アシュタヤ:月が震える
ニールたち四人は街道に沿って森の南部へと抜けた。出口の近くに死体が二つ、転がっていた。刀傷と思われる傷が身体のあちこちに着いている。アシュタヤはそれをセイクによるものだと判断した。敵は、やはり逃げようとした彼らを追っていたのだ。
セイクとレクシナは馬小屋の中にいた。だいぶ時間が経っていたおかげか、レクシナの顔色も良くなっている。セイクは帰ってきた面々を見て、嬉しそうな声を上げた後、訝しげに周囲を睥睨した。
「パルタのおっさんは?」
その言葉に、ニールの身体が震えたのを、アシュタヤは感じた。だめだ、と思いながらも力を使い、彼の心に触れた。暖かく、柔らかな形はそこにはなかった。冷たく、歪に硬化した心があり、アシュタヤは力を使ったことを後悔する。自分の体温でニールの凍り付いた心を溶かせないものか、と彼の左腕を強く握ったが、効果はなかった。
顔を上げ、彼の顔を見る。
光の消えた瞳に、胸がざわついた。
「僕が」とニールがぽつりと言った。「僕が殺した」
「はあ?」セイクは眉を顰める。「おい、ニール坊、お前、何言ってるんだ?」
「僕が胸を刺したんだ」
ニールの視線が少し前に移動する。そこには地面しかないが、アシュタヤには彼が何を見ているのか、すぐに分かった。〈腕〉だ。彼以外の誰にも見えない透明な〈腕〉を、彼は凝視していた。
セイクやレクシナは事情を知らない。ヤクバとフェンも同様だ。
ただ、アシュタヤだけはそのとき起こっていた真実を知っていた。
あのとき、アシュタヤはパルタとともにニールを探していた。そのときにはフェンもヤクバも帰ってきていたが、彼らの傷は深く、無傷だったのはパルタだけだった。二人は自分たちも行くと同行を願い出たが、パルタはそれを固辞した。どちらにせよニールの戦いが終わっているのは音で把握できていた。戦いが終わった後の森は静寂に包まれていて、おそらくはフーラァタもどこかへ消え去っている。
戦闘痕を追ってアシュタヤとパルタはニールを捜索する。アシュタヤは幼い頃にそうやって敵がいる場所の目星をつける方法を教育されていた。感知能力を組み合わせれば、人を見つけるのは容易い――生きてさえいれば。
アシュタヤはニールの生存を願ってはいたが、心の奥底ではそれを期待できない、と思っていた。フーラァタの悪意は強烈だ。自分以外の人間は無価値だと感じているような禍々しい形。臭うはずもないのに、腐臭すら漂っている気がした。
だから、ニールの形を感じたとき、心の底から安堵した。怪我をして弱っているのか、朧気ではあるが、間違えるはずもない。ずっとそばで寄り添ってくれた彼の形だった。
戦いは終わったのだと伝えなければならない。そして、怪我をしているならば早く応急処置をしてあげなければならない。
アシュタヤには彼の元へ向かうことしか頭になかった。パルタを促し、駆け足になる。
背後から敵の残党が現れたのは、ニールまであと少し、というところだった。残っている敵は少なく、それで自棄になっていたのか、現れた男は勢いそのままアシュタヤに斬りかかった。
どん、と横から衝撃が走った。
剣が、よろめいたアシュタヤのいた空間へと振り下ろされる。アシュタヤを押したパルタがそこへ飛び込む。剣と鎧が接触する音がした。剣はパルタの左肩を深く切り裂いた。
呻きながら、それでもなお、パルタは握り直した槍を突き出す。
その攻撃に怯んだのか、襲ってきた男は逃げ出した。湿った土に足を取られながら、森の奥へと消えていく。
止血の必要はない、とパルタは治療しようとしたアシュタヤを止めた。それよりも、と彼は男が走って行った先を指さす。それは紛れもなくニールがいる方向だった。助けてやらねば、とパルタは呟く。それが私の役目なのだ、と。
その真意は計りかねたが、彼の言葉に間違いはない。アシュタヤは知覚を再開する。
男の動きはニールに辿りつく直前で止まった。だが、ニールの方から男へと近づいている。彼らの姿は密集した木々に遮られていて、アシュタヤは走ろうとしたが、パルタに止められる。パルタはアシュタヤに「危険だからいったん待つように」と諭し、そして、その瞬間、心が一つ、消えた。
