第23話 「知らない気持ち」
───工藤沙耶香の通う高校の少し手前には、商店街と住宅街を隔てる大きな交差点がある。
そして、生徒達が登校する朝は特に人が行き交う。
当然、人が混雑する場所には、いつも何か問題が起きてしまう。
3週間前の朝、彼女は生徒会長として、風紀委員と共に、校門で容儀検査を行っていた。
そんな時、少し離れた交差点の辺りで何人かの生徒が騒いでいるのが見えた。
何かを取り囲むように、人々が交差点付近の歩道に集まっている。
人々の間をかいくぐって見ると、そこには1人の老婆がいた。
どうやら、何かにつまづいて転けてしまったようだった。
老婆が使っていたであろう杖や持っていた荷物が周りに散乱していて、更に老婆は一行に立ち上がろうとしない。
杖を使っていたようだし、おそらくは足腰が弱くて1人では立てないのだろう。
しかし、周りには多くの人がいる。
きっと、誰かが助けるだろう。
工藤沙耶香は校門で誰かが老婆に手を差し伸べるのを待っていた。
だが、誰も老婆を助けようとはしなかった。
取り囲んでいた人々も、たちまちその場を離れ、生徒達は何食わぬ顔で学校向かってくる。
───どうして誰も助けないの?
一瞬立ち止まったり、ちらっと見る者は何人かいる。が、その誰もが倒れる高齢者を無視して素通りする。
挙句の果てには、面白がって写真を撮る生徒まで出てきた。
───ひどいっ。
彼女は我慢の限界で、容儀検査の仕事を放棄し、皆が素通りする老婆の元に走り出した。
と、その時だった。
「大丈夫ですか!?」
そんな声とともに、老婆に近づく1人の男子生徒がいた。
沙耶香は、この学校の全ての生徒の顔と名前を覚えている。
すぐに、その男子生徒が2年の橋田直之だとわかった。
「怪我とかしてませんか?」
そう言いながら、老婆に自身の肩を持たせ、ゆっくりと立たせた。
落ちていた杖を渡す。
「は、はい。どうもすみません」
「いえいえ、怪我がなくて良かったですよ。荷物は俺が拾いますから」
直之は、老婆に怪我がないことを確認し、すぐに散乱した荷物を集め出す。
「一応見当たる限りは拾いましたけど、これで全部ですか?」
拾った荷物が全て揃っているか確認をとる。
「鍵が、家の鍵がないみたい」
「まじですか!?もう1回探してみますね」
「そんな、悪いよ」
「いや、家の鍵は大事ですって、おばあさんはゆっくりしててください、絶対見つけるんで」
彼はにこりと笑みを浮かべながら、老婆が倒れた付近をもう一度くまなく探し始めた。
瞬間、沙耶香は自身の胸が高鳴るのを感じた。
───なに、これ……。
そうしているうちに、登校完了時間を示すチャイムが鳴り響いた。
駆け込みで入ってくる生徒がちらほらいるが、直之はまるで来る気配がない。
ずっと学校の手前で鍵を探していた。
走ればまだ間に合う。こんなに近いのに。
この学校では、少しでも遅刻すれば昼休みにグラウンド20周という、厳しい校則があった。
故に沙耶香は彼に、早く校門を通るように声をかけようとした。
が、その時。
「工藤さんお疲れ様、私達ももう校舎に入りましょう。ホームルーム始まっちゃう」
風紀委員の女子生徒が手を引いてくる。
「ちょ、まだ生徒があそこに」
「あー、すごくいい生徒だけど、もう遅刻ね。あとは先生に任せましょ」
そう言って、女子生徒は沙耶香の手を引いたまま校舎に近づていく。
彼女はただ、自分を顧みず、ただひたすらに鍵を探す直之を見ることしかできなかった。
「大丈夫かい?学校、遅刻しちゃうよ」
「そんなん全然平気ですから。それより早く鍵を見つけないとですね」
そう言って、彼はまた老婆を安心させるために小さな笑みを浮かべる。
そんな彼の横顔見て、沙耶香は再び胸が高鳴るのを感じた。
───なんだろう、これ。すごくドキドキしてる。
彼の笑顔を見ていると、胸が熱くなる。
そして彼女はこの気持ちをなんとなく理解した。
とても些細で素朴だが、確かな優しさとあの淀みのない笑顔。
今まで、優しさを向けてきた人は他にも多くいたが、こんな感情は感じたことがなかった。彼はどこか他の人とは違う。そんな気がしてならなかった。
そう、何となくわかったのだ。
沙耶香は直之に恋をしてしまったのだと。
「あ、見つけましたよ!鍵!」
「ありがとうね、本当にありがとう」
直之は老婆に鍵を渡し、すぐに校門に走った。
校門には、まだ1人だけ教師が残っていた。
「おはようございます。すいません、遅れました」
「おはよう……先生としては遅刻にしたくないんだけどな。まあ校則は校則だから、悪いが昼休みはグラウンド20周な」
「はい」
そうして、直之は遅刻扱いで校舎に入っていった。




