ステラの不安
霧の発生原因は魔物だろうという俺の仮説は、もちろん推測でしかない。
何ら確証があるわけでもないし、当然俺の知らない異世界特有の異常現象という可能性もある。
けれど、今こうして霧を目の前にしてみても俺の考えは変わらない。
「この周囲のマナが極端に少ないな」
「うむ……どうやらおぬしの予想が当たったのかもしれんのう。何者かがマナを大量に消費する魔法を行使したとしてもこうはならん。ダンジョンではない場所に、マナを食い散らかす魔物が発生したと考えるのが自然じゃろうな」
「クリス、どんな魔物か予想出来るか?」
「さすがに情報が少なすぎるのう……」
「…………グランドイーター」
「え?」
その名前を呟くように言ったのはステラだった。
「聞いたことがあるわ。何でも喰らうという暴食の魔物の話。といっても実物を見たことはないけどね」
踊り子の仕事で世界中をまわっていたステラは、どこかでその魔物の話を聞いたことがあるらしい。
グランドイーターは食虫植物のような外見をしていて、大きな口と無数の触手を持っている。その触手で捕獲したものを片っ端から食べるだけでなく、周囲に存在するマナまで食べるのが他の魔物にない特徴なのだという。
確かにステラの語る特徴は、俺の想像する魔物と一致する部分が多い。
「クリスは知ってるか?」
「いや、初めて聞く魔物じゃ」
クリスは知らないらしい。となるとこれ以上の情報は望めないか。
しかし何というか、不思議と恐怖感が湧いてこない。
こうした状況に慣れてしまったのか、それとも楽観視しているのか。
どちらにせよあまり良くないことだとは思うけど、自分ではどうしようもない。
「……シン?」
突然ステラから声をかけられる。その声色は少しだけ怯えているように思えた。
「ん、どうかしたのかステラ」
「……あなたは、どうして笑っているの?」
「笑う? 俺が?」
言われて初めて、俺は自分が笑みを浮かべていることに気付く。
――まさかステラの怯えている理由が俺にあるとは思わなかった。
この状況の、一体何が楽しいというのだろうか。
……ああ、そうか。
これは、俺がこの世界に来てから、初めて自分の意思で行う冒険なんだ。
「ステラよ、シンは変な奴なのじゃ。世間も常識も何も知らん。気にするだけ無駄じゃ」
「……そうみたいね。といっても、世間知らずなのはクリスもでしょ?」
「ふむ? 何故じゃ?」
「だってクリスも私のこと知らなかったじゃない」
「いや、それは……おぬしの知名度に問題があるのではないかのう?」
「何ですって!」
俺が考え事をしている間に、そうして二人の追いかけっこが始まっていた。
本気で逃げようと思えばクリスが捕まるはずもないのだけど、今回は自分の失言を自覚しているのか、ほどほどの所でステラに捕まっていた。
ステラはクリスのよく伸びる両頬を引っ張りながら言う。
「ほら、もう一回言ってみなさいよ」
「おぬひの知名度に問題が――」
「本当に言わなくていいのよ!」
そんな微笑ましいやりとりを見て、ふと思う。
「何というか、緊張感がないよな、俺たち」
「その筆頭が何を言っておるのじゃ」
自分のことを棚に上げた俺に、呆れたように言うクリス。
そしておそらくはステラも同様の反応を返すだろうと思っていた――けれど。
「……ふふっ」
笑った。
この旅の間は、ずっと不安そうにしていたステラが、だ。
もちろんそれは不安が消えたから、というわけではないだろう。
「あなた達って、本当に変ね」
「む、それは儂もか?」
「みたいだな、複数形だし」
「……納得いかんのじゃ」
クリスは不満そうに頬を膨らませる。正直かわいいだけだった。
「だって、そもそも二人パーティーって時点で変じゃない」
「そうなのか?」
「ふむ、確かにパーティーは最低四人から組むものと言われておるな」
「じゃああと一人必要なわけか」
「私を数にいれないでよ……っていうか、そういう所よ。私が今まで護衛を依頼した冒険者ってもっとピリピリしていて、とてもじゃないけど冗談なんて口に出来る雰囲気じゃなかったの」
俺は他の冒険者を知らない。冒険者ギルドに何人かいたのは見たけど、そこまでちゃんと観察していたわけでもない。
でもまあ、何となく想像は出来る。
この世界で冒険者になるのはどんな人間が多いのか。
腕っ節に自信がある。それは間違いない。
けどそれ以上に、それでしか生きていけない人間なのだと思う。
腕っ節にしか自信がない。命をかける以外に、生き方が存在しない。
きっとそうした人間が、日々精神をすり減らしながら冒険者として生きている。
もちろん全員が全員そうではないだろう。
それでもステラの護衛任務みたいな、本来なら難易度の低い依頼を受けたその多くは低ランクの冒険者だったに違いない。
安全な依頼なんて、冒険者である以上存在しない。今日は無事に生き延びた。でも明日は?
そんな毎日を生きていて、ピリピリしない方がおかしいのだろう。
「最初はFランクの新米冒険者だからかなって思ったけど、そんな雰囲気でもない。上手く言えないけど、あなた達からは揺るぎない自信と、お互いへの信頼を感じるわ」
自信と信頼。
たぶんそれはドラゴンを倒したことから来るものだ。
俺だけでは倒せなかった。クリスだけでもそれは同じだ。
けれど俺たち二人なら、それが出来たのだ。
「明日のお祭りには死んででも行かなければならないって、そう思って覚悟していたのに。それでも今日死ぬかも知れないと思うと、私は怖くて仕方がなかった」
たぶんそれは、ステラが俺たちに初めて見せた心の内側だ。
世界中を旅する≪舞姫≫と呼ばれる踊り子。たぶん俺が知らないだけで、彼女は多くのものを背負って生きているのだと思う。
けれど、その心はやはり年相応の少女のものに違いない。
死ぬのは怖い。当たり前だ。俺だってつい最近死にかけたばかりだから分かる。
「それで? ステラは今でも怖いのか?」
言外に、今ならまだ引き返せることを匂わせる。
ステラが引き返すと言うなら、それもまた勇気のある決断だと思う。それは一度命をかけてでも譲れないと思ったものを諦めることだからだ。
「怖いわ。確かに今も怖い……けど、それでも私は、行かなければならないの」
けれどステラが選んだのは、もう一つの勇気ある決断だった。
「それに……あなた達なら、私をラドーム村まで連れていってくれるんでしょう?」
そう言ったステラのブラウンの瞳は前だけを見ていた。一切の疑いもなく、ただまっすぐに。
「ああ、任せておけ」
だからこそ俺も、ただまっすぐに言葉を返すのだった。