アシュタヤの身体がびくりと震える。
が、すぐに安堵した。残っているのはニールの心だった。
それをパルタに伝えたが、彼は訝り、辺りの警戒を始めた。「どこか遠くから流れてきた矢か魔法が当たったのかもしれない、隠れていてください」とアシュタヤを抑え、一人で奥へと向かっていった。焦りを感じさせる足取りだった。
パルタと離れ、数十秒後、彼の心が突如として小さくなった。範囲内に敵はいない。そばにいるのはニールだけだった。
遠くから攻撃を受けたのだろうか、だとしたら彼も危ない、とアシュタヤは走る。そして、目の前にあった光景に固まった。そこには子どものように狼狽し、涙を流しながら謝罪を続けるニールと、仰向けに倒れたパルタの姿があった。
敵はどこにもいない。パルタの胸にある大穴は普通の武器では開けられないようなものだった。ニールが顔を上げ、アシュタヤの姿を認める。
彼の心の形が融解するように、崩れた。
〇
馬車に乗ってセムークの街まで引き返すことになった。大きな怪我のないセイクとレクシナが御者台に座り、馬を操っている。レクシナの馬車にはフェンとヤクバが乗り込み、セイクの馬車にはアシュタヤとニールが乗っている。がたがたと揺れる馬車の荷台は暗く、陰鬱な気分になった。
「ニール、大丈夫?」
アシュタヤは右に座るニールに声をかける。止血帯で顔をぐるぐる巻きにしていたため、返答を期待していなかったとはいえ、頷きもしない彼の態度に胸が痛くなった。
彼は顎を固定されているにもかかわらず、ごめんなさい、と呟き続けている。
こんなとき、どんな声をかければいいのだろうか。
あの日、アシュタヤは初めて己の手で人を殺した。罪の意識でばらばらになりそうだった自分を支えてくれたのは、誰であろう、ニールだ。扉を破り、抱きしめ、自分を肯定してくれた。
アシュタヤは他に方法を知らない。怪我に触れないように、恐る恐る、慎重に彼を抱擁した。
「大丈夫、ニール、大丈夫だから、落ち着いて?」
小刻みに彼の身体が震えている。アシュタヤには彼の目が自分を見ていない確信があった。彼の目に映っているのはパルタの幻影だ。パルタが呪いの言葉を吐くはずもないのに、彼は自分の籠の中で謝罪を続けている。
しばらくすると、その謝罪も止んだ。
疲れで眠ってしまったのならいい、とアシュタヤは顔を上げるが、ニールの目は見開かれている。まさか、と考え、彼の手首に触れた。脈はあり、安堵する。
どうすればいい、と懊悩している内に時間は恐ろしい勢いで流れた。馬車が止まり、「到着したぞ」とセイクの声が聞こえて、アシュタヤはニールへと声をかける。
「ニール、着いたって。降りましょう?」
幌が開けられる。中間地点まで往復したせいで幌の外にあったのは夕暮れの残滓だけを残した濃紺の空だった。
セイクは荷台に片足をかけ、腕を伸ばしてくる。
「……ほら、こっち来い、おぶってやるよ」
物言わず従ったニールを背負い、セイクは急いで屋敷の中へと向かっていった。
アシュタヤは二人の背中を見送った後、荷台から足を下ろした。フェンとヤクバが無言でアシュタヤを見つめている。言わんとしていることは理解でき、彼女は無言で首を振った。それを見たレクシナが、困惑を煮詰めた表情でアシュタヤへと近づく。
「……ねえ、アシュタヤちゃん、ニールちゃん、大丈夫なの?」
レクシナの声は小さく、沈んでいた。もしかしたら彼女も自分に責任があると思っているのかもしれない。アシュタヤは努めて笑顔を装い、頷く。
「大丈夫ですよ、レクシナさん。怪我はたぶん、命に関わりません」
「それはいいんだけど、その……」
「……ええ、こればかりはたぶん時間がないと……」
「人を、その、初めてしたとき」とレクシナが言葉を濁す。「しばらくふさぎ込んじゃう奴も珍しくないけど、ニールちゃんは」
仲間であるパルタを。アシュタヤはその先に浮かんだ言葉を、頭を振って追い出そうとする。
玄関ではカンパルツォとウェンビアノが安堵の表情で帰還した者を迎え入れていた。彼らの表情も報告を聞いたら重苦しいものへと変わるだろう。
アシュタヤは空を見上げる。雲のない夜空には星が瞬き、月が出ていた。絶望を照らし出すような光が視界に滲んだ涙のせいか、小さく揺れていた。
