障ることはないだろうけど。
2人で教室を出て、トイレに向かう最中の廊下で、和希はまた話しかけてくる。
「なあナオ。やっぱり何かあったんじゃないのか?」
「な、何かって?」
「今日のナオ、俺達を……特にあの3人のことを避けてるように見えるからさ」
「べ、別に……そんなつもりはないんだけど」
「そうか。何かあるんなら俺に言ってくれよ。できるだけ力になってやるからさ」
この言葉を聞いて、和希にはほとんど気づかれているのだとわかった。
それはこんなあからさまに振舞っていれば、察しのいい和希はすぐに気づいてしまうとは思っていた。
そしてもしかしたら、和希に話を聞いてもらうことは、今の状況に立たされた俺にとっての唯一の解決策になるのかもしれないとも思う。
和希になら、俺の抱える問題を引き解いてくれるのでは。
そんな期待がなかった訳ではない。
しかし、無闇に口を滑らせる訳にもいかない。どこで彼が見ているか分からないからだ。
そして、俺の危惧は正しかった。
「あれ?橋田くんじゃないか」
背後から聞こえたその声に、俺は一瞬びくりと体を震わせた。
「さ、笹原……」
「一体どこへ行くんだい?」
「いや、和希とトイレに行こうと……」
「なるほどそっか。それは呼び止めて悪かったね」
「い、いや……」
返事を返す度、俺の手は少しずつ震え、額に汗が滲む。
俺は怯えているんだ。抑揚のなく、冷たくも暖かくもない彼のその声に。言葉に。
そして、笹原は俺の肩を軽く掴み、耳に自身の口を近づけてきた。
「……分かってるよなぁ?昨日言ったことだ。忘れるなよ」
その声色は、外面では決して出さないような、負の感情を込めに込めたような冷たいものだった。
俺はどうしてか首が強ばり、頷くことが出来なかった。そのため、視線だけを使って了解の意志を伝える。
思うように伝わったのか、彼は俺の耳から離れ、軽く手を振りながらどこかへ行ってしまった。
……そうだ。いつどこで彼が目を光らせているかわからないこの現状で、俺がこの話を口にすることは決して許されない。
僅かに抱いていた期待を胸の奥に押し殺し、和希に視線を合わせないまま俺は歩いた。
そんな2人のやり取りを横で見ていた和希は、反対側に歩いていった笹原裕翔に視線を送っていた。
────笹原裕翔、あいつが何か関係しているのか。
直之の隣を歩きながら、和希は少しずつ真実へと近づいていた。