〇
アシュタヤはカンパルツォとウェンビアノに呼び出され、彼らの居室にいた。事態の説明を求められたためだ。本来であれば護衛団の団長であるフェンの仕事ではあるが、彼もギルデンスとの戦いで傷つき、疲弊している。代わりになれるのであれば、アシュタヤも文句はなかった。
説明を終えると、彼らは深い溜息を吐き、項垂れた。
心がざわつき、アシュタヤは立ち上がる。
「あの、伯爵さま、ウェンビアノさま、ニールをどうか、責めないでいただけませんか……? あれはきっと事故だったのです」
「責めるつもりはありませんよ」
「え」
ウェンビアノの言葉にアシュタヤは返答に窮する。目を伏せる彼の声には悲しみはあったが、衝撃はなかった。
「パルタが――亡くなることは彼自身から知らされていました」
「それは」とアシュタヤは早口になる。「それは、どういう」
「昨夜、あやつから文を渡されてな……出発してから開けろ、ということだった」
カンパルツォは封の切られた手紙を渡してくる。
そこには予言じみた言葉とともに、感謝と謝罪、遺された財産の用途――つまり、遺言が記されていた。
「これは……」
「あのジオールから聞き及んでいた、とあります。パルタは自分がどのように死ぬか知っていてなお、戦地へと向かった」
「馬鹿な奴だ……逃げてしまえば良かったものを……。家族がいないことだけが、唯一の救いだ。散々妻を娶れと言ってきたが、こうなった今はあいつが家族を作っていなかったことをありがたくも思っている……」
カンパルツォは唇を噛みしめ、上を向いた。堪えるように身体が揺れていたが、まなじりからは涙がこぼれている。
「アシュタヤ嬢、パルタの最期は見届けたか?」
「……いえ、直接は」
「……そうか」
「ただ、パルタさまはずっと私を守っていてくださいました。あのときも、私をかばい、傷を負わせてしまって」
「……そうか。あやつの遺志だ、いつまでも下を向いているわけにはいかんな」
カンパルツォは太い腕でぐっと涙を拭った。
彼とパルタはアシュタヤが生まれる以前からの付き合いだったという。それだけに虚勢も含まれているかもしれない。だが、彼は強い目つきで、それ以上涙を見せず、「先」を見据えていた。
「彼の遺言には続きがあります」
淡々と話すウェンビアノの声もいつもより沈んでいる。
「一つはアシュタヤさま、あなたと同じ、ニールを責めないこと。そして、もう一つは必ず悲願を成就させること……私たちに悲しみに暮れる時間はありません」
「では」とアシュタヤは窺う。「明日にはもう出発になるのですか?」
答えたのはカンパルツォだ。「そういうわけにもいかんな。フェンくんたちも万全ではない。表だった妨害は少なくなるだろうが、少しでも傷を癒やさなければ。それに……ニールも」
「……ええ、できればパルタさまのお言葉を一刻も早く伝えたいところですが、いちばん負傷しているのもニールです。目が覚めるまで待つしかありませんね」
「まあ、諸々含めて明日は小休止だ。……そこでアシュタヤ嬢、頼みがあるんだが」
「私にできることならば何でも」
「ああ……、明日、朝になったらパルタの亡骸を迎えに行こうと考えておる。案内してはくれないか」
カンパルツォの頼みは予想していたものだった。軍属だった頃から、同じような依頼をされた経験が何度もあったからだ。アシュタヤの力ではそれを成し遂げることができないために、罵倒されたこともある。今回はそうならないように印はつけてきていた。
「それは構いませんが、その、道中の護衛はキーンさんとロディさまだけですか?」
「いや」とウェンビアノが首を振る。「彼らも連れて行きますが二人だけでは心許ないのも事実です。傭兵はどこにでも彷徨いていますから、彼らを一時的に雇うことにしました」
「え」
いつの間に、と訊ねかけ、アシュタヤは口を噤む。そうだ、彼らは知っていたのだ。長いときをともに過ごしてきた仲間がいなくなることを覚悟していた。
しかし、キーンとロディは知っているのだろうか、とアシュタヤは不安になる。彼らはパルタを敬い、年の離れた友人のように仲が良かった。大事な人がいなくなる喪失感はそのときが来なければ分からない。
アシュタヤは自分の心に触れる。パルタの分だけ空白ができた心は、穴があるはずなのに重さを増していた。
明朝の打ち合わせはしばらく続き、それが終わったあと、アシュタヤは気になっていたことを口にした。
「あの、ニールは、これから」
その後の言葉は思い浮かばなかったが、二人には伝わったようだった。彼らはほとんど同時に頷く。
「馬に縛り付けてでも連れて行きますよ」
「ああ、あやつはあやつ自身が考えているより、ずっと重要だ」
「……それは、ニールの、超能力があるから、でしょうか」
もしそうなら、彼はこの旅から降りるべきだと思った。人は力ではなく、本人が求められるべきだ。力を当てにされ、望まぬ状況で戦い続けても幸せにはなれない。それはアシュタヤ自身がよく知っている。
だから、カンパルツォとウェンビアノがニールの力だけを望み、ニールが旅への同行を拒んだならば、彼に平穏な生活を与えた方がいい。
だが、彼らから返ってきた言葉は簡潔で、アシュタヤが期待していたものだった。
「ん、ああ、それもある」とカンパルツォは思い出したかのように頷く。「だが、それ以上に大事なものもある。……ニール自身は自分を過小評価しているようだが、あやつには才能がある。人の輪の中に入る才能がな」
「人の……輪の中に入る才能、ですか」
「それはアシュタヤさま自身がいちばん知っているのではないのですか?」
ウェンビアノの目はすべてを見通しているかのように深く、慈しみのあるものだった。誰かの口から聞いたのか、それとも彼自身が悟っているのか、分からないが、アシュタヤがニールへと向けている感情を知っているかのようだった。
カンパルツォも同様だ。まだ瞳には悲しみが残っていたが、口元には微笑みが滲んでいる。悲痛をごまかすような笑い方ではあったが、そこには明らかな慰めがあった。
「ニールは優しく、他人の気持ちを慮ることに長けている。だが、それでいて、年長のものにも物怖じせん。おれやウェンビアノにはさすがに勝てないようだが」
「若さとこれまでの環境からか、経験すべきことを経験しておらず、迷惑をかけてくることもありますが」ウェンビアノの口も少しだけ緩んでいた。「彼には人に安らぎを与え、冷静に考える頭があります。超能力を見て思わず拾ったのですが、得たものはそれ以上でした。だから、私たちは彼を見守り続けようと考えています」
「約束もしたしな……それに、恩もある」
「恩……ですか?」
アシュタヤの問いに、ウェンビアノが深く頷いた。思い返すように天井を見上げ、しみじみと長く息を吸った。
「収穫祭の前日、『水渡り』が行われていたでしょう」
ああ、とアシュタヤは初めてニールと出会った日のことを思い出す。
カンパルツォの父親が領主を務めていた頃に起こった戦で、あの堀は城に攻め込もうとしたすべての敵兵を跳ね返したという。
その堀を、ニールはいとも容易く飛び越えた。アシュタヤはその姿を誰よりも近くで見ていた。陽光を浴びた彼の金の髪はきらきらと輝き、見たこともない白い召し物も相まっておとぎ話に出てくる妖精のようにも感じていたことを思い出す。
その後、呆気なく地面に落下してその衝撃で気を失ってしまったけれど、彼の姿はアシュタヤが目にした光景の仲でもっとも美しいものの一つだった。
「あのとき、私とレングさんもその姿を見ていました。確かにそれは彼の持つ超能力によるものなのかもしれない。ですが、思ったのです。私たちの半分も生きていない若者が誰も越えることのできなかった堀を飛び越えた。ならば、私たちもやらねばならない、と」
「……そうでしたか」
アシュタヤはもう下を向かない、と決めた。笑顔を作り、強く頷く。
彼は堀を越え、扉を壊した。それによって自分たちは目標に向き合い、一歩踏み出す勇気を得た。彼のように自分も強くならなければならない。
辛いこともあるだろう。どんなに言葉を尽くしても彼は自分が犯した罪を許さないだろう。いつの日か、それを飲み込める日が来るまでそばで支えたい、と彼がそうしてくれたように、自分もそうしようと、決意した。




